2012年8月14日火曜日

川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(32) 「二十二 車が走るモダン都市」(その1)

東京 江戸城(皇居)東御苑 2012-08-03
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川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(32)
 「二十二 車が走るモダン都市」(その1)

大正7年12月11日(築地に住んでいたころ)
「日乗」にはじめて「自働車」が登場。
「雪俄に降出し寒気甚し。炬燵を取寄せ一睡す。夕刻自働車を倩ひ日本橋倶楽部清元梅吉おさめの会に赴き、・・・」

12月17日にも、
「帰途櫻木にて晩飯を食し、八重福満佐の二妓、いづれも梅吉の弟子なるを招ぎ、自働車にて浅草の年の市に行き、羽子板を買ふ」

12月26日にも
同じ築地の芸妓たちと車で浅草の観音様にお参りに出かけている。

大正7年「中央公論」(7月号)が”近ごろ世にはやるもの”として「カフェー」「活動写真」「自働車」の三つを特集

石井研堂『明治事物起原』(春陽堂、昭和19年『明治文化全集』別巻 日本評論社、昭和44年復刊)によると、明治44年に東京で自動車を所有する人間はわずか150余人だったという。
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明治45年
日本で最初のタクシー会社が東京・有楽町に設立された。
「タクシー自働車株式会社」。車はフォードが6台。

大正11年1月2日
「タキシ自働車」の初出。
「正午南鍋町風月堂にて食事をなし、タキシ自働車を雑司ケ谷墓地に走らせ先考の墓を拝す」

大正11年1月10日
市中に車がふえだしている、道路状況は悪い、という記述。「晴れて暖なり。午後富士見町に往く。近年自働車の往復頻繁となりてより、下町の道路破壊甚しく、雨後は泥濘を没す」

大正12年9月1日の関東大震災は、車が大衆的に普及する契機ともなる。

昭和6年「三田文学」発表の小品「夜の車」。
震災後、世の中が大きく変っているが、なかでも人力車にかわってタクシーが登場したことは大きな変化である -。
「さるにても日に日に世の中のかはり行くさま、亥年の大地震この方更に激しくなり行きしは、市内一台一圓の札さげたる自動車の流行に、人力車は色町を藝者の乗りあるく外、今は全く市中に跡を断ちたるにても知らるべし」

震災は東京のこれまでの交通機関である市電や汽車を破壊。
その結果、東京復興に際して、新しい交通機関として自動車が大きく注目されるようになった。震災がモータリゼーションを加速した。

『日本自動車産業史』(日本自動車工業会、1988年)
「日本の自動車産業にとって一大転機となったのは、関東大震災である」
「とくに負傷者の輸送、建物、施設の再建や生産活動再開に必要な資材の輸送手段として、アメリカから大量の自動車が緊急輸入された」と指摘。

大正14年
フォードが進出、ゼネラル・モータースが昭和2年。
当時の日本の車はほとんどが日本の工場で作られたアメリカ車であり、輸入されたアメリカ車である。
小林章太郎編『昭和の東京 カーウォッチング 写真で見る昭和の自動車風俗史』(二玄社、1995年)によれば、当時、町を走るタクシーの80%は日本組立のフォードとシボレー、ハイヤーはダッジ、プリマスだったという。アメリカ車全盛の時代。

「つゆのあとさき」(昭和6年「中央公論」)に見る震災後の東京復興の姿。
昭和初年の銀座のカフェーで働く君江というドライな女給の男性遍歴を描く。
彼女のもとにやってくる男たちの職業は、流行作家、タクシー運転手、南米植民地から帰って来て東京大阪神戸の三都にカフェーを開いた実業家、洋行帰りの舞踏家、赤坂溜池の自動車輸入商会の支配人。赤坂溜池はこのころ「自働車街」といわれたほど自動車のディーラーの多かったところ(戦後は「日本のデトロイト」と呼ばれる)。

昭和3年頃のアメリカ車の値段、フォードで1,500円、キャデラック15,000円という。

荷風の友人、人気歌舞伎俳優、二世市川左團次は、自家用車を持っていて、荷風は、よく乗せてもらう。
昭和3年1月27日
「松莚君の自働車は之と同種のもの目下東京市中には二三台あるのみにて其の値弐萬五千圓なりと、楽屋裏にて評判高きものなり、去年の暮新たに購はれしものなり、乗心地甚好し」

随筆「東京風俗ばなし」(「表現」昭和23年8月号)
自動車普及について。
「自動車がそろそろ目につきだしたのは明治の終り頃からです。然しその時分には華族とか紳商とか云ふ人達が馬車をよして自動車にしたので、吾々普通の人が自動車に乗れるやうになったのは大正も五六年になつてからです。数寄屋橋の近所にガレーヂがあって電話で呼びよせるのですが賃銀は市内で五圓でしたから滅多には乗れませんでした」
「歌舞伎役者が抱への人力車をよして自動車を買ひ遅轄手を抱へるやうになったのも震災前後の頃です。初は座頭株の役者だけでしたが一二年の中には名題役者の重なものは無理をしても見栄に自動車を買はなければ気まりが悪くなつてきたのです」
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震災後の急速なモータリゼーションのなかで車は、市電に代って市民の足になっていく。
「円太郎」と呼ばれた市バス(「日乗」では「乗合自働車」)、青い車体で親しまれた私営「青バス」、「円タク」と呼ばれたタクシー。
「円タク」は「円本」と同じく昭和2年頃からいわれるようになった言葉で、1円が基本料金だったことからそう呼ばれた。

「つゆのあとさき」には、銀座のカフェーの女給君江が、店がひけたあと、市ヶ谷本村町の下宿まで、円タクを拾って帰る姿が描かれているが、昭和3、4年の段階でもう、現在の銀座の夜の風景と変らない”ラッシュ・アワー”が現出している。
君江は、銀座で車が拾えないので、日比谷の交差点までいって、そこで空車を拾おうとする。
「(君江は)通過る圓タクを呼止め、値切る上にも賃銭を値切り倒して、結局三十銭位で承知する車に乗るのである」とある(「円タク」といっても交渉次第で値段はさまざま)。

昭和9年の島津保次郎監督、林長二郎(長谷川一夫)、田中絹代主演の『私の兄さん』は、東京のタクシーの運転手を主人公にした青春映画。
このなかに、夜、永代橋の上でタクシーの運転手のひとり(坂本武)が、通行人の男に「旦那、お安くしますぜ」と呼びかける場面がある。永代橋から王子まで行くという客に1円というと、客は50銭にまけろという。交渉の結果70銭になる。
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