2012年3月23日金曜日

永禄12年(1569)9月~10月 信長の伊勢平定 信長と義昭の対立 「上意(義昭)とせり合ゐて下り了んぬ」 [信長36歳]

東京 江戸城(皇居)東御苑 2012-03-21
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永禄12年(1569)
9月1日
・ロシア、イヴァン4世(雷帝)の2番目の妻マリア、没。毒殺の罪を従弟に着せ一家を処断。
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9月2日
・後奈良天皇13回忌懺法講、伏見般舟三昧院において行われる(「御湯殿上日記」同日条)、山科言継も列席(「言継卿記」同日条)。
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9月4日
・松永久秀、井戸表へ帰陣。
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9月7日
・甲賀衆・伊賀衆、相催し一揆。
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9月8日
・信長、稲葉一鉄・池田恒興・丹羽長秀3将に大河内城西搦手口から夜襲させる、失敗。
9日、滝川一益に多芸谷(美杉村)の国司御殿その他の建物を焼き払わせ、田畑を薙ぎ、住人を大河内城に追いやる。(「信長公記」)
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9月10日
・武田信玄、西上野に入り、北条氏邦の武蔵鉢形城(埼玉県寄居町)を攻撃。
頑強な抵抗により攻略を諦め南下、下旬、北条氏照の滝山城(八王子市)に殺到。
都留郡から出動の小山田信茂が信玄に合流。
氏照、将兵1700余を率い防戦。
信玄は城攻めを中止、関戸(多摩市)で多摩川を渡り、小田原へ向かう。
10月1日、小田原城を包囲、城下に放火。氏康父子は籠城策を採る。
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9月16日
・今井宗久、河内牧郷名主・百姓中へ、野尻備後守が催促にもかかわらず借銭を難渋しているため信長に訴訟したところ、野尻備後守の知行を「押置」きすることになり、上使衆として坂井政尚・木下秀吉の折紙で通達することを通知(〔「今井宗久書札留」)。
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10月
・上杉謙信、神保家中の反上杉派鎮圧のため、神通川を渡河。
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・反上杉派神保長住(長職の嫡子)、越中を追放される。
翌年、京で織田信長に仕える。
寺嶋職定は居城池田城に篭るが、やがて謙信に降る。 
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10月3日
・フランス、モンコントゥールの戦い。
国王軍、ユグノー軍に大勝。
コリニー、ナヴァールより凱旋したモンゴメリーと合流すべく南下。
国王軍アンリ、コリニーがモンゴメリーと合流する前に、モンコントゥールでユグノー軍を攻撃。
コリニー、ドイツ騎兵を打ち棄て逃亡。
タヴァンヌ元帥が実質的功労者。
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10月4日
・武田信玄、小田原から撤兵開始。
武田勢が津久井~甲州へ向かうと察知した氏康、出陣態勢を整えるとともに滝山城の氏照、鉢形城の氏邦・北条氏勝・北条綱成など兵2万を先回りさせ、武田勢の退路遮断を命じる。
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10月4日
信長、伊勢平定
伊勢国司北畠具教・具房父子、城を退去。
和議を結び大河内城開城(信長次男信雄を具教の養子とする)、笠木へ落ちる。
信雄補佐として滝川一益・津田一安がつけられる。
信長、田丸城(玉城町)はじめ伊勢国内の主要な城の破却を命令。
1575(天正3)年、信長、北畠家に圧力をかけ信雄に家督を譲らせる。その翌年、具教はじめ北畠一族を誅殺


「国々城々破却」、つまり城制指令と「当国の諸関」撤廃令とを以て終結した伊勢北畠氏攻撃も、一方では「川内」世界の中枢長島に対する包囲作戦の一環
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10月4日
・朝廷、山科言継を通じ女房奉書を下し、後奈良天皇13回忌に2万疋を謙譲した家康・信長へ充分に謝礼を尽くすように命じる(「言継卿記」10月10日条)。 
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10月5日
・信長、伊勢神宮に参宮。
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10月6日
三増峠の戦い
北条氏康の子氏照・氏邦ら、退却中の武田軍を攻撃。
武田軍、北条軍に勝利。真田昌幸(23)、相模三増峠の戦いで使番を勤め、一番槍の功をたてる。
7日、信玄、甲府に戻る。

北条綱成勢が武田方武将浅利信種(譜代家老、箕輪城代)を討ち取るなど初戦は北条勢優勢。
態勢を立て直し再度攻勢に転じた武田方山県昌景率いる別働隊に側背を突かれ、北条勢は崩れ、追撃軍到着を待たずに大きな被害を出して敗退。
主力の追撃軍1万を率いた氏康・氏政父子は戦場まであと数キロの荻野付近まで進出、戦場に急行しつつあったが間に合わず。
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10月8日
・信長、上野へ出て、軍勢を解く。御茶筅を大河内城主とし、介添えに津田掃部を置き、安濃津・渋見・木造3城には滝川一益の人数を入れ、上野には織田信包を封じる。
10日、伊勢の関所を撤廃。関銭徴収を禁じる布令を発す。
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10月10日
・上杉謙信、北条氏の執拗な関東出陣の要請に応じ8度目の関東越山。下野唐沢山に布陣して動かず。
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10月11日
・信長、千種峠を越えて上京。伊勢平定について義昭に報告。
13日参内。
17日、予告なく岐阜へ帰国。
この時、信長と義昭の間に意見の相違(「セリアヰ」)が生じる(「多門院日記」)。そのため、信長は帰国を早める。正親町天皇は信長の急な下向を心配して女房奉書を下す。


「上意(義昭)とせり合ゐて下り了んぬ」(「多聞院日記」10月19日条)。
幕府は遠国大名に対して一定の軍事権・紛争調停権を有しているが、これが義昭・信長衝突の原因。

在京して将軍親裁権を阻止できる政治機構を構築する必要があるのに、管領さえ返上し、岐阜で義昭を操ると考えている信長の認識不足(今谷)。
信長はもはや義昭との関係悪化の風評が立つことを隠そうとしなくなっている(立花)。
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10月11日
・大内家の庶子・大内輝弘、大友義鎮の後援を得て秋穂に上陸、山口奉行井上就貞及び藤井淡路守の軍を撃破。12日、大内輝弘のもとに旧臣が馳せ参じ3千となる。輝弘軍の攻撃で高嶺城は陥落。同じ頃、尼子氏の遺子尼子勝久は山中鹿之助に擁立され、大友氏の援助を受け、兵5千で出雲に乱入、月山富田城に進軍。この事態に、長府本陣の毛利元就は、立花表布陣の毛利両川に撤退を命じる。
毛利領内は尼子・大内の残党乱入で混乱。石見国人勢は津和野三本松の吉見広頼、佐波隆秀、益田藤兼、小笠原長旌が毛利側、敵対したのは周布晴氏(元兼の従兄)・三隅隆繁・福屋残党(当主・隆兼は1562年、吉川元春に敗れ京へ逃走)。
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10月12日
・武田信玄、領国内領主・地侍宛てに詳細な軍役定書を与え、軍備強化と出陣要請。
11月28日の第2次駿河侵攻の準備。 
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10月12日
・フランス、サン・ジャン・ダンジェリの戦い。新教軍が勢力を挽回。国王軍が窮地に立つ。
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10月14日
・松永久通・竹内秀勝、上洛。 
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10月15日
・信長、義昭令により伊勢貞知領地の丹波桐野河内村半分・保津保半分・保津保毘沙門村集慶分半分・水尾村半分、摂津溝杭村地頭名半分を安堵(「伊勢文書」)。
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10月17日
・村井貞勝家臣中村良政、山城富坂荘名主・百姓中へ、信長朱印状及び貞勝添状により清和院領として安堵された旨通達。
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10月19日
・スペイン、フェリペ2世、グラナダのモリスコに対する徹底的な弾圧を宣言。
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10月20日
・吉川元春、急遽筑前岩屋城から福原貞俊・熊谷信道ら兵1万を率い山口の大内輝弘攻撃に向かう(小早川隆景は長府に残る)。21日、立花城守備兵撤退。
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10月24日
・信長と天皇の懸案③(山門領横領問題)。
延暦寺座主応胤入道親王、宮中長橋局に信長が没収した山門領の返却を命じる綸旨を出すことを求める。
同じ頃、山門大衆も神輿を担出す構えを見せる。
25日、応胤、寺領還付綸旨発給を重ねて天皇に迫る。
26日、信長宛綸旨発給。
11月11日、日乗の名で、山門に対し綸旨実行(「御請の勅答」)を誓約する旨申し送る。
この時期、信長は禁裏と表立って事を構えぬ方針。
11月、山科言継が禁裏領貢租回復の請願に岐阜城に赴いた際、武井夕庵は、信長は京都の訴訟には関与しないと申渡す。5月の信長・義昭間の条書で、朝廷対策は義昭に委ねている(「禁中の儀は、毎事御油断なきように」)。 


青蓮院・妙法院・三千院の3門跡(皇族)から交替で比叡山天台座主を出す。
信長と山門との戦いは信長と天皇との戦いという様相を帯びる。
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10月24日
・十市遠勝(遠成)、没。十市氏家中が松永・筒井2派に分裂。
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10月25日
・吉川元春、大内輝弘を浮野峠に破る。大内軍兵、毛利軍が九州から大返ししたため離散。大内輝弘は豊後に引き揚げる船が得られず、茶臼山山城に篭もるが、吉川元春に攻められ自刃。討死600人。元春はこれを長府の海岸に埋め、豊後塚と呼ばれる。山口の動乱鎮まる。
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10月29日
・元就・輝元・隆景ら、長府の本陣を撤収。周防国府で論功行賞を行い厳島神社に戦勝を謝す。後に安芸吉田郡山城に戻る。
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10月29日
・松永久秀、多聞山城下の法蓮郷に市を立てる。
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