2024年10月14日月曜日

寛弘6年(1009)~寛弘7年(1010) 伊周の呪詛騒動(高階光子・源方理、官位剥奪処分 伊周、参内差し止め処分) 頼通権中納言 藤原為時(紫式部の父)左少弁 中宮彰子が第三皇子敦良親王を生む 『紫式部日記』『源氏物語』成立 妍子入内

東京 北の丸公園
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寛弘6年(1009)
1月7日
「帥(そち/藤原伊周)が加階された。」(『権記』寛弘6年(1009)1月7日条)
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2月1日
「左府(藤原道長)の許に参った。昨日、内裏(一条院)から持ってきた厭符を示された。「これは帝皇(一条天皇)の后(藤原彰子)に対して、また若宮(敦成親王)に対して行ったものである」と云うことだ。事は多くは記さない。退出した。」
「後に聞いたことには、「播磨介(高階)明順(あきのぶ)と民部大輔(源)方理(かたまさ)は、恐懼(きょうく)に処されて退出した」と云(い)うことだ。」
(『権記』寛弘6年(1009)2月1日条)
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2月4日
「中宮(藤原彰子)に厭術(えんじゅつ)を施した法師円能(えんのう)を捕え出した。「特に申した事が有った」と云(い)うことだ。」(『権記』寛弘6年(1009)2月4日条)
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2月20日
道長・敦成親王呪詛の容疑で高階光子・源方理が逮捕され官位剥奪の処分を受けた。伊周その人は朝廷への参内を差し止めの処分を受けた。数ヶ月後には処分は解除されたが、伊周の政治生命は事実上断たれた。
「左府(藤原道長)の許に参った。内裏(だいり)に参られているということを、(菅原)為職朝臣(あそん)が告げ申した。そこで内裏に参った。(源)方理(かたまさ)及び宣旨(高階光子)<公行の妻>の除名を行われた。」
「また大宰帥(だざいのそち/藤原伊周)を朝参させてはならないという宣旨の作成を、内大臣(藤原公季)が、(一条)天皇の勅を承ったので、大外記(滋野)善言朝臣(あそん)に命じられた。」
(『権記』寛弘6年(1009)2月20日条)
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3月4日
藤原頼通(18歳、道長の長男)、権中納言となる。しかも参議を飛ばして、一躍権中納言に任ぜられている。三位の中納言は2人で頼通はその上席、中納言6人の4番目におさまった。
尚、この年、頼通は具平親王の娘隆姫と結婚。しかし、子どもができなかった。

昇進のスピード記録
頼通は正暦3年(992)生まれ。
長保5年(1003)、12歳で元服、同日、正五位下となる。
やがて左近衛少将となり、寛弘3年(1006)3月、15歳で従三位に昇り、同年9月には正三位、翌々年はさらに従二位に昇っている。

すこし前の状態はだいぶ違う。
摂政藤原忠平の長男実頼は、32歳で参議従四位下であった。
次男師輔も28歳で参議になった。
実頼の長男格の頼忠が参議に任ぜられたのは40歳のとき、師輔の長男伊尹も37歳である。
道長の父兼家も、従三位に進んだのが40歳、翌年、参議を飛び越して一躍中納言に任ぜられたが、それでも41歳に達していた。

村上天皇前後の朝廷では、公卿の多くは50歳、60歳で、30代は多くて2、3人、20代はたまに1人いるかいないかの程度だった。
こういう体制を破って、思い切って摂関家子弟を高位高官に引き上げ始めたのは、道長の父、兼家から。
兼家が摂政になったのは58歳のときであったが、それからは自分の子供を強引に引き上げて、道長は参議を経過せずに、23歳で権中納言に昇った。

兼家を継いだ摂政道隆もこれにならい、長男の伊周を引き上げた。
伊周は18歳で参議従三位であり、その年のうちに権中納言に、19歳で権大納言、21歳で内大臣という、従来の例から見れば言語道断な躍進をとげた。
しかし、これが先例として固定し、道長の長男頼通は、18歳で権中納言に、22歳で権大納言に進み、26歳にして摂政内大臣の地位を得た。
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3月4日
藤原為時(紫式部の父)は左少弁に任官、また日付不明ながら正五位下に叙せられた。左少弁は朝廷の最高機関・太政官の事務方である左右弁官局の幹部職員であり、実務に堪能でなければ務まらない職掌であった。
「・・・左少弁に(藤原)為時、大和に(藤原)輔尹(すけただ)、播磨に(平)生昌(なりまさ)が任じられた。
左衛門督に(藤原)頼通<兼任>、右衛門督に(藤原)懐平(かねひら)<兼任>、左兵衛督に(藤原)実成(さねなり)<兼任>。」(『権記』寛弘6年(1009)3月4日条)
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4月24日
・賀茂祭の道長の「棚」(桟敷)に藤原道綱以下9人の公卿が集まる。(『権記』寛弘6年4月24日条)
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5月1日
・平維衝は、朝廷に馬10匹を頁上。7匹は本人が、残る3匹は諸牧の別当が交易によって購入した(『権記』寛弘6年5月1日条別記)。
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5月15日
「(藤原)資平が内裏から退出して云ったことには、「頭弁(源道方)が云ったことには、『皇后(藤原彰子)が懐妊した。宇佐宮使を立てられるか否か、前例を問うよう、一条天皇の仰せ事が有った。・・・」
・・・これは密々の事である。事情を伝えるように』ということでした。『皇后(藤原彰子)は去る2月から懐妊されている』と云うことでした」と。
(『小右記』寛弘6年(1009)5月15日条(『御産部類記』五・後朱雀院による))
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6月9日
「帥(そち/藤原伊周)が内裏に参ってもよいという宣旨が下った。」(『権記』寛弘6年(1009)6月19日条)
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6月19日
「中宮(藤原彰子)が内裏から御出された。・・・午剋(うまのこく/午前11時~午後1時ごろ)に、若宮(敦成親王)も土御門第に移御された。内裏に伺候していた女房に物を下賜した。12人であった。」(『御堂関白記』寛弘6年(1009)6月19日条)
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9月24日
「内裏に参った。夜に入って、退出した。一条天皇がおっしゃって云われたことには、「来月13日の一親王(いちのみこ/敦康親王)の元服の儀は延期せよ」と。」
「これと中宮(藤原彰子)御産の時期が、もし重なったならば、都合が悪いだろう」ということだ。(一条)天皇の御決定に随(したが)うということを奏上した。
『御堂関白記』寛弘6年(1009)9月24日条
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10月5日
「辰剋(たつのこく/午前7時~午前9時)の頃、一宮(いちのみや/敦康親王)と一品宮(いっぽんのみや/脩子内親王)は、内教坊から帥(そち/藤原伊周)の室町第に移られた。」『権記』寛弘6年(1009)10月5日条
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11月25日
中宮彰子が第三皇子敦良親王(あつなが、のちの後朱雀天皇)を生む
道長が将来的に天皇の外祖父となる下地が作られた。
「中宮(藤原彰子)が御帳に入られた後、辰三剋(たつのこく/午前7時~午前9時ごろ)に、男皇子(おとこみこ/敦良親王)を降誕させた。暫くの間、重く苦しむことが有ったのではあるが、大したことは無くいらっしゃった。」(『御堂関白記』寛弘6年(1009)11月25日条)
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11月27日
「中宮職が(敦成親王の)三夜の御産養(うぶやしない)を奉仕した。」(『御堂関白記』寛弘6年(1009)11月27日条)
「酉剋(とりのこく/午後5時~午後7時)の頃、中宮に参った<東御門から参った>。上達部(かんだちめ)の饗饌(きょうせん)を東対の西面に設置したことは、去年と同じであった。」(『小右記』寛弘6年(1009)11月27日条(『御産記』による))
「左大臣(藤原道長)は、諸卿を歓引して座に着させた。参入しなかった人は、ただ右大臣(藤原顕光)・内大臣(藤原公季)・帥(そち/藤原伊周)だけであった。」(『小右記』寛弘6年(1009)11月27日条(『御産記』による))
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寛弘7年(1010)
・この年
・この頃、『紫式部日記』『源氏物語』、高階積善編『本朝麗藻』が成立
『紫式部日記』は、敦成親王出産関係の記録を中心にして寛弘7年の記事を一部加え、他の女房たち(清少納言も含まれている)についても触れた「消息文」を入れて、寛弘7年頃紫式部自身が編修したと考えられている。
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・ベトナムに李朝の大越国が成立する
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1月2日
「(一条)天皇の出御が有った。殿上間にお坐りになられた。管弦の公卿や殿上人は、小板敷に伺候した。ほかの人は台盤に着した。盃の巡行が数度あった。御楽遊が数曲あった。御衣を賜った。」(『御堂関白記』寛弘7年(1010)1月2日条)
「公卿方は清涼殿に参られ、主上(一条天皇)も殿上の間にお出ましになられて、管弦の御遊びがあった。殿(藤原道長)はいつものようにお酔いになられている。」(『紫式部日記』寛弘7年(1010)1月2日条)
「私はうるさいと思って隠れていたのに見つけられて、「どうしてお前の父は、(一条天皇の)御前の御遊びに呼んだのに伺候もしないで急いで退出してしまったのか。ひねくれているな」などと、(藤原道長に)絡まれてしまった。」(『紫式部日記』寛弘7年(1010)1月2日条)
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1月29日
「前大宰帥(さきのだざいのそち)正二位藤原朝臣(あそん)伊周が薨去(こうきょ)した<37歳>。」(『権記』寛弘7年(1010)1月29日条)
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2月
・道長は尚侍となっていた次女妍子(けんし、母倫子)を居貞(おささだ)親王(三条天皇)に妃として参入させた。
親王には、妃として故藤原済時の娘娀子(せいし)を迎え、皇子敦明・敦儀・敦平・師明、皇女当子(とうし)・禔子(しし)が生まれていた。
妍子は、翌年、三条天皇が即位すると女御に、翌々年には中宮となる。
道長は、一条天皇の血統だけではなく、三条天皇の血統にも手をうった。
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7月17日
天が晴れた。この日、一宮(敦康親王)の御元服の儀が行われた。時に巳剋(みのこく/午前9時~午前11時ごろ)であった。御室礼(しつらい)は常と同じであった。」(『御堂関白記』寛弘7年(1010)7月17日条)
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11月25日
・平維衡は、伊勢守解任後、道長への接近を始める。
彼はこの年11月25日、馬10匹を、翌8年4月13日、鞍具つきの馬11匹を道長に献じた(『御堂関白記』)。
また、維衝は、前年には朝廷に馬10匹を頁上している。
馬は最高の献上品で、相当な贈物である。慣例として、馬の贈答は主従関係にあることの含意で、彼もこの頃、道長の家人化したと考えられる。
道長らにとって、維衝のような経験豊かな兵は、なにかと重宝な存在である。彼らは、奉仕する兵を自在につかって、政敵を恫喝し、放火や群盗の襲撃に備え、自己に関係する各種紛争を強権的に解決した。
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