2012年5月15日火曜日

川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(22) 「十七 煙突の見える新開地 - 砂町」(その一)

東京 北の丸公園 ハクウンボク 2012-05-07 
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川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(22)
「十七 煙突の見える新開地 - 砂町」(その一)

荷風は、昭和6年~7年、工場地帯として開けていく埃っぽいこの町にも足を運び、殺風景な新開地に詩情さえ見つけようとする。

「荷風は決して「江戸情趣」を求める過去追慕の人間だけではない。「工場ばかりで、ホコリっぽい」新開地をひとり歩き、殺伐とした新開地風景のなかにも新しい情味を見つけようとする風景の発見者だった。忘れられているもの、見捨てられているものへの共感は、荷風のなかで一貫して変らない。」(川本)

昭和6年11月20日
中洲病院の帰り、新大橋を渡って、市電で終点の錦糸堀(現在の錦糸町)に出て、そこから東に向かって歩く。翌7年に市区改正で城東区に入る大島町あたりである。そして、震災後、開けて行く新しい工場街を目にとめた。
「四之橋より歩みて五の橋に出で、溝渠に沿ひて大嶋橋に至る、新道路開かれ電車往復し工場の間には処々公園あり、余震災後一たびも此邊に杖を曳きたることなければ興味おのづから亦新なるを覚ゆ」

震災後はじめて城東を歩き、その風景が一変していることに荷風は興味を覚える。工場は清潔になっている。道路もセメント敷になり、ドプの臭気もさほどではない。埃っぽい筈の新開地が案外そうでもなかったことに新鮮な驚きを覚える。新開地のよさを見ようとする。

工場街を歩いたあと、こんどは城東電車の洲崎線に乗って洲崎へと出る。途中、電車の窓から砂町の風景を眺める。
「小名木川岸より洲崎遊郭前に至る間、廣々したる空地あり、掘割幾筋となく入り乱れ、工場の烟突遠く地平線の彼方に吃立す、目黒渋谷あたりの郊外とは全く別様の光景なり」

「荷風は、開けゆく新開地の風景に目を見張っている。決して忌避したり、嫌悪したりしていない。ここでは荷風は、過去追慕者というより新しい東京の風景を発見し、受け入れようとしている好奇心豊かな都市生活者である。」(川本)

11月27日も砂町を歩く。
「午後中洲に往く、帰途新大橋を渡り電車にて小名木川に至り、砂町埋立地を歩む、四顧曠茫たり、中川の岸まで歩まむとせしが、城東電車線路を踰(コエ)る頃日は早く暮れ、埋立地は行けども猶盡きず、道行く人の影も絶えたり、折々空しき荷馬車を曳きて帰来るものに逢ふ、遠く曠野のはづれに洲崎遊郭とおぼしき燈火を目あてに、溝渠に沿ひたる道を辿り、漸くにして市内電車の線路に出でたり、豊住町とやら云へる停留場より電車に乗る、洲崎大門前に至るに燦然たる商店の燈火昼の如し」

12月2日
銀座から市電で洲崎まで行き、そこで城東電車に乗り換え、錦糸堀へ、そこでさらに小松川行きの城東本線に乗り換え、荒川放水路に出る。船堀橋から葛西橋まで歩き、葛西橋の西詰から乗合自動車に乗って「砂町境川といふ城東電車の停留場」に至る(現在の江東区南砂)。

昭和7年1月8日
中洲行きの帰り、永代橋を渡って洲崎に出て、そこから城東電車に乗って砂町に行く。稲荷前駅で降り、そこから歩いて疝気稲荷へ、さらに、元八幡へと向かった。

1月29日
荒川放水路東岸を歩いたあと、夕暮れ、葛西橋を西へ渡って砂町に戻り、城東電車に乗って洲崎へと帰った。

随筆「深川の散歩」(昭和10年「中央公論」)。
「砂町は深川のはづれのさびしい町と同じく、わたくしが好んで蒹葭の間に寂莫を求めに行くところである。折があったら砂町の記をつくりたいと思ってゐる」

砂町は、江戸時代に新田開発によって生まれた、東京湾に面する農村で、もともとは砂村新田と呼ばれていた。
荷風が濹東散歩の際にしばしば参照した江戸時代の地誌、三島政行の「葛西志」によると、「砂村新田は、八右衛門(新田)、久左衛門(新田)、亀高(村)、大塚(新田)、四村の南に有て、砂村川を境となせり、西は十間川を限とし、南は海岸におよび、東は中川にそへり、此邊新田中の大村なり、此村は昔海濱の砂地なれば、たゞちに村名とすと云」
明治22年に南葛飾郡砂村となり、大正10年には砂町と改称されたが、長く、人口の少ない、寂しい近郊農村だった。

随筆「元八まん」(昭和10年「中央公論」)で、荷風は、30余年前に洲崎の遊里に遊んだあとこのあたりを歩いたことがあったが、「今日記憶に残ってゐるのは、蒹葭の唯巣も知らず生茂つた間から白帆と鴎の飛ぶのを見た景色ばかりである」と書いている。

尾崎士郎「人生劇場」
大正14年頃の砂村を次のように記す。
「洲崎の町を海づたひに五六町、東北の方角に歩いてゆくと砂村といふ寒村に出る。その後、町制が敷かれて大東京の市区に編入されると道路が急速にひらけ、市内電車が延びるにつれて往年の面影は何時の間にか消え失せてしまったが、しかし、その頃は見わたすかぎり萱と蘆にかこまれてゐる茫漠とした埋立地であった」。

昭和7年の市区改正で城東区が誕生したとき、砂町は、亀戸・大島とともにこれに入る(城東区は、のち昭和22年、深川区と合併し江東区となる)。
城東区は工場の町だった。
『江東の昭和史』によると、城東区内の工場の数は、昭和6年に305だったのが、昭和15年には2,755と約九倍に増える(特に、金属工業、機械器具工業が10倍近い伸びをしめしている。

磯田光一『思想としての東京』(国文社、昭和58年 講談社文芸文庫、1990年復刊)
関東大震災後の大正14年1月26日に内務省告示十四号として登場した「東京都市計画地域地図」では、東京の西半分が住居地域と定められたのに対し、東半分の下町は工業地域に定められている。政府と東京市は、震災後、下町を工業地域に定めた。城東区における震災後の工場数の急激な増加はその結果である(ちなみに、下町は工業地域になったために、東京大空襲のときに、住宅地域の西東京より大きな被害をうける)

荷風が砂町の風景を目にとめたのは、工場が飛躍的に増えているこの時期である。
昭和のはじめ、砂町を中心とした城東を歩くようになったころは、新開地の工場風景に「興味おのづから亦新なるを覚ゆ」と、関心を示している。
そもそも「日和下駄」のなかですら、荷風は、近代と江戸が混在している吾妻橋や両国橋あたりの風景に比べれば、いっそ深川あたりの、ことごとく工場地に変ったところのほうがいいとさえいっている。

「私は此の如く過去と現在、即ち廃頽と進歩との現象のあまりに甚しく混雑してゐる今日の大川筋よりも、深川小名木川より猿江裏の如くあたりは全く工場地に変形し江戸名所の名残も容易くは尋ねられぬ程になった処を選ぶ」
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(その二)に続く
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