2013年2月5日火曜日

川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(45) 「二十七 「活動写真」との関わり」(その1)

江戸城(皇居) 2013-02-05
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川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(45) 
「二十七 「活動写真」との関わり」(その1)

「わたくしは殆ど活動写真を見に行ったことがない」(「濹東綺譚」冒頭)

「日乗」には、当時(昭和11年頃)、荷風が映画を見たという記述は殆ど無い。

大正10年発表「雨瀟瀟」
日本趣味を持つ実業家が若い芸者を愛妾にするが、その女が「活動の弁士」と深い仲になったのを知って縁を切る話。
若い女が若い男に惹かれるのは仕方ないが、「活動の弁士」とは何事だ、と男は怒る。
道楽で浄瑠璃を習っている日本趣味の男から見れば、「活動」など軽薄な輸入文化にしか見えないのである。
「宿弁に血道を上げるとは實にお話にならない」と憤慨。
「おそらく荷風は、この主人公に共感している。同時に、芸者でさえ「活動」を見るようになった新しい時代の到来に気づいている。」(川本)

「雨瀟瀟」が書かれた大正中頃は、映画史上で非常に重要な時期で、映画が次第に見世物から、より新しい感覚を持った表現形式へと変っていった時。
映画の批評専門誌「キネマ旬報」創刊が大正8年。
若い映画青年たちに大きな影響を与えたドイツ映画『カリガリ博士』が公開されたのが大正10年。
谷崎潤一郎が映画に興味を持ち、『アマチュア倶楽部』『葛飾砂子』の脚本を書いたのは大正9年。
映画は次第に若い世代に芸術として意識されるようになっていた。

「濹東綺譚」には、すでにこの時代、「活動写眞」という言葉は「廃語」になって久しいとあるが、映画批評家の草分け飯島正の回想記『ぼくの明治・大正・昭和』(青蛙房、平成3年)によれば、「活動写真」に代って「映画」「キネマ」が使われるようになったのもやはり大正中頃だったという。

「雨瀟瀟」はこういう新しい映画の時代にあえて背を向ける形で書かれている。
古き良き江戸の遊曲が次第に消えていく。代って映画が巷にあらわれてきた。
自分は古い人間だからとても映画にはついていけない、時代から忘れられようとしている浄瑠璃の世界に入っていくしかない。
荷風の反時代趣味の現れである。

「活動写眞」の初出は大正15年4月15日。
「日暮田中巌谷の二氏乗る。山形ホテルにて晩餐を共にし、溜池の活動写眞館に往く」とある。
溜池の映画館は、徳川夢声の活弁で知られた日活の直営館の葵館で、”葵の徳川か、徳川の葵か”といわれるほどの人気があった。

関東大震災で焼失したが大正13年10月17日に新館が完成。村山知義が制作したダダイズムの緞帳が話題を呼んだ、モダンな、当時としては最先端の映画館である。
荷風は若い友人の田中総一郎と巌谷一三に誘われて葵館に出かけた。
当時の「キネマ旬報」で当日、葵館で上映していた番組を見てみると、ムルナウの傑作『最後の人』と、メイ・マレー主演のアメリカ映画『舞姫ニノン』、それに短篇『ラヂオ飛行船』の3本立て。
若者たちはおそらく当時、人評判になったエミール・ヤニングス主演の『最後の人』(昭和元年のキネマ旬報ベストテン第2位)を見せようと荷風を誘ったのだろう。

このあと戦前の「日乗」にはほとんど映画の記述はない。
映画嫌いはしばしば顔を出す。

大正13年3月19日
「午後松竹活動写真会杜の社員来り、旧著すみだ川を写眞に什組みたしと云ふ。驚いて其請を容れず」。

昭和4年1月31日
愛妾お歌の三番町の待合に映画人が来て「野暮な遊び」をしたとして怒る。
「今更の如く芝居活動写眞等に関係する人間の趣味性行のいかに劣陋野卑なるかを知り、慨歎すること甚し」。

昭和5年12月22日
亡友の遺女、儒家の孫娘が松竹の女優になったといって憤慨する。
「儒者の家より活動の女優を出すも盖し時勢の然らしむる所なるべし、予は老年子孫なきを喜ばずんばあらず」

昭和4年大ヒットの流行歌「東京行進曲」(西條八十作詞、中山晋平作曲)の4番は「シネマ見ましょか お茶のみましょか」である。
荷風は映画が嫌いだったがこうした映画の時代に無関心ではいられない。新風俗としての映画を作品のなかに徐々に書き入れるようになる。

昭和初期の銀座のカフェーの女給を描いた「つゆのあとさき」(昭和6年)では、流行作家清岡進の愛人が松竹蒲田のスター女優ということになっている。
また女給のなかには、以前、蒲田で女優をしていたが芽が出ないので、映画をやめてカフェーに来たという女もいる。
清岡の愛人の名前「杉原玲子」は映画『女給』に主演した「水原怜子」から取られている。

そして、「濹東綺譚」。
「然し活動写真は老弱の別なく、今の人の喜んでこれを見て、日常の話柄にしてゐるものであるから、せめてわたくしも、人が何の話をしてゐるのかと云ふくらゐの事は分るやうにして置きたいと思って、活動小屋の前を通りかゝる時には看板の画と名題とには勉めて目を向けるやうに心がけてゐる」
また、「わたくし」が執筆中の小説「失踪」の主人公、中学教師の種田順平の娘を「女学校を卒業するや否や活動女優の花形となった」としている。

随筆「寺じまの記」では、玉の井の女の部屋に映画雑誌「スタア」があるのも見逃さないで書きこんでいる。

しかし、映画とは関わりを持ちたくなかったのだろう。
「日乗」昭和12年4月17日
「川尻清譚君手紙にて再び拙作濹東綺譚を活動もしくは狂言に仕組むべき旨申越されたれば辞退の由を書きおくりぬ。余は書生役者活動役者のために余が小説の毀損せらるゝ事をかなしむ也」

当時、作家の作品が次々に映画化されていっている状況に対する荷風の嫌悪感があったためだろう。
大ヒット曲「東京行進曲」は、菊池寛原作の同名作品の映画化(溝口健二監督、入江たか子、夏川静江主演、昭和4年)に際して作られた主題歌である。

荷風にはこういう状況が文学作品の安易な商品化に思えたのだろう。
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