2012年9月17日月曜日

川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(38) 「二十四 「銀座食堂に飯す」-東京の復興は飲食物より」(その1)

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川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(38)
 「二十四 「銀座食堂に飯す」-東京の復興は飲食物より」(その1)

昭和6年から9年、「日乗」には「銀座」が頻出。
夜になると銀座に出かけ、食事をしたり、カフェーに行ったり、喫茶店で親しい知人たちと雑談を楽しんだりしている。連夜出遊の観がある。

昭和7年は市区改正があり東京市が35区に改められ、大東京が誕生。
前年の本景気もどうやら脱し、「犬養景気」によって銀座がもっともにぎわった年である。

「銀座通の景気最盛なりしは昭和六年より翌七年」(「日乗」昭和9年11月4日)。

三越、松屋、松坂屋の三つのデパートが出揃い、昭和7年には尾張町(現四丁目)角に服部時計店が山来、銀座の新しいシンボルになった。
この年には「東京行進曲」(昭和4年)に「昔恋しい」と歌われた「銀座の柳」が復活。

これより先、昭和3年には、それまで「横町」と呼ばれるほど狭い通りだった東西の通り(現在の晴海通り)が拡張され、銀座にヨコの線(中央通り)に加え、タテの線が新たに山来上がった。
このタテの線に沿って、昭和8年に”陸の竜宮”といわれた豪華な日本劇場、昭和9作に東京宝塚劇場、日比谷映画劇場が開館、小林一三のいう”アミューズメント・センター”が山現してくる。

昭和2年に浅草-上野間が開通した地下鉄はその後、順調に延び、「日乗」昭和7年12月24日「地下鉄道京橋入口開通」とあるように、大東京市成立の年の暮れに京橋まで、さらに2年後の昭和9年3月3日に銀座まで走るようになった(「地下鉄道尾張町出人口この日より開通の由。乗客頗雑遝の様子なり」)。

この路線は、デパートとデパートを結ぶことを想定して作られていた。
浅草の松屋、上野の地下鉄ストア、松坂屋、日本橋の三越、白木屋、高島屋、銀座の松屋、三越、松坂屋と、地下鉄はデパート巡りに便利な足となった。
デパート側も、地下鉄の利用客を当初から期待し、地下鉄建設に協力的で、三越前駅は三越が「三越前」という駅名にすることなどを条件に、工事費のほぼ全額を負担。日本橋駅は白木屋と高島屋が、銀座駅は松屋が、駅建設費の多くを負担。昭和2年に地下鉄が開通したときのポスターを手がけたのは、三越の広告デザイナーだった杉浦非水だったのもこの意味で納得出来る。

地下鉄開通によって、鎚座はいよいよ盛り場として栄えていく。

日曜日に銀座が大混雑
「日曜日にて銀座通人出あまりに激しければ直に帰宅す」(昭和7年5月29日)、
「此夜銀座通は草市にて平日よりも賑なるに、三十間堀の河岸通は地蔵尊の縁日にて夜涼みの人また一層の賑ひなり」(同年7月12日)、
「この日日曜日なれば銀座通の雑遝最甚し」(昭和8年6月11日)

大震災後、再生と発展を続ける銀座は、浅草に代ってモダン都市東京の中心地になりつつある。「銀座界隈はいよいよむかしの浅草公園の如くになりぬ」(昭和8年5月9日)

浅草から上野までの地下鉄が銀座方面へと延びてくる。
「地下鉄道京橋入口開通」(昭和7年12月24日)、
「地下鉄道尾張町出入口この日より開通の由」(昭和9年3月3日)、
「此日地下鉄道浅草より新橋まで開通の當日にて、散歩の男女いつもより雑遝せり」(同年6月21日)

浅草と銀座が地下鉄で一本につながり、浅草の客が銀座へと流れて来る。
浅草(東)の衰退と銀座(西)の興隆が確実に始まっている。
浅草を拠点にしていた喜劇人榎本健一や古川緑波が銀座へと移ってくるのもこれ以降である。

「問はずがたり」での銀座の繁華。
「満洲と上海とに戦争が始り、政府の要人が頻に暗殺される。不穏の文字が町の角々に貼出される。然し東京の繁華は今日から回顧して見ると、其頃が恐らく其絶頂に達してゐた時らしい。地下鉄道の工事は銀座座から新橋へ延長する。日比谷公園、隅田公園その他方々にダンス場ができる。タキシが終日終夜市中をめぐって客の奪合ひをする。野球の勝負が市民を熱狂させ、カフヱー帰りの酔客が喧嘩して時々殺される。白昼銀座でも人の刺されたことが幾度もあった。オリンピク大会や萬国博覧会が東京に開かれるやうな噂もあった」

カフェーが乱立する。
ネオンがまたたく。
早慶戦に勝った慶應の学生が夜の銀座で騒ぐようになる。
デパートは家族連れでにぎわう。
大通りは自動車で混雑する。
いまの銀座とほとんど変らないモダン都市が出現している。

そのなかを荷風は、連夜のように銀座に出かけていく。
丸善で新着のフランスの本を見る。
鳩居堂で香を買う。
食料品を買う。
夜店の古本屋を冷やかす。

「午後三菱銀行に往き、それより丸善書店に立寄り喫茶店きゆうペるに少憩す。日既に暮る。銀座食堂に飯して初更前家に帰る。燈下メーボン著現代の日本をよむ」(昭和9年2月8日)。
銀行で用事をすませ丸善に行く。
ゆっくり本を見たあと喫茶店で休憩する。
夕暮れて食堂で夕食を取り、家に帰って読書する。
さしたることはないが、都市の知識人荷風にとってこういう一日こそ、静かな幸福な日といえるだろう。
すでに満州事変が勃発(昭和六年)し、世情騒然としつつあるなか、小春日和のような一日である。

夜店の古本屋をひやかし古いリヨンの写真帖を見つけた日も幸福そうだ。
「松阪屋前夜店の古本屋にて仏蘭西里昂市街写真帖を見、壱圓にてこれを購ふ。二十五年前の事を追懐し今昔の感に堪えざる心地したればなり」(昭和9年10月21日)。

「荷風が連夜のように銀座に出かけたひとつの理由は、単身者荷風が夕食を外でとる必要があったからである。」(川本)

その実際的な理由のために、「日乗」には、銀座の食堂の名前が数多く出てくる。
風月堂、コロンバン、オリムピック、モナミ(荷風は「藻波」と書いている)などのレストラン。
松喜食堂、銀座食堂など和食堂。
新橋の小料理屋佃茂(金兵衛)や画家平岡権八郎の店として知られた割烹料理屋花月など。
酒をさほどたしなまなかった荷風は酒肆よりレストランや食堂のほうに親しみを覚えたようだ。
カフェー・タイガーにしても、カフェーであると同時に中華料理店であり、荷風はタイガーに食事をしに行ったと推察出来る。
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1 件のコメント:

  1. 偶然立ち寄った者ですが、興味深い文章を読ませていただきました。文中銀座の「オリムピック」というのは、作曲家・指揮者の山本直純氏の奥さんのお父さんが経営されていたレストランで、肩の凝らない洋食店としてかなり繁盛していたようです。

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