2024年9月9日月曜日

寛弘3年(1006)6月 興福寺・大和国相論 7月 興福寺僧徒が入京、八省院・道長第に至り愁訴 9月 一条天皇、道長の土御門第へ競馬行幸 12月26日 藤原道長、法性寺五大堂の供養を行う

東京 北の丸公園
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寛弘3年(1006)
6月
・この月、興福寺と大和国で相論(紛争)。

6月14日
「山階寺(やましなでら/興福寺)から、馬允(当麻)為頼のために打擲(ちょうちゃく)された池辺園(いけべのその)の預の者が作った寺の解文(げぶみ)がもたらされた。」
「(当麻)為頼を召している際に、人が云ったことには、「山階寺(興福寺)から三千人ほどの僧が為頼の私宅に行き、数舎を焼亡しました」ということだ。・・・聞くにつけ、不審に思ったことは少なくなかった。」
『御堂関白記』

6月20日
「大和国が、山階寺(やましなでら/興福寺)の僧蓮聖(れんしょう)が数千人の僧俗を招集して、大和国内を存亡させたという解文(げぶみ)を進上した。」(『御堂関白記』)

7月3日
「大和国の解についての宣旨が下った。下手人の俗人や追捕すべき僧たちの名が入っていたが、それを蓮聖(れんしょう)に進上させることになった。蓮聖の公請(くじょう)を停止(ちょうじ)した。」(『御堂関白記』)

7月12日
「定澄僧都が土御門第に来て云ったことには、「昨日、京に参りました。これは明日、興福寺の僧綱や已講が、こちらに参上することになっていることによるものです。蓮聖の愁訴の事です・・・」
・・・もしも愁訴についてしっかりした裁定が無かった場合には、土御門第の門下および大和守(源)頼親の宅の辺りを取り巻き、事情の説明を請うて、悪行を致すことになるでしょう」と。これを聞いて奇怪に思ったことは少なくなかった。
「私が答えて云ったことには、「もしもそのようなことが有ったならば、僧都や寺家の上臈の僧綱・已講たちは、覚悟を致しておけよ。我が家の辺りにおいて、そのような事が有った場合には、どうして吉(よ)い事が有るだろうか。・・・」
「・・・汝は僧綱であるとはいっても、その職に在ることは難しいだろうな。能く思量すべきである」と。・・・外記(大江)時棟に命じ、明日、陣定を開くことを公卿に通知させた。」(『御堂関白記』)

7月13日
・興福寺僧徒が入京、八省院・道長第に至り愁訴する。

発端は、左馬允(さまのじよう)当麻為頼(たいまのためより)が興福寺領池辺園の領預である人物に乱暴を働いたので、怒った興福寺大衆が為頼の私宅を焼き討ちし、田畑二百余町を損なった。

これに対して大和国は大衆を扇動したとして興福寺の巳講蓮聖(いこうれんじよう)を朝廷へ訴えたところ、朝廷は蓮聖の公請(くじよう、朝廷の法会に召されること)を停止した。
それに怒った興福寺大衆が大挙して上洛し、強訴しようとしたが、道長の説得で引き上げたという。
この時の大和守が源頼親で、事件の発端となった当麻為頼は、前美濃守頼光と大和国司頼親の威を借る郎等・従者である。

事件の背後には、武力を恃んだ頼光・頼親の大和国支配を巡る意向があったと考えられる。
「件の頼親は殺人の上手也」(『御堂関白記』寛仁元年3月11日条)と、道長は頼親の武士的側面を見ている。

7月13日
「右大臣(藤原顕光)がおっしゃられたことには、「『山階寺(興福寺)の法師たちが、理由もなく八省院(朝堂院)に集会(しゅうえ)している』ということだ。早く退去させるべきである」と。すぐに(小槻)奉親宿禰が宣旨を寺司に下した。」(『権記』)

7月13日
「朝堂院に参集している僧たちは、多数に上っている」ということだ。検非違使を遣わして追い立てるべきであるという宣旨が下った。右大臣(藤原顕光)は、その宣旨の上卿を勤めた。
(藤原)説孝朝臣を遣わして、(一条)天皇の仰せを伝えたことには、「仰せは、『僧たちが参上しているというのは、道理がない。早く奈良に罷り還った後、愁訴した事が有るのならば、僧綱が訴えるように。・・・
「・・・もしこのような事が有ったならば、不都合なことではないか』と承っている」と。僧たちを定澄(じょうちょう)の許に追い立てた。」(『御堂関白記』)

7月14日
「定澄(じょうちょう)が申し入れて云(い)ったことには、「得業(とくごう)以上の法師たち三十余人ほどが、まだ留まっています。こちらに推参するのは如何でしょう」と。」
私が云(い)ったことには、「得業(とくごう)の僧たちが来ることは無用である。ただ、僧綱(そうごう)と已講(いこう)だけが来るのが宜しいのではないか。今はまだ、騒然としている。後日に来るのが吉(よ)いであろう」と。」(『御堂関白記』)

7月15日
天が晴れた。興福寺の別当(定澄)・五師・已講が、土御門第に来た。西廊において会った。「諸僧たちは、罷(まか)り還りました。ただし、私たちは申文(もうしぶみ)を進上するために参上しました」ということだ。
その申文を見たところ、四箇条有った。第一条には、「検非違使を派遣され国司が申した。寺家の僧が為頼の宅を焼亡した事、および田畠を踏み損じた事を調査してください。また、きっと追補を行わないという事にしてください」とある。
この二事について、私が云(い)ったことには、「この事については、調査は行われる様に、私は申しておいたのである。ところが寺の解文が申上された後、議定を行う前に、汝たちは悪行を致したのである。・・・
・・・これでは氏長者(うじのちょうじゃ)である私の思うところを蔑ろにしたようなものである。そこで調査を行わなかったのである」と。
第二条には、「大和守(源)頼親の停任(ちょうにん)をお願いいたします」とある。これまた、極めて奇怪な事である。頼親の身には罪は無かった。僧たちが申したことには、道理が無い。
第三条には、「為頼もまた、停任してください」とある。これまた、奇怪な事である。為頼というのは、人のために宅を焼かれ、愁いが有る者である。焼いた人を罰せず、愁人を罪に処すというのは、極めて不都合な事である。
第四条には、「蓮聖(れんしょう)が公請を停められたのを、免されるべきでしょう」とある。これについては、蓮聖は罪名が有る者とはいっても、優免を申上することについては、何の不都合が有るだろうか。
罪が有る者を免される事は恒例である。そうではあるとはいっても、この申文の中には、裁可できない第三条までのことも入っている。そこで、そのまま奏聞することはできない。
もし蓮聖について申上したいのならば、他の申文を作って奏聞しなければならない。これらの雑事を教示した。僧たちは、事毎に道理であると称し、還り去った。子細は、ここには記さない。衆人が聞いてくる事が有るであろう。
(『御堂関白記』)
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9月
・一条天皇、道長の土御門第へ競馬行幸
道長は、公卿や殿上人を呼んで私的に競馬を行なっただけでなく、天皇の行幸を仰いで行なったこともある。
この月の一条天皇行幸が史上初例。
「汝の家に馬場有り、幸有りて御馬を馳せ、覧ずるは如何」との天皇の申し出を受けたと道長は記す。
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12月26日
藤原道長は、法性寺に五大堂を建立し、この日、供養を行なう

法性寺は、藤原忠平の建立で摂関家の氏寺
毘盧舎那仏を安置した本堂と礼堂、五大堂、南堂、尊勝堂などがあり、天台系寺院で密教色が強かったらしい。
天徳2年(958)に火災にあい、大きな被害がでて、この時道長が五大堂を再建した。

五大堂と五壇法
五大堂とは、不動、降三世、軍茶利、大威徳、金剛夜叉の五大明王を安置する堂である。
この五大明王を本尊として修する五壇法は、摂関期以降、調服や出産の安産祈願のための私的修法としてさんかんに行なわれた。
五壇法の始まりは、天慶3年(940)2月に東西兵乱(承平・大慶の乱)の降伏を祈って法性寺五大堂において修したことをあげる説がある。
本来は、不動明王のみを本尊として一壇で修した不動法があったが、そこから天台密教において五大壇を用いる形式に発展したもの。

良源が五壇法を広めた。
康保4年(967)、冷泉天皇の狂気が強まり、山門一流の僧を集めて五壇法を修した時に良源が中壇(不動明王)をつとめた。
その後も、良源は、五壇法で円融天皇の病いを回復させたこともあり、名声を博した。
法性寺五大堂や天台密教の五壇法との密接な関係の歴史をうけて、道長の時代において五壇法は完成に到った。

道長は、寛弘元年、木幡に寺地を選定した日の帰りに法性寺に赴き、所々の修理の状況を検閲し、翌2年12月、五大堂建立を決める。
翌寛弘3年7月27日に上棟。10月25日に新仏像の開眼供養、12月26日に五大堂供養を行なう。
1人を除いて全公卿が参会し、勅使や院宮からの使も立てられ、大規模な晴儀であった。
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