2012年5月19日土曜日

永禄13年/元亀元年(1570)6月19日 信長の近江出陣。 姉川の戦い前夜。   [信長37歳]

東京 北の丸公園 2012-05-14
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永禄13年/元亀元年(1570)
6月
・信長、郡上八幡の土豪遠藤氏宛押印状。
江北作戦を開始するので岐阜に集結せよ。このたびの作戦は、天下のため、信長のためだ。
人数は老若を選ばず、分在以上に奔走せよ。
鉄砲のことは、別に奉行人を通して指示する。
①「天下のため、信長のため」は以降常套句となる。天下という合理性・正当性を理由づける。
②分在に応じた動員の原則。
③鉄砲は織田権力が調達・供給する機動性。
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・松永久秀、筒井順慶支配の十市城攻撃。
7月下旬、筒井順慶入城のため久秀勢対陣。
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・家康(遠江攻略を進める)、岡崎城を嫡男信康に譲り、居城を遠江引馬城に移し、これを拡張、浜松城と改め入城。
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上旬
・武田信玄、笛吹峠越え西上野乱入。
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6月1日
・四辻公遠、中納言に昇進(「言継卿記」4)。
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6月4日
・六角承禎・承賢父子、江南で一揆を扇動し野洲川河岸に進出。
これに対し柴田勝家・佐久間信盛・「江州衆」進藤賢盛・永原重康らが応戦、六角軍を野洲川北岸まで引き寄せ落窪の郷(野洲郡中主町乙窪)で破る。三雲定持ほか伊賀・甲賀780余を討取る。
「瓶割り柴田」の由来の戦となる。
江南は鎮静化。
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6月4日
・秀吉、堺の今井宗久に火薬・煙硝の調達を依頼(「岩淵文書」)。
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6月4日
・武田勢、深沢城を攻める。北條氏政、安西氏の戦功を賞する。
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6月5日
・武田信玄方の西上野衆、武蔵御嶽城(神川町)を攻略。城主平沢政実は信玄の調略により投降開城、名を長井豊前守を改め本領を安堵される。
神流川を越えて武蔵側に武田氏の拠点が確保され、西上野の箕輪領支配も安定。
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6月6日
・松永久秀・久通父子、大和国福住城を攻撃。
14日、松永久秀、大和国郡山衆の大部分を「生害」させ郡山城を攻略。
26日、久秀・久通父子、郡山より帰還。
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6月6日
・信長、武田信方へ、近江北郡出陣には義昭「御動座」があるため参陣を督促(「尊経閣文庫所蔵文書」編年辺之部483)。
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6月10日
・六角義賢(承禎)、一揆勢率い近江修理大夫の居城を攻撃するが「いけ取」にされる(「士林証文」3)。
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6月16日
・信長、明智光秀へ、降伏した三好政勝に本領の摂津豊島郡榎並を給与したが、伊丹親興所領が近いためこれとの交換を諒承させるよう命令(「福地源一郎氏所蔵文書」)。
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6月16日
・武田信玄、駿河再侵入。古沢新地(北条綱成健闘)から伊豆三島転陣。
24日、富士山麓大宮城攻撃、降伏開城。
更に伊豆南下。
北条氏猛烈反抗、途中帰国。
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6月19日
信長の近江出陣
信長、尾張・美濃・伊勢2万5千、家康にも加勢を求め、浅井長政討伐のため岐阜進発。
直前に近江の有力国衆堀秀村(鎌刃城主:坂田郡米原町、美濃・近江の境目)・樋口直房(長比(たけくらべ)城主:坂田郡山東町)を調略
この日、長比城に入る。苅安城(城将樋口三郎兵衛)も開城。

「去程に、浅井備前(長政)、越前衆を呼越し、たけくらべ(長比)・かりやす(刈安尾、伊吹町)両所に要害を構へ候。
信長公御調略を以て堀・樋口、御忠節仕るべき旨、御請なり。
六月十九日、信長公御馬を出だされ、堀・樋口謀叛の由承り、たけくらべ・かりやす取物も取取へず退散なり」(「信長公記」)。
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6月19日
・山科言継、義昭が翌日の近江出陣を延期したことを知る摂津国池田城主池田勝正が一族内紛のため池田城を追放されたことが原因だという、また、三好三人衆と阿波国衆・讃岐国衆が出陣との注進も知る(「言継卿記」4)。
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6月20日
・池田家の内訌。
池田勝正、弟の知正・荒木村重・中川清秀らに摂津池田城を追われる。
この日、勝正は刀根山を経由して大坂へ逃亡。
義昭は上野中務大輔・細川藤孝・一色紀伊守・織田信広2千を山崎周辺まで出陣させる(「言継卿記」4)。
荒木村重は知正の参謀としてクーデターに協力。池田家を実質乗っ取った村重は、三好三人衆に通ずる。
26日、三好長逸・岩成友通、阿波より出兵して池田城へ入城。

19日、勝正重臣2名が殺害され、勝正は反乱首謀者らに拘束される。後、刀根山(豊中市刀根山)辺で解放された勝正は小姓2人・小者2人・観世三郎(能楽者)を連れて大坂に落ちる(「言継卿記」4)。
その後、勝正は三好義継の若江城に逃れ、その介添えで将軍義昭に謁見。
池田城では、荒木村重らが、池田直正(勝正の子)・知正(勝正の弟)を池田家の新当主とするが、直正も父勝正と同じく追放される
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6月20日
・信長、近江菅浦へ全3ヶ条の「禁制」下す(「菅浦文書」4)。
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