江戸城(皇居)二の丸庭園 2013-04-10
*1767年(明和4年)
5月
・幕府、安房の嶺岡牧の馬代金を代官所取り立てにかえる。
またこの年、牧士が18人となる。
*
・前年の絞油制限令に反対して、河内などの村方絞油屋がこれまでどおりの営業許可を願いでる。
*
・ルソー、イギリスよりフランスに戻る。相変わらず、各地を転々とする。
*
5月13日
・ザルツブルク、モーツアルト、ラテン語の喜劇「アポロとヒュアントウース」(K38)、 ザルツブルク大学講堂で学生達により初演。モーツァルトが書いた最初の世俗的な劇作品。
毎年学年末の授賞式に先立って、学生がオペラや演劇を演じるしきたりがあり、この年はルフィーヌス・ヴィードゥル師の作、ラテン語悲劇『リューディア王クロイソスの慈悲』が演じられ、モーツァルトの喜劇はそのインテルメッゾにあたっている。
初演のプログラムには「この楽曲の作者は、著名にして活躍せる楽長レオボルト・モーツァルト氏の十一歳のすぐれた息子ヴォルフガング・モーツァルト氏」とあり、レオボルトによるヴォルフガングの『作品目録』には、「アポロとヒアチントゥス、ザルツブルク大学のために作曲された五人の歌手によるラテン語喜劇のための音楽。
原語は百六十二ページ。一七六七年、ザルツブルク」とある。
*
5月22日
・銀山奉行による鉱山検分
「明和四(一七六七)年五月二十二日には諸国公領・私領・寺社領の地続の地において、金・銀・鋼・鉄・鉛等の鉱山を開くことを企てる者があったならば、代官地頭の書付を以て銀山奉行に届出る可し。従来開いた鉱山も皆その銀山奉行の方において調べをする。この度銀山奉行が各地を巡視することになったから、京城その他の土地においても、便宜に従って申出ず可しという令を出した。
同年にはまた潰銀といえども銀座より外において売買することを禁じた。調度の諸道具に用いる銀といえとも、これは座より外に買取ることは出来ぬ。しかるに近頃窃に銀を売買して女の櫛笄(こうがい)等に用いる者が多くあるそうである。それは曲事であるから、堅くこれを禁ずるという令を出した。ついで同上の令を安永四(一七七五)年および天明五(一七八五)年において申(かさ)ねた。これはなお窃にこの禁を犯す者が多かったと見え、銀の専売ということが充分に行われなかったためである。」(辻善之助『田沼時代』)
*
6月
・幕府が、朝鮮人参価格を決定し、7月の発売および江戸・京都・飛騨高山の下売り商人を定める。
*
・大坂菱垣廻船問屋の手代らが、前年10月に完成した由良港を調査し、菱垣廻船の寄港地とする。
*
・モーツアルト、「クラヴィーア協奏曲(第2番)変ロ長調」(K.39) 、「(第3番)ニ長調」(K40)、「(第4番)ト長調」(K41)作曲(7月との記述もあり)。
*
6月9日
・滝沢馬琴、誕生。
*
6月23日
・ポーランド、国王スタニスワフ・アウグストの改革に対抗してロシア公使ニコライ・レブニンは保守派マグナートにラドム同盟結成させ国王に反対させる
*
6月25日
・作曲家テレマン(86)、没。
*
6月29日
・イギリス、タウンゼント諸条例を制定。
チャタム(ピット)の病中に蔵相チャールズ・タウンゼンドが制定(ガラス、鉛、塗料、茶に新税)。
北米ではディキンソンが12回にわたり「ペンシルヴェニアの農夫から英領植民地の住民への手紙」(~1768)を発表、タウンゼンド法による課税を批判。
各植民地は「不輸入協定」(イギリス商品ボイコット)で応じる。
税関関係者が襲われたり、倉庫・海事裁判所が襲撃される。
1770年3月5日、ボストンでの反英デモに軍隊が発砲、死者3人がでる(「ボストンの虐殺」)。
*
7月
・モーツアルト、この頃ザルツブルクで、K.41a 6つのディヴェルティメント、K.41b 管弦楽作品、K.41c 行進曲、 K.41d メヌエット、K.41e ピアノのためのフーガ、K.41f 4声のフーガ、K.41g ナハトムジークを作曲、全て紛失。
*
・ドイツ人パラス(26)、ペテルブルクに到着。はじめ科学アカデミー助手、ついで博物学教授となる。
1768~74第2次アカデミー探検に参加。エニセイ河畔で隕石(パラス隕石、670g)を発見。調査結果を「ロシア帝国内各地方の旅行」(全4巻)の第1分冊刊行。1793~94クリミアとウクライナを自費で調査。1789エカテリーナ2世命令により「全世界言語比較辞典」編纂。
*
7月1日
・側衆の田沼意次、御用人(側用人)となる。
*
7月9日
・和泉4郡の村々が絞油稼ぎの許可を訴願する。
*
7月19日
・尾張、三河で洪水と山津波。農地と東海道の宿場に大きな被害でる。
*
7月21日
・士風の廃頽
「遊女を妾とし前妾より金を借りて返さず
次は明和四(一七六七〕年の七月二十一日に小普請の遠藤甚四郎という者が遠流に
処せられた。これは遊女を買取って妾にしておった。後また他の妾を置いたところが、前の妾から金を借りながら遂に自分の心に叶わぬというて押籠めて置いた、その妾が逃出して行って訴えた。そこで甚四郎の悪事露われて此の如く罪せられた。一族弥一郎もその事に坐して遠流に処せられ、新番酒井半右衛門も閉門仰付けられ、大工頭福田久左衛門も士籍を没せられ、甚四郎の母は一族に預けられ、妻らは皆それぞれ咎を受けた。」(辻善之助『田沼時代』)
*
8月11日
・[露暦7月31日]エカテリーナ2世、新法典編纂委員会発足。
*
8月13日
・福井藩、三国で尾張屋五郎兵衛家が打毀しを受ける。大野地方の米1万俵を買い占めこれを他国へ積み出そうとしたからという。
*
8月22日
・明和事件。
幕府、尊王論者山県大弐・藤井右門を死罪。宝暦事件の竹内式部を八丈島に流罪。
宝暦事件の8年後、今度は江戸で尊王論弾圧。
江戸で軍学教授をしていた元甲府の医師山県大弐の門人に、上野国小幡藩の家老吉田玄蕃がいた。吉田は、同藩用人の相原郡大夫との間の私怨がもとで藩から処罰された。
ところが、この処罰に関して大弐との交友が原因との噂が広がり、浪人の桃井久馬や町医師の宮沢準曹らは、巻き添えになることをおそれて、大弐が幕府に対する謀叛を企てていると出訴した。
幕府は、大弐と彼のもとに寄宿していた藤井右門を捕え8ヶ月間取り調べた。
この結果、2人とも謀叛の疑いはなかったが、言動に幕府の忌諱に触れることがあったとして、大弐は死罪、右門は獄門とされた。
また、事件とは全く無関係に伊勢で静かに暮らしていた竹内式部が改めて法廷に呼び出され、遠島に処せられている(同年12月、遠島途中の三宅島で病没)。
山県大弐は、政治の要諦は礼楽制度を建てることであり、礼楽制度は天子から出てこそ道であるという立場から鎌倉時代以降の武家政治を厳しく批判した。
「柳子曰く、政の関東に移るや、鄙人(ひじん)其の威を奪い、陪臣其の権を専らにし、爾来五百有余年。人唯(た)だ武を尚(とうと)ぶを知りて、文を尚ぶを知らず、文を尚ばざるの弊は、礼楽並壊し、士は其の鄙俗に勝(た)えず。武を尚ぶの弊は、刑罰孤行し、民は其の苛刻に勝えず。俗吏乃(すなわ)ち謂う、文を用ふるの迂(う、まどろこさ)は、武に任ずるの急に如かず。礼を為すの難さは、刑を為すの易さに如かず」(山県大弐『柳子新論(りゆうししんろん)』第五の文武篇)
*
8月22日
・上野の小幡藩主織田信邦が蟄居となり、弟信浮(のぶちか)が家督を継いで出羽の高畠へ転封される。
*
8月25日
・フランス、サン・ジュスト、ニヴェルネ州ドシーズに誕生。
*
*
*
0 件のコメント:
コメントを投稿