2013年2月25日月曜日

1766年(明和3年)1月~3月 モーツアルト(10)、ハーグで「交響曲 ト長調(「旧ランバッハ交響曲」)」作曲 【モーツアルト10歳】

北の丸公園 カワヅザクラ 2013-02-25
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1766年(明和3年)
この年
・幕府役人と山城屋が金山調査のため福山(松前)へ到着。
またロシア人イワン・チュルヌイが択捉島からウルップ島へ渡り、越年する。
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・御前崎沖で難破した薩摩藩御用船の船頭が、助けてくれた村人へさつまいも栽培を教え、以降、駿河に栽培が広まる。
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・村上藩、三面川の鮭の繁殖に貢献した代官青砥武平次が、70石を加増される。
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・フィリピン、インド洋を経由したスペインとの直接貿易開始(~1783)。
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1月
・鯖江藩領で郷盛に反対する庄屋層を中心とする落書騒ぎ。
今立郡広瀬組大庄屋支配下広瀬・東俣・入谷・桧尾谷・三ツ屋5ヶ村の5人が相談し、「領分一統之願」とした願書を鯖江町の藩重役屋敷へ落書。
藩の吟味結果によれば、5人の内首謀者を除く3人が庄屋で、1人は親が庄屋。また5人以外にも協力した庄屋がいる。
首謀者広瀬村茂郎右衛門は、以前にも落書を村々へ働きかけて牢舎となった経験があり、今度は、5人が共同で願書を認め、代金を支払って他人に清書を依頼、同郡薮田村の者に相談し鯖江町の時内という人物に銀子を与えて落書を実行。
庄屋層を中心として計画し、落書の経験を積み重ねた上での実行である。
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・ルソー、スイスからロンドンに到着。
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1月1日
・ルイ・アレクサンドル・ベルティエ(13、後のナポレオンの元帥)、王立工兵学校に入学。
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1月14日
・近松半二・三好松洛らの人形浄瑠璃「本朝廿四孝」が大坂で初演。
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1月14日
・デンマーク国王フレデリック5世(43)、没。息子のクルスティアン7世が即位。
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1月19日
・西濃騒動。
大垣藩領の農民、年貢減免を求めて大垣へ強訴。
9月、首謀者処罰。
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1月22日
・モーツアルト(10)、デン・ハークで音楽会
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1月26日
・モーツアルト一家、アムステルダム到着。
29日、モーツアルト、乗馬学校の公開演奏会。前年12月末にハーグで作曲された「交響曲第5番変ロ長調」(K22)がモーツァルト自身の指揮で演奏。
( C.E.グラーフのオランダ歌曲によるクラヴィーアのための8つの変奏曲ト長調(K.24)を作曲。)
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1月28日
・弘前・青森で大雪、ついで大地震。
津軽藩領内の死者1,240人余、潰家5千戸、焼失200余。余震は年末まで続く。
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2月
・小田原藩が領内在郷商人の商品仕入先を調査。
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・イギリス、ベンジャミン・フランクリン、イギリス議会で植民地課税に反対する証言。
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2月7月
・幕府、長州藩・新発田藩・津軽藩など9藩に美濃・伊勢・甲斐の河川の堤防普請を命じる。
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2月8日
・弘前で地震。家屋破損多数。人馬死傷多数。
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2月23日
・前ポーランド王スタニスワフ1世(89)、フランスで没。
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2月23日
・フランス、ロレーヌを併合
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2月25日
・幕府、難破中国船の回収費用について、漂着荷物の回収費用のみ長崎奉行払い、その他は浦々の課役と定める。
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2月26日
・アムステルダム、モーツアルト、乗馬学校で第2回目の音楽会。第3練習帳「カプリッチ」(K.32a)をオルガンで演奏。
(「ハーグ・ソナタ」6曲:クラヴィーアとヴァイオリンのためのソナタ変ホ長調(K.26)、ト長調(K.27)、ハ長調(K.28)、ニ長調(K.29)、ヘ長調(K.30)、変ロ長調(K.31)を作曲、「作品4」としてオランジュ公妃に贈る)
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3月
・幕府、浄土真宗御蔵門徒を異端として逮捕。9月、処刑。
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・この月7日以前、モーツアルト、ハーグかアムステルダムで、オランダのハーグ宮廷楽長グラーフがオランジュ公ヴィレム5世のために作った歌曲を主題に、K.24 (Anh.208) 8つのピアノ変奏曲 ト長調を作曲。さらに、ナッソーの主題による(「ヴィレム・ファン・ナッソウ」の歌による)K.25 7つのピアノ変奏曲 ニ長調をヴァイブルク侯妃カロリーネのために作曲。
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・ 『百科全書』第8巻~17巻が一挙に刊行。
ルソー、「和声」「旋律」「旋法」「音楽」「単旋律聖歌」「レシタティーフ」「体系・シュステマ」「ユニゾン」など執筆。
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3月初
・モーツアルト一家、デン・ハークに戻る。
8日~12日、デン・ハークでヴィルス5世親政祝祭。
11日、モーツアルト、オランジュ公ヴィレム5世就任祝いに伺候。祝いのために「ガリマティアス・ムジクム」(K.32)を作曲。
「ここでわれらが幼き作曲家は、ヴァイオリンの伴奏を伴うクラヴィーアのための六曲のソナタを、公の姉君、つまりナッサウ=ヴァイルブルク侯妃のために作曲することを依頼されましたが、これらのソナタは、また同時に版刻されました」(1766年5月16日付)。これがK26~K31の連作であり、『作品4』の番号がつけらた。
(ナッサウ=ヴァイブルク候妃の依頼により作曲したクラヴィーアとヴァイオリンのためのソナタ」(K.26~K.31)を「作品4」として出版、オランジュ候妃に献呈。第3スケッチ帳(カプリッチ)(K.32a)(散失)作曲。)
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3月4日
・イギリス議会、植民地の激しい反発のため印紙税法撤回。同時に、宣言法(本国の課税権の留保)。
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3月7日
・幕府、近畿・西国の在々絞り油稼ぎを禁止し、在々手絞り油を大坂へ積登せるべきことを布達。

「(油専売)この禁を犯す者が多少あったと見えて、明和三(一七六六)年三月にまた令を出して、近頃一国限りにおいて、油の売買をする者ありと聞える。今後は一切大坂の油問屋に送るべし。たとい私の地においても決して油の材料を持って来て自分の営業とすることある可らずと定めた。これらは一利一害でずいぷん偏鄙の小さな村などにおいて、折角自分の村で造られるところの油を、態(わざ)と遠方の大坂に持出して、それから自分の村に持って来て、売らねばならぬという不便があって苛んだ事であろう。」(辻善之助『田沼時代』)
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3月23日
・スペイン、マドリード、穀物価格設定自由化政策に反対暴動。背後にイエズス会。
翌日、軍隊出動
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3月末
・モーツアルト一家、デン・ハーグ出発。
モーツアルト(10)、ハーグで「交響曲 ト長調(「旧ランバッハ交響曲」)」(K.45a (Anh.221))作曲。前年10月に作られたものを加筆し、ナッソーヴァイルブルク侯妃の為に、アリア「誠実に身を守れ」(K.23)を完成(月11日に宮廷で初演)。

■『ランバッハ交響曲』の問題
1923年、オーストリアの音楽学者ヴィルヘルム・フィッシャーがモーツァルトの初期の交響曲を再発見したとして楽界に発表。
1767年~69年のモーツァルト父子の第3回ウィーン旅行の帰途、リンツ近くのランバッハのベネディクト派修道院に寄進した『交響曲ト長調』(KAnh221=K45a)の筆写譜が研究された結果、モーツァルト作品ということが再確認され、モーツァルトの交響曲が1曲増えたことになった。

次に、1964年、モーツァルト研究の泰斗ヘルマン・アーベルトの娘で音楽学者アンナ・アマーリエ・アーベルトが、この『ランバッハ交響曲』が、モーツァルトのものではなく父親の作品であり、同じく1769年1月4日にランバッハ修道院に寄進されたレオボルトの同じト長調の交響曲で四楽章をもつ作品の方が、むしろモーツァルトのものだという新説を発表した。
このアンナ・アマーリエ・アーベルトの新説は、1960年代後半~1970年代いっぱい一般に受け容れられた。これが、『新ランバッハ交響曲』である。

1980年、ミュンヒェンのバイエルン国立図書館で、『旧ランバッハ交響曲』の筆写譜で、レオポルトやナンネルルも加わっての手書きのパート譜が発見されるた。
この筆写譜には「ヴァイオリン二、オーボエ二、ホルン二、ヴィオラと低弦のためのシンフォニーア、ザルツブルクのヴォルフガング・モーツァルト作。デン・ハーク、一七六六年」と謳われている。
即ち、『旧ランバッハ交響曲』は、フィッシャーの発表通り、モーツァルトの作品であるが、3度目のウィーン旅行の折ではなく、この西方大旅行の終り近く、オランダのデンハークで書かれたものである
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