2013年1月26日土曜日

昭和17年(1942)11月3日~10日 第1回大東亜文学者大会。岩波茂雄回顧30年感謝晩餐会(「自由主義者最後の晩餐会」)。 

江戸城(皇居)乾門脇の公園 2013-01-24
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昭和17年(1942)
11月3日
・第1回大東亜文学者大会(東京ー大阪)。
日本131人、満洲6人、蒙疆2人、中国12人参加。小林秀雄(40)参加、評議員に。
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11月3日
・岩波茂雄回顧30年感謝晩餐会。
大東亜会館(東京会館)、出版関係者など500人参集。
「自由主義者最後の晩餐会」。
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11月3日
・厚生省、優良多子家庭を表彰
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11月3日
・米中間選挙。議会では下院で民主党218議席、共和党208議席、他4議席、上院で民主党58議席、共和党37議席、他1議席。
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11月4日
・文部省国語審議会の標準漢字表答申問題で、反響があったことから義務教育で修得させる漢字標準案2669字が閣議で決定
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11月4日
・エル・アラメインのドイツ軍戦線突破され、敗走始まる
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11月4日
・チャーチル、対潜作戦を調整
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11月5日
・宋子文国民政府外交部長、中国は琉球諸島・満州・台湾の返還を期待していると声明。
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11月5日
・夜、ガダルカナル、伊東少将指揮歩兵第228連隊主力が、駆逐艦15隻でタサファロング上陸。直ちに、海岸沿いにコカンボナに前進。これにより、海岸方面の戦況は危機を脱す。
7日夜、中熊歩兵第4連隊長、敵砲弾のため戦死、第2大隊長田村少佐が連隊指揮。

(別の記述では・・・)
・第38師団主力、相次ぐ日米艦隊の海戦と空襲の問をぬってガダルカナル島に到着。輸送船11隻に分乗して出発した増援部隊であるが、島に辿りついたのは4隻・兵2千。
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11月5日
・23代首相の清浦奎吾(92)、没。
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11月5日
・イギリス、『レパード(豹)』作戦(アルジェリアの海岸への銃器類の揚陸とレジスタンスへの引渡し作戦) 
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11月5日
・ユーゴスラヴィア、チトー率いるパルチザン、ビハチ解放
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11月5日
・マダガスカルのヴィシー軍、降伏
(5月、島北端にイギリス軍3万が上陸。日本軍特殊潜航艇攻撃で巡洋艦1・タンカー1が撃沈。9月、イギリス軍増援軍、島東岸・西岸に上陸)。
6日、自由フランス軍ル・ジャンティヨム将軍がマダガスカル自由フランス高等弁務官就任、承認。
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11月6日
・各雑誌11月号に対する平櫛少佐の批判。

「改造-そうじて生硬さのみあって、感情に訴える生彩に乏し。十月号の失敗(細川嘉六筆禍事件)よりの転向の誠はやや認むるも、当面国家が要請せる重大課題については、依然冷やかなりと 現代-大体において樫の木の硬さのみを狙って柳の木の柔軟に乏し。ただし、座談会「現代思想の批判」(斎藤晌、佐藤通次ら出席)は、はなはだ興味あり、とくに西田哲学を批判し、その哲学がもっぱら個人の安心立命を説いて「武」の哲学的裏づけを欠如せるを指摘せることなど、現下傾聴に値すと 公論-「尊王攘夷」の大特集を断行せるは、在来の総合雑誌の型を打破した企画にて、大いにわれらを感激せしむるものであって、敬服せりと 中央公論-丹羽文雄の小説「海戦」は枚数長きに失せざるや、海戦に従軍する前後から起筆せるなどかえって蛇足なり。一回か二回の従軍にて、このように諸所に書きなぐるは作家としての節操に乏し、この点編集者も熟慮すべきである、と 日本評論-この雑誌の小説欄編集は、いま少し考えてもらいたしと。里見弴、正宗白鳥の小説について、すでにたびたび注意せしところなるにかかわらず、いまだに同じ傾向に偏していないか。今月号岡本一平の「再婚記」など全く個人的問題に執着せるものにて、戦時下はなはだ面白からずと」
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11月7日
・連絡会議、新「世界情勢判断」決定
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11月7日
・北ボルネオ、クチンのサラワク・クラブにおいて前田大将、臼井少佐、阿野陸軍技師(陣没後進級)の現地軍の葬儀が行われ、南方軍総司令官寺内寿一大将、山脇軍司令官、徳野クチン州長官ほか軍及び州庁関係者、在留邦人、現地住民2千が参列。
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11月7日
・中野重治、警視庁に提出すべき手記を書き終わる。
10日、警視庁に行き、片岡警部に99枚渡す。
更に、出獄以来の「著書ならびに発表原稿の発表場所、年月日、内容、そのイデオロギー等の記録を提出せよと」要求され、「ガッカリしてかえる」と日記に。
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11月7日
・英米のラジオ放送、終日「ロバートが到着」を繰返す。翌日の上陸作戦の合図
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11月7日
・ドイツ、福音派ルター教会牧師カール・フリードリヒ・シュテルブリンク、ゲシュタポに逮捕される。
共犯者としてカトリック助任司祭3人、協力して非合法活動した青年・兵士逮捕。
/43/6、死刑宣告。/43/11/10、聖職者4人、ハンブルクで執行
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11月8日
・第16軍司令官今村均中将、第8方面軍司令官親補電受ける。
11日、今村中将、シンガポール着。
16日、日本軍第8方面軍(今村均中将)新設。ソロモン方面の17軍、ニューギニア方面の18軍(安達二十三中将)統括。大本営戦闘序列下命。
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11月8日
・アイゼンハワー指揮米英連合軍、北アフリカ、モロッコ、アルジェリア上陸およびチュニジア侵攻作戦(「トーチ(たいまつ)」作戦)開始。
ヴィシー政府を承認しているルーズベルト米大統領はペタン元帥に親書「アメリカは他国に対し何の領土的野心も抱いていない」(ヴィシーとは対決姿勢をとらない方針)。
9日、アンリ・ジロー大将(1940年ドイツ軍捕虜となり脱走、ヴィシーに匿われていた)、現地のヴィシー高官達を説得するため担がれて北西アフリカに到着。ヴィシー高官達は彼を無視。
10日、ヴィシーの陸海空軍総司令官ダルラン提督(この時偶然アルジェリアにいた)がアメリカ軍の説得に応じ、現地フランス軍は米軍と合同して対独戦を実行すると明言。
現地ヴィシー軍はダルランの停戦命令に従い北西アフリカの戦闘終息。
米英軍・ヴィシー軍ともに戦死者夫々約700。米英軍艦船損害32隻沈没、ヴィシーのカサブランカ艦隊はほぼ壊滅。

「トーチ」作戦終了後の首脳会談により、ダルランはフランス領アフリカ総督並びにアフリカにおけるフランス軍総司令官、ジローはその地上軍及び空軍司令官に就任。
本国のペタン元帥はダルラン罷免を発表(ダルランの停戦受諾の裏にはペタンの意向が働いていたとの説?)。

ダルランは、本国ツーロン港のフランス地中海艦隊約100隻に対し至急合流する命令。ツーロン港のド・ラボルデ提督はこれを拒否(接収に来たドイツ軍もはねつけ)、指揮下艦隊を自沈させる。
ド・ゴールは「不毛な自殺」と言い捨てる。
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11月8日
・ヒトラー、スターリングラードをほぼ占領と演説。
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11月9日
・ドイツ軍、チュニジアに空挺部隊を投入
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11月9日
・フランスのヴィシー政権、対米国交断絶。
この日~11日、ヴィシーの閣僚ラヴァル、ヒトラーとベルヒデスガーデンで会談。
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11月10日
・夜10時、ガダルカナル、第38師団(佐野中将)主力(戦闘司令所と歩229連隊)、ガダルカナル上陸。
11日午前5時、903高地西麓の第17軍戦闘司令所着。
第17軍司令官は、第38師団長のマタニカウ川以西の敵撃滅を命令。
第38師団長は、この任務に基づく攻撃準備を伊東支隊に命じ、傍ら、アウステン山の歩兵第124連隊(岡部隊)を師団直轄とする。
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11月10日
・井上成美、第40代海軍兵学校長として江田島に着任(←第4艦隊司令官より)。 
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