2013年2月4日月曜日

寛仁2年(1018)6月~8月 阿閣梨仁海の請雨経法 道長の土御門第完成と源頼光の奉仕

江戸城(皇居)梅林坂 2013-01-30
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寛仁2年(1018)
6月3日
・大極殿に僧百人を集めて仁王経が転読。
4日、最後の切札として、東寺の僧、阿閣梨仁海が命を受け、神泉苑で請雨経(しよううきよう)法を修し始めた。
同時に、安倍吉平(よしひら)は陰陽道による五竜祭を行ない、また、獄の囚人のうち、軽犯21人が放免され、数々の善根が積まれた。

仁海が修法を開始した6月4日から、毎日のようにおもに西北方に黒雲が起こり、雷鳴があったが、京都に雨は降らなかった。
しかし、第5日の8日に小雨があり、黒雲が天を覆い、風烈しく、夕刻には激しい降りとなった。
諸卿は感嘆に堪えず、早く仁海を僧綱に昇任させるべきだと言った。道長も直ちに使いを出して仁海に祝意を述べている。

この雨は1日で終わったので、大極殿の御読経の3日間の予定を2日間追加した。
今度は僧侶の側から申請して、6月8日から僧500人を太極殿に集めて読経が再開。

仁海の修法も11日で終わるところを、更に2日間追加されたが、それが終わる13日午後、風が強く吹き始め、黒雲が起こり、夕方、風が止むとともに雨が降りだし、夜には大雨と化し3日間降り続けた。

6月14日には伊勢大神宮以下の21社に奉幣使が立てられた。
さしもの旱魃もこれで救われたが、かえって薬がきき過ぎたと見えて、7月19日には丹生・貴布禰の2社に雨を止めることを祈る止雨奉幣使が立てられた。
このときの降雨はもっぱら仁海の修法の功徳として受け取られた。
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6月19日
・この日から月末にかけ、夜毎に西北方の空に長大な彗星が出現して不吉が噂される。
仁王会も行なわれたが、同年12月の敦康親王の薨去、翌年3月の道長の出家、4月の刀伊の来襲、翌々年の疫病・大風・天皇の大病などは、全てこの彗星が前兆であったとされた。
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6月20日
・受領の奉仕
藤原道長の土御門第造営に際して、伊予守源頼光が家中の雑具いっさいを献上した。
頼光の献上した物の目録を人々は除目書のように書き写したといい、大納言藤原実資もその日記に書き写している。『小右記』によると、源頼光が献上したのは「厨子・屏風・唐櫛笥具(からくしげぐ)・韓樻(からびつ)・銀器・鋪設(ふせつ)・管弦具・釼(たち)、其の外の物、記し尽くすべからず」であった。さらに、厨子には種々物(くさぐさのもの)、辛樻(からびつ)には夏冬の御装束が納められており、唐櫛笥の具はみな二具揃えられていた。この他に、枕莒(まくらばこ)や屏風二〇帖、凡帳二〇基などもあった。実資は、「希有の希有の事なり」と嘆じている。

源経基の子孫は、藤原師輔(もろすけ)・兼家(かねいえ)・道長(みちなが)と続く摂関家嫡流(九条流)に密着していったが、これは、満仲の嫡子頼光の道長に対する忠勤ぶりと、受領経験によって蓄えた莫大な財力を示すもの。
頼光は、こののち美濃守から伊予守にすぐに適任している。

また、道長は土御門第寝殿の造営を、受領1人に1間ずつ割り当てている。
同じ方式は法成寺造営に際しても採用されており、無量寿院(阿弥陀堂)造営を受領1人につき1間ずつ割り当てている。
天徳4年(960)年以降しばしば内裏が炎上し、その都度内裏造営が諸国受領に割り当てられ、受領が奉仕して再建されているが、その「内裏国充(だいりくにあて)」の方式を道長が取り入れたと考えられる。
この土御門第は、長和5年(1016)7月に焼亡したあと再建したものであるが、被災前に比べて格段に豪勢なものになった。
土御門第造営に際して、藤原実資は、「当時(現在)の太閤の徳、帝王のごとし」と言っており、道長の権力の大きさを知ることができる。
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6月27日
・藤原道長の新邸完成。この日、盛大な新築移転の式。
完成間近い邸の庭の造作には、連日数百人の人夫が市中を巨石をひき、民家に乱入して戸や支え木を勝手にはずして敷板やころに使ったといい、田の用水を庭の池水として引き入れたともいう。
おりからの大旱魃で、正暦2年(991)の旱魃には広大な神泉苑の池の水を開放して山城国紀伊・葛野2郡をうるおしたとあったのに、今は逆に用水を自邸に引き込んだ。実資はこのような道長の行為を慨嘆している。
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7月28日
・威子立后は予定の道筋であるが、既に娘の彰子(一条)・妍子(参上)が后位にあり、威子の立后となれば、一家三后という前代未聞の結果になる。
道長は、多少は自分から言い出すのを憚った様子だが、恐らくそれを察してか、この日、太皇太后彰子は道長・頼通を召し、威子立后は早くしたらよかろう、とのことであった。

彰子は道長の娘ではあるが天皇の生母であり、その意向は絶対に無視できない。
道長も日ごろ彰子と連絡をとって相談していたが、天皇の生母彰子が、天皇の配偶者の待遇についてこのような意見を出す以上は、大義名分は立派に立つ。
道長は早速人々を集めて打合せに入り、即日、日取りを10月16日と決定した。

この案件が「母后令旨」によって重要事項が決められた最後の案件であり、この例をみると、「母后令旨」の決定事項は、一般の政治事項ではなくて、摂政自身、前摂政自身に直接関係する事項であることがわかる。
一般的な政治事項は天皇幼少時には摂政によって決定されるが、摂政に直接関係する事項については、摂政が自分の判断では決定できず、「母后令旨」が必要だった。
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8月
・この月、陸奥守藤原貞仲(さだなか)と鎮守府将軍平維良との間で合戦。
将軍維良は奥六郡で略奪的な徴税と交易を行ったあげく、任終年を迎えて累積未進の処理などを巡って国守貞仲と対立したものと思われる。
この合戦によって維良は解任された。

その後も平永盛(ながもり、天慶勲功者の平群清幹(へぐりのきよもと)子孫)・藤原頼行(秀郷子孫。兼光の子)と武士系将軍が続いたが、万寿4年(1027)に在任した頼行を最後に、天喜元年(1053)に源頼義が鎮守府将軍に任命されるまでの26年間、将軍補任はみえない。
将軍維良の略奪的な奥六郡支配に手を焼いた陸奥国司は、頼行の任期切れとともに将軍の停止を政府に求め、有力俘囚首長の一人、安倍忠良(ただよし)を奥六郡司に起用して奥六郡支配を委ね、福島城での夷狄交易も委託したものと推測される。
前九年の役の主役、安倍氏の登場である。
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・藤原行成「白氏詩巻」を記す。
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8月16日
・東寺の僧、阿閣梨仁海は、請雨の成功の賞により権律師(ごんのりつし)に任ぜられて僧綱の一員に昇格。
後に僧正にまで進んだが、その間、命を受けてこの請雨経法を修すること九度、常に成功して雨僧正と呼ばれた。
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