2012年7月17日火曜日

「私らは侮辱の中に生きている。政府のもくろみを打ち倒さなければならないし、それは確実に打ち倒しうる。」(大江健三郎)

「私らは侮辱の中に生きている。政府のもくろみを打ち倒さなければならないし、それは確実に打ち倒しうる。」
とは、7月16日の「さようなら原発10万人集会」での大江健三郎さんの訴えの一部だ。

集会の報道を集めた記事
「さようなら原発10万人集会」(7月16日、代々木公園) 朝日、共同、毎日、時事、ブルームバーグ、TBS、NHK
はコチラ(↑)

その中で「朝日」は以下のように報じた。
続いて壇上に立った大江さんは、6月15日に約750万人分の署名の大半を野田佳彦首相あてに提出した翌日に野田政権が関西電力大飯原発の再稼働を決めた経緯に触れ、「私らは侮辱の中に生きている。政府のもくろみを打ち倒さなければならないし、それは確実に打ち倒しうる。原発の恐怖と侮辱の外に出て自由に生きることを皆さんを前にして心から信じる。しっかりやり続けましょう」と訴えた。

この大江さんのちょっと分かりにくい(?)訴えについて、
有田芳生さんのツイターはこう解説してくれた。

有田芳生 ‏@aritayoshifu
大江健三郎さんの中野重治初期短編を引用しての挨拶が、いまも深く響いている。人間に対する侮辱というテーマだ。750万人の脱原発署名を官房長官に提出したときの対応を、大江さんは「私たちは侮辱されているんです」と表現した。

有田芳生 ‏@aritayoshifu
両腕と顔が日焼けで火照っている。氷を浮かべた水が美味しい。大江健三郎さんたちが750万人の署名を政府に提出した翌日に大飯原発が再稼働する。大江さんは納得できず、「作家だから」と読んだのが中野重治だった。そして政府に侮辱されたと思う。いま本棚から該当短編を探した。「春さきの風」だ

有田芳生 ‏@aritayoshifu
東上線の車内。女性2人が昨日の「脱原発」集会に触れて大江健三郎さんの名前を口にした。私はその隣で大江さんが挨拶で触れた中野重治の短編作品「春さきの風」を読んでいた。大江さんが引用した部分は権力の横暴に対して被害者が語ったこんな台詞だった。「わたしらは侮辱のなかに生きています。」


インタネット上に
『中野重治短篇集』を読む(藤堂尚夫)
という文章があるので、これを以下にデッドコピーさせて戴く。

<引用>
(略)

このような〈生活〉が作品中に描かれているのは、各々の作品を読んでいけば、容易に納得されるものであるのだが、では、その〈生活〉が作品中に描かれていることは作品の構造上、どういう意味があるのだろうか。そのことを考えるには、『短篇集』に収められた作品の結末部を考えてみるのが有効だろう。

「春さきの風」
強い風が吹いてそれが部屋のなかまで吹き込んだ。 
もはや春かぜであつた。
それは連日連夜大東京の空へ砂と煤煙とを捲きあげた。
風の音のなかで母親は死んだ赤ん坊のことを考えた。
それはケシ粒のように小さく見えた。母親は最後の行 を書いた。
「わたしらは屈辱のなかに生きています。」   
それから母親は眠つた。     

この作品は、三・一五事件の検束によって赤ん坊を失った大島英夫の一家に取材した作品で、中野にとってはプロレタリア小説の最初のものである。一読して分かるようにこの作品では夫よりも妻に焦点が当てられており、赤ん坊の死と母親の行動・心理を描いた作品といってよいだろう。 
この一家は検束され、母子は保護檻に収檻される。そこで赤ん坊の容態が悪くなり、医者を頼むが、亡くなってしまう。その子の葬式を終え、仲間うちで追悼会をするが、そこで検束される。母親は高等に平手打ちをくい、夜遅く留置所を出る。その後に続くのが、先に引用した結末の部分なのであるが、夫の収檻、赤ん坊の死、高等の暴力的な取り調べなど、この母親にとっては辛い出来事ばかりが続いた後の場面なのである。 
ここでは、まず「春かぜ」に注目しておきたい。高等の暴力的な取り調べから解放され、この母親が帰途についた時には、「寒い風」が吹いていた。ところが、引用部分では、「もはや春かぜであつた。」ということになる。この間の時間差はあまりない。家に帰り、「未決」(夫のこと)からの手紙を読み、返事をしたためようとする、それだけの時間差なのである。このようににわかに「寒い風」が「春かぜ」に変わるとは考えがたく、また、留置所を出たのが「夜おそく」であることからも、「春かぜ」が実際に吹いていたとは考えにくい。つまり、この「春かぜ」は母親の心象風景として描かれているのだ。「連日連夜大東京の空へ砂と煤煙とを捲きあげた」激しい「春かぜ」は母親の中に厳しい認識を形作る。先には「生から死へ移つて行つたわが児を国法の外に支えること」しか念頭になかった母親にとって、死んだ赤ん坊が「ケシ粒のように小さく見えた。」というのは、ずいぶんな変わりようである。ここに、母親が醒めた認識に到達したことがうかがえるが、返事の最後の行に記した「わたしらは屈辱のなかに生きています。」には、一人の労働者として現実を等身大にとらえ、その現実と闘う意志さえも読み取れよう。
(略)
<引用終り>


大江さんが750万人の署名を持参したとき、
「水戸のうめむすめ」とか「女子サッカーのなでしこ」には会う野田が、
代理として藤村某を差し向けた。
野田の意思は明日分かる、というのが藤村某の反応だったそうだが、
その明日の回答と言うのが、再稼動だった。


このことを、大江さんは侮辱とか屈辱とかで表現したのだけれど、
上の解説にもある通り、小説上の若い母親と同じく、
それはポジティブな闘う意思の表現なのだ。

権力にしっかりと対峙しているが故に、
権力の理不尽な行為は屈辱、侮辱なのだ。

闘う意思を持った個人に対しての理不尽な行為は、屈辱、侮辱なのだ。
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ところで、最近は上の集会や毎週木曜日のデモに対するマスコミの報道が大きく変わってきている。
今日(7月17日)の「朝日新聞」の記事や天声人語は、秀逸といっていいかもしれない。


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▼しんぶん赤旗の航空写真
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【提供:正しい報道ヘリの会】





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