2012年4月14日土曜日

永禄13年(1570)1月~2月信長、将軍義昭に5ヶ条の条書を突き付ける(義昭傀儡化を決定付ける) [信長37歳]

東京 北の丸公園 2012-04-12
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永禄13年(1570)
この年
・信長37歳、光秀43歳、秀吉35歳、家康29歳
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・ポルトガルの3代目ブラジル総督メン・デ・サ、インディオの奴隷化禁止令を公布。
イエズス会にインディオの教化村を作らせ保護し、アフリカから黒人奴隷を輸入する政策に転換。
インディオ反乱やイエズス会のインディオ奴隷化反対のため。
この年1570年~1670年に輸入された黒人奴隷は40万。
奴隷貿易は国王独占であったが、73年から契約制(アシエント)により民間に権利譲渡。

ブラジル、「砂糖の時代」に入る。
砂糖はリスボン、アムステルダムに輸出。ヨーロッパ・ブラジル・アフリカの三角貿易形成。
ブラジル、アフリカは砂糖産業・奴隷貿易を通じてヨーロッパ経済に組込まれる。
ポルトガル人の関心もインドからブラジルに移る。
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・フランス、カトリーヌ「女王の館(別名オテル・ド・スワソン< スワソン御殿> )」、建設開始(1871年パリ・コミューンで焼失)。
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・スペイン、フェリペ2世、オーストリアのマキシミリアン2世娘アンナと結婚(4回目)。アンナも80年に没。
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・ロシアとスウェーデン開戦。
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1月
・宇喜多直家3千・尼子勝久方村上綱平2千、備中幸山城(石川久貞)を攻略。
ついで、石蟹城・甲籠城・砦部・佐井田城、攻略。
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1月2日
・ロシア先発隊、ノブゴロド城壁下に到着。逃げ出せないように周囲に柵をめぐらせる。
7日、イヴァン4世(雷帝)、ノブゴロドで身代金を払えない僧侶を処刑。
8日、イヴァン4世(雷帝)、ノブゴロド入城。翌日から住民を虐殺(1万5千、1万8千、2万7千、6万とも)。次にブスコフに向かうが何もせずにモスクワに戻る。
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1月6日
・毛利輝元、元春・隆景ら6千余を率い出雲遠征に出発。
28日、尼子氏の属城多久和城を攻略(2月9日との記述も)。
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1月8日
・武田信玄、氏真家臣の大原資良の拠る西駿河の花沢城(焼津市)を包囲、籠城20日後降伏。
敗れた資良は高天神城へ脱出。真田昌幸(24)、駿河花沢城攻めに参陣。
26日、徳一色城(藤枝市)も城兵逃亡、開城。
2月中、信玄、清水湊に滞在し江尻城構築・水軍編成・駿府近辺の仕置。
下旬、甲府に戻る。

27日付で、信玄、土屋木工左衛門に判物を与え、前年末、久能山城に籠城し海賊奉公した褒賞として、江尻・駿府近辺15ヶ所の知行地を与える。
また、2月20日、土屋豊前守貞綱の寄進した草薙の地を安堵。この土屋は、第1次駿河侵攻の際に武田方に帰属した今川水軍の船奉行で土屋に改姓、武田水軍編成に従事。
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1月10日
・多聞院英俊、信長命で元日より伊勢の関所が撤廃されたことを知る(「多聞院日記」2)。
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1月11日
・上杉輝虎(41、謙信)、佐野昌綱の下野唐沢山城を攻め、これを北条氏康に報じ、武蔵岩槻城を太田資正に返還するように要求。
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1月23日
・スコットランド、「良き摂政」と評判のマリ伯ジェイムズ・ステュワート、ハミルトン一族に暗殺。ハミルトンはイングランド軍により成敗。
次の摂政は4代レノックス伯マシュー・ステュワート(ダーンリー卿父、国王ジェイムズ6世祖父)。
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1月23日
信長、改めて足利義昭に5ヶ条の条書を突き付ける(義昭傀儡化を決定付ける)。
①御内書の発給を制限(信長の了解を必要とする)、
②これまでの命令(知行宛行・安堵)は全て無効、
③義昭からの恩賞に信長の援助・介入を認めさせる、
④「天下の儀」を信長に任せたので、信長は義昭の許可無く誰であれ成敗できる、
⑤天下静謐・禁中への奉を油断してはならない。
将軍としての行動を封じ込め。
明智光秀・朝山日乗が仲介。

また、この日、5畿内近国21ヶ国諸大名に対し触状を出す。
「禁中御修理、武家御用(義昭への支援)、その外、天下いよいよ静謐」の3項を実現するため来月中旬に上洛するので、これに合わせて上洛・参礼せよと記す。
天下静謐の実現(信長が将軍と同等の権限を執行することを意味する)。
この命令によって上洛することは、幕府への臣従と信長に対する服属を意味する
上洛を拒否した朝倉氏は、信長に討伐の大義名分を与えることになる。
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1月下旬
・北畠具教(43)、織田信長より上洛の触状を受ける 。
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1月下旬
・浅井長政、信長より書状を受け取るが、各地の大名には「徳川三河守殿」など敬称付きだが、「浅井備前」と呼び捨てられ、家臣扱いされ、信長への不信感つのる。
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2月
・フランス、カトリーヌ・ド・メディシス、コリニーに和平提案。
コリニー、ラングドックで戦争再開、後、ローヌ河を北上。
コリニー、幾度の失敗や暗殺の試みにより、これまで以上の残忍且つ凶暴な人間となり、軍の通過した後は無惨な「廃墟」や累々たる「屍の山」が築かれる。
コリニー、カトリーヌに次の要求
(王国全土における新教礼拝の完全なる 自由。没収された財産の返還。カレーとボルドーの割譲)。
カトリーヌの回答はラ・ロシェルとモントーバンとサンセールの3都市を与える。
コリニー、ラ・シャリテ・シュル・ロワールまで攻めのぼりパリをも窺う気配。
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2月2日
・足利義昭、参内。
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2月14日
・毛利輝元、山中鹿介幸盛らの尼子軍(尼子勝久・山中鹿介ら)6,700と出雲能義郡布部山で交戦、これを破る。
15日、輝元、富田城に入城。守将天野隆重の戦いぶりを賞す。
24日、末次城を陥す。
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2月15日
・本多忠次、家康判形を受けて全徹和尚へ三河東漸寺住持職を安堵(「東漸寺文書」)。
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2月16日
・竹内秀勝・柴田勝家・蜂屋頼隆・野間長前・森可成・坂井政尚・佐久間信盛、摂津本興寺へ、飛鳥井雅敦の申請を受けて信長より陣取免除が「許容」された旨を通達(「本興寺文書」)。
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2月17日
・今井宗久、某所湊村惣中へ、湊村の吹屋(鍛冶屋)を我孫子・五ヶ荘に召致せよとの信長指令を通達(「今井宗久書札留」)。
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2月18日
・北條氏康・氏政、佐野在陣中の輝虎(41、謙信)に起請文を送り、信濃・上野への出陣依頼、岩槻城を太田資正に返還、人質を交換する事を約束。謙信は北条氏の要請により関東に出陣したものの南下の気配なし。
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2月22日
・松永久秀(61)、大和辰市城に井戸良弘を攻める。
24日、松永久通・竹内秀勝、在京中の信長に出仕。
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2月25日
・信長、岐阜発。
翌日常楽寺まで進み、しばらく滞在。
30日、入京。家康随行、三好義継・和田惟政・松永久秀らも京都に集結。
公家衆・奉公衆が堅田・坂本・山中などで迎え、上下京の地下人は1町につき5人が京都郊外の吉田まで迎え。

『言継卿記』は、「上下京地下人一町に五人ずつ、吉田まで迎えにまかりむかう」と伝えている。
「上下京地下人」=惣町が信長を出迎えている。

信長は「上京驢庵にいたって御寄宿」(『信長公記』巻3)。
『言継卿記』3月1日条も、「信長、半井驢庵の所へ行かる」とある。
半井驢庵は、この時期の京都を代表する医師。
信長が町屋に宿泊するのはこれが最後で、この年8月23日に本能寺に寄宿して以降は、洛中の寺院に寄宿するかたちへとそのあり方を変えていく
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2月25日
・ローマ法王ピウス5世、英エリザベス1世に対して「エリザベス破門教書」発行。「不義によって生まれた私生児」と呼ぶ。
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2月末
・武田信玄方の西上野衆、秩父郡に侵攻。
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