2012年5月16日水曜日

永禄13年/元亀元年(1570)5月 信長、千草山中で杉谷善住坊に鉄砲で狙撃される  [信長37歳]


東京 江戸城(皇居)東御苑 2012-05-08
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永禄13年/元亀元年(1570)
5月
・北畠具教(43)、出家。天覚または不智斎と称す 。
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・トルコ、キプロス島割譲要求してヴェネツィアに宣戦。
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・エーセル島君主・デンマーク王フレデリック2世弟マグヌス(イヴァン4世により未だ手中にないリヴォニアの王に選ばれた)、モスクワ訪問。
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・イングランド、リドルフィ事件。ロベルト・ディ・リドルフィ、エリザベス女王廃位陰謀企て。
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5月初旬
・武田信玄2万5千、川中島へ急行。輝虎出現せず。
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5月1日
・金ヶ崎からの退却軍の殿軍の木下勢、山国街道途中峠を越え大原・八瀬へ。
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5月1日
・在京中の信長は5月1日に御所の工事を視察。
3日には朝廷に白瓜を献上した。また多くの公家衆の見舞いを受けた(「言継卿記」など)。
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5月3日
・山科言継・松木宗房・三条公仲・白川雅朝・中原師廉ら、信長を訪問。
林秀貞が申次、家康・畠山高政・松永久秀らにも面会。坂井好斎より談合子細が説明。
家康以下3名に「飯」が振る舞われる。三好義長からの音信が届くが披露されず。
5日にも山科言継は信長を訪問。見参無く金森長近に申し置く。(「言継卿記」4)
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5月6日
・明智光秀・丹羽長秀、若狭より針畑越えの道を京へ戻り、信長へ復命。
若狭・武藤上野守友益に人質供出を要求、交渉の末、武藤の母親が信長のもとへ人質として差し出され、武藤の城は破却。
この時、稲葉一鉄親子・斎藤利三は江州守山に駐屯し近江警固にあたる。
そこへ一揆蜂起。へそ村を焼き守山へも焼討ち。しかし稲葉は町の諸口を支え、逆に敵を追い崩し数多討取。丹羽長秀が若狭を支配する伏線がこの時張れれる。
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5月7日
・信長、木下藤吉郎に感状を贈る。二条城大広間。森可成に近江志賀城・宇佐山城在番を命じる。
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5月7日
・信長、柴田勝家・坂井政尚へ、前年義昭下知と信長朱印により安堵された愛宕権現神供料所の外畑村を広田の渡部太郎左衛門尉が違乱したが、これ中止しなければ成敗すべきと命令(「愛宕山尾崎坊文書」)。
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5月9日
織田勢2万、京都発。六角・一向一揆制圧し信長の岐阜帰路確保のため
堺の豪商今井宗久が信長に火薬を調達。途中志賀(大津市)・宇佐山(大津市)の城に森可成を残す。
12日、永原(野洲町)着。数日間滞在して、琵琶湖南岸に武将を配置。永原に佐久間信盛を置き、長光寺(江八幡市長光寺町)に柴田勝家を入れ、安土に中川八郎右衛門を残す。
15日、蒲生賢秀・氏郷の「当知行分」安堵。5510石の領知目録下す。
17日、永田景弘に浅井氏・六角氏の一揆に参加した九里三郎左衛門(永田景弘舎兄)の没収地・与力・家来・寺庵方を宛行う(「武家雲箋」)。

この頃、江北の浅井氏の離反だけでなく、甲賀郡に退いていた六角氏が琵琶湖近くまで進出。
信長にとっては、近江平定どころではなく岐阜・京都間の通路をで塞がれかねない事態。

信長は、稲葉良通を守山に派遣。
稲葉は、六角方となって守山を襲った土豪たちを撃ち破り、なんとか琵琶湖沿岸を確保した

信長は、京都出発に際し、義昭には、敵の攻撃があればすぐに再上洛する、勅使の山科言継には、皇居の修理は奉行に続行を命じていると伝える(『言継卿記』)。

■元亀年間の信長の近江支配体制
①この年3月以前、森可成(宇佐山、大津市)→明知光秀(坂本、大津市)、
②この月、佐久間盛信(永原、野洲町)、
③この月、柴田勝家(長光寺、近江八幡市)、
④この月、中川重政(安土、安土町)、
⑤翌年2月、丹羽長秀(佐和山、彦根市)、
⑥この年6月、木下秀吉(横山、長浜市)。
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5月11日
・朝倉軍(義景の代理、景鏡かげあきら)、ようやく信長を追って近江への進撃を開始。
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5月12日
・松永久秀・竹内秀勝、大和国へ帰還。
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5月14日
・武田信玄、北条氏政・今川氏真と駿河吉原千本松原・沼津で戦う。
里見義弘、援軍を出して伊豆・小田原付近を攻撃。
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5月15日
・イエズス会日本布教長トルレスの後任として、イエズス会巡察使のフランシスコ・カブラルが肥前天草郡志岐浦に来航。
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5月16日
・メハエル・デ・レガスピ司令官の遠征隊、マニラに上陸。
24日、ムスリム王ラジャ・ソリマンの支配するマニラを攻撃。6年かけてフィリピンを支配下に置く
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5月18日
・家康、岡崎に帰城。
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5月19日
・信長の美濃帰国阻止を狙い、浅井長政は鯰江城(滋賀県愛東村)に軍勢を入れ、同時に市原(永源寺町市原野)に一揆を蜂起させる。
信長は近江路経由を断念し、日野の蒲生賢秀・布施藤九郎・香津畑(永源寺町市原野)の菅六左衛門の尽力で得て経路を近江から伊勢へ抜ける千草越えに変更。
千草山中で佐々木承禎の依頼を受けた杉谷善住坊に12、3間の距離から鉄砲で狙撃、失敗
21日、信長、岐阜帰還。
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5月21日
・柴田勝家在番長光寺城に一揆勢襲来、本丸残すのみとなる。
6月4日、柴田勢夜襲勝利。織田勢、湖東・湖西掌握。
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5月23日
・松永久秀・久通父子、5~6年ぶりに大和国春日大社へ社参。
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5月25日
・信長、遠藤胤俊・遠藤慶隆へ、近江北郡への出陣に際し6月28日以前に岐阜まで出頭を命令。人数は老若を問わず多勢を率いるべきこと、功績次第では訴訟している内容も了承する旨を通達。鉄炮については塙直政・丹羽長秀より指示ありと通知(「武藤文書」)。
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5月25日
・丹羽長秀・塙直政、鉄砲調達の奉行を務める(「武藤文書」)。
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