2012年7月22日日曜日

ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(19) 「序章 ブランク・イズ・ビューティフル - 三〇年にわたる消去作業と世界の改変 -」(その8)

東京 北の丸公園 2012-07-09
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ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(19)
 「序章 ブランク・イズ・ビューティフル - 三〇年にわたる消去作業と世界の改変 -」(その8)


隠喩としての拷問
拷問、それはショック・ドクトリンの底流を流れる論理のメタファー
チリ、中国、そしてイラクに至るまで、グローバルな自由市場改革運動と手を携えてひそかに行なわれてきたこと、それが拷問であった。
拷問は反抗的な人々に彼らの望まない政策を強引に押しつける手段というだけではない。
それはショック・ドクトリンの底流を流れる論理のメタファーでもある。

CIAマニュアルに記述された拷問(「強制尋問」)
九〇年代末に機密解除されたCIAの二冊のマニュアル・・・。
その説明によれば、
「抵抗する情報源」を屈伏させる方法は、周囲の世界を認識できる拘束者の能力をずたずたに引き裂くことだという。
まず初めに外部からの感覚情報を遮断し(頭巾をかぶせる、耳栓をする、手かせ足かせをはめる、独房に入れるなど)、その次に過剰な刺激を与えて身体を攻め立てる(ストロボライト、大音響の音楽、殴打、電気ショックなど)。

あるCIAのマニュアルは、ごく簡潔にこう説明する。
「ほんのわずかな間にせよ、心理的ショックまたは麻痺状態とも言える仮死状態に陥る瞬間が来る。
これはトラウマ的体験、またはそれに準ずる体験によって生じたもので、言うなれば当事者の慣れ親しんだ世界、およびその世界に属している自己イメージが崩壊したことを示している。
ベテランの尋問者はこの症状が現れたときを見逃さず、この瞬間に情報源はショックを受ける前よりもはるかに暗示にかかりやすく、命令に従いやすいことを承知している」

拷問の手法をそのまま真似て、大規模に展開しようというのがショック・ドクトリンである
・・・9・11の衝撃(ショック)・・・。
多くの人々にとっての「慣れ親しんだ世界」が崩壊し、深い混迷と退行の時期が到来した。ブッシュ政権はそれをじつに巧妙に利用した。
この日を境に、あたかも違う時代が始まったかのような状況となり、それまでの世界観は「9・11以前の思考法」だとして切り捨てられるようになる。・・・
結集したエキスパートたちはトラウマ後の人々の意識につけ込み、無防備なキャンバスに新しい美辞麗句を書き込んでいった。
いわく「文明の衝突」、あるいは「悪の枢軸」「イスラム・ファシズム」「国土安全保障」といった字句である。
こうして人々が文明戦争勃発の恐怖に取りつかれるなか、ブッシュ政権は9・11以前には夢でしかなかったことを実現できるようになった。ひとつは国外で民営化された戦争を展開すること、もうひとつは国内にセキュリティー企業複合体を構築することである。

ショック・ドクトリンはまさにそのように機能する
まず初めに大惨事 - 軍事クーデター、テロリストの攻撃、市場の暴落、戦争、津波、ハリケーンなど - が起きると、国民は茫然自失の集団ショック状態に陥る。
爆弾が落ちたり、突然恐怖が襲ったり、暴風雨に見舞われたりした社会は、独房内で大音響を聞かせたり殴りつけたりされた拘束者と同様、一気に骨抜きになってしまう。

恐怖に打ちのめされた拘束者が同志の名前を明かしたり信念を放棄したりするのと同じく、ショックに打ちのめされた社会もまた、本来ならしっかり守ったはずの権利を手放してしまうことが往々にしてある。

バトンルージュの・・・被災者たちは、このような事態になった以上は低所得者向け公営住宅や公教育をあきらめて当然と思われたし、津波襲来のあと、スリランカの漁民たちが利用価値の高い海岸線をホテル業者に明け渡すのも当然とみなされた。
イラクでもまた、当初の計画では、ショックと恐怖にかられた国民は石油の管理権や国営企業、そして国家主権までも放棄し、米軍とCPAに受け渡すはずだと考えられていた。


大いなる虚偽
過去三〇年間で唯一にしてもっとも成功したプロパガンダ
故ミルトン・フリードマンの追悼文はどれも賛辞にあふれ返っていたが、彼の世界観を実践するうえでショック療法や危機が果たした役割に関しては、ほとんど言及がなかった。・・・
フリードマンの改革路線と手に手を携えてきた暴力と弾圧の事実を消し去った解説は、歴史を美化したハッピーエンドのおとぎ話でしかなく、過去三〇年間で唯一にしてもっとも成功したプロパガンダだと言ってもいい。・・・

・・・。一九六九年の『タイム』誌はフリードマンを「害悪をまき散らす厄介者」と手厳しく評し、彼を教祖と崇めるのはごく一部のグループだけだった。


知識人の間では何十年と孤立していたフリードマンだったが、八〇年代の幕が開けるとマーガレット・サッチャーとロナルド・レーガンの時世が到来する(サッチャーはフリードマンを「知的な自由の戦士」)と称え、レーガンは大統領選キャンペーン中に彼の代表作『資本主義と自由』を持ち歩く姿を目撃された)。・・・

・・・。フリードマンが死去した際、『フォーチュン』誌は「彼は歴史の潮流を体現していた」と評し、アメリカ連邦議会は「経済のみならず、あらゆる点における世界有数の自由の擁護者」とフリードマンを称える決議を採択した。
二〇〇七年一月二九日、アーノルド・シュワルツェネッガー・カリフォルニア州知事はこの日を同州で「ミルトン・フリードマンの日」に制定すると発表し、いくつかの市町村でも同様の決定を下した。『ウォールストリート・ジャーナル』紙はこうした称賛を一言に要約し、「自由なる人(フリーダム・マン)」という見出しを掲げた。
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