2024年7月1日月曜日

長保元年(999) 彰子の裳着 内裏焼亡 新制十一ヶ条

東京 江戸城(皇居)二の丸雑木林
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長保元年(999)
1月
・長保に改元。疫病流行の縁起直し。
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2月9日
・道長の娘彰子(しようし、12歳)の裳着(もぎ)が多くの公卿・殿上人を集め盛大に行なわれた。
女院東三条院や東宮などから贈り物があり、右大臣・内大臣以下公卿はこぞって道長邸にやってきた。

裳着:
初めて裳をつけ、成人の服装・髪型になる成人式。

翌々日の11日、頭弁藤原行成(ゆきなり)が勅使として来て、彰子を従三位に叙すとの勅命を伝えた。入内を予定してのこと。
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3月
・この月、
維衡・致頼を召し上げ、検非違使庁で訊問が行なわれ、維衡のみが過状(かじよう、罪を認める状)を提出。
3月26日、明法博士令宗允政(よしむねのただまさ)を召して罪名を勘申させる。(『権記』)。
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5月5日
・左大臣道長以下9人の公卿が左杖座に着して陣定が開かれ、維衡・致頼の合戦について「法家の勘申」の通り罪を定むことが決まった。(『権記』)。
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6月14日
内裏が焼亡
一条天皇は里内裏の一条院へ移り、しばらくそこを御所とする(退位後もそこに居住する)。
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7月
・この月、藤原行成は権僧正観修(かんしゆ)と同車して仏師康尚宅に赴き、そこで世尊寺に安置する大日如来・普賢菩薩・十一面観音各一体の造り始めの儀を行ない、あわせて先日発願した不動明王を拝している。

世尊寺は、行成の創建にかかり、母方の父源保光の旧宅を寺にしたもので、行成の子孫の書道の流を世尊寺流と称する所以である。(藤原行成の日記『権記』)。

康尚は、正暦2年(991)から約30年間、宮中や世尊寺、浄妙寺、無量寿院、比叡山、高野山など権力の中心での造仏の事績が伝わり、藤原氏とくに道長や行成に重く用いられた。
活躍した期間は、ちょうど道長の時代に重なる。
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7月11日
・天皇の御前で公卿が集まり造内裏定を行なう。

造内裏定:造内裏の行事(責任者)の決定、諸国への造営箇所の割当ての会議。

この時あわせて、「倹約の事」「仏神事違礼(例)」「美服を制す」「約倹を行なふ」事を公卿が定めたと『権記』『小右記』が記している。
内裏再建でものいりであり、諸国は疲弊しており(疫病が連年流行していた)、綱紀を粛正し、倹約しようという。
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7月21日
・天皇から道長に勅問があり、翌日陣定を開き新制十一ヶ条が下される。

この時の太政官符(27日付)
一、神事違例を慎むべき事
一、重ねて神社の破損を禁制すべき事
一、重ねて仏事違例を禁制すべき事
一、慥(たし)かに修理を加ふべき定額(じようがく)諸寺堂舎の破損の事
一、重ねて禁制すべき僧俗故紙りして京に住み、及び車宿りと号する京舎宅の事
一、重ねて故無く意に任せて穢(けがれ)に触るる輩を禁制すべき事
一、重ねて男女道俗美服を著すを禁制すべき事
一、重ねて禁制すべき金銀薄泥を以て扇・火桶に画き及び六位螺鈿(らでん)の鞍を用ゐる事
一、重ねて六位己下の乗車を禁制すべき事
一、重ねて禁制すべき諸司・諸衛の官人の饗宴・碁手の輩の事
一、重ねて禁制すべき主計(しゆけい)・主税(しゆぜい)二寮の官人、前分勘料と称して、多く賂遺(ろい)を求め、国公文(くもん)を抑留する事

前半6条は神事と仏事を励行することを命じ、次の4条は服などの華美の禁止など官人の綱紀粛正、最後の1条は主計寮・主税寮の官人が前分(手数料=賄賂)をうけとり、国司交替の財政文書の審査に不正を行なうことを戒めている。
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7月22日
・陣定において、天災(内裏焼亡)により維衡・致頼を赦すべきかが天皇から議題として下されたが、もしも内裏焼亡で罪を赦したら今後内裏に火を付けられてしまうという公卿の意見により却下された。(『権記』)。
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