2013年4月25日木曜日

牧野和春『桜伝奇』を読む(3) 第11章 三春滝桜(福島県)-(その2)

牧野和春『桜伝奇』(日本人の心と桜の老巨木めぐり)
第11章 三春滝桜(福島県)-(その2)
2 日本人の心と「シダレ」

(「三春滝桜」その1より)

なにゆえ、しだれ桜がこれほどまでに全国的に広がっていったのか:優美さからだけか?
「なにゆえ、しだれ桜がこれほどまでに全国的に広がっていったのか。

しだれ桜の花が咲いたときの、あのなんともいえぬ優美は桜の花の美しさの極致であるともいえるだろう。
しかし、単にそれだけの理由によるものであったのか。」

柳田国男『信州随筆』「しだれ桜の問題」
「彼(*柳田国男)は『信州随筆』のなかで「しだれ桜の問題」としてこれを取り上げている。

昭和五年四月のたしか二十六日、東筑摩の和田村を通ってみると、広い耕地のところどころに、古木の枝垂桜があって美しく咲き乱れている。近年野を開いたろうと思う畠の地堺(じざかい)などで、庭園の跡とも見えず、妙な処に桜があるというと、同行の矢ケ崎君は曰く、以前はもっと古いのがまだ方々にあった。そうして墓地であったかと思う処が多いということである。私にはこれはまったく始めての経験であった。

という書き出しである。」

柳田は、
「しだれ桜という品種と、信州という土地柄の問題、次にしだれ桜と墓地との関係に関心を寄せてい」た。
また、洗馬(せば)の村の東漸寺(とうぜんじ)の門頭の1本の老樹や他の若い12本の木を見て、「なるほどこれは注意してみなければならぬと思った。」という。

しかし残念ながら、
「柳田の議論は、これから先は信州、小野にある「天狗の枝垂粟」の記事(『千曲之真砂附録』にあり)の連想や、いわゆる夫婦松や三本杉、「捻(ねじ)れ木」の問題へと記述がひろがり、要は「垂れているゆえに霊異と感ぜられた」という解釈に行きつく。」

「それはそれで一つの解釈であるとは思う。」が、
結局のところ、
「柳田の論は、話が「しだれ桜」から離れてどんどん拡散してしまい、何が本質的に問題なのか、何を追求せんとしたのか論として不明確に終っている。」

従って著者は、
「しだれ桜の存在に、日本人の心の問題として注意を払った人物」として柳田を評価している。

桜以外の樹種にみられる「しだれ」と日本人の心
「桜にかぎらず、一般に「しだれ」という現象に、特に日本人は他の樹種についても大いに関心を抱いていたらしい痕跡がある」

「特に、巨樹、巨木という視点で日本列島を見渡してみるとき、各地に「しだれ」の巨樹、巨木があり、これらの木が地元の人々により大切に保存されてきたことが分る。」

国の天然記念物指定木の中から拾うと・・・
「盛岡市および岩手県紫波郡都南村にある「シダレカツラ」。これは桂の木のしだれたものでは最大の巨木である。

福島県いわき市にはモミジのしだれたので「中釜戸のシダレモミジ」がある。

東京都西多摩郡日の出村には「幸神(さちがみ)神社のシダレアカシデ」がある。

長野県では先程の「天狗の枝垂粟」の話にでた「小野のシダレグリ」がある。

同県小県郡丸子町には「東内のシダレエノキ」がある。

岐阜県恵那郡付知町には「垂洞(たれほら)のシダレモミ」がある。

これらはいずれも巨木で、樹齢数百年といわれるものもある。」

「これら、しだれの形態の樹木がなに故に人々から注目されたのか。
その点の解釈をあえて求めようとするならば柳田国男が指摘するとおり、しだれていることにより、もっとも神霊の依りつく木として神聖視され、重要視されたのだ、ともいえるであろう。

けれども、それほどに、初めに合理的解釈が前提されて、然るが故にしだれた木々が珍重されたのだと強調すれば、それはやはり民衆の心意を正確には伝えていまい。

民衆の心は、それらの要素をも含めてもろもろの願望や霊意の気持を一本の変わった形態の木や花に無意識のうちに投影したのであろうと考えられる。

その意味では奇木に対しても、民衆は、それが奇木ゆえに、その木自体になにか神秘的な力、エネルギーがこもっているとみなし、その木を特別視したのである。

しだれに対しても、そこに他の木にはない特別の霊力を感知したはずである。だから、そのことを神霊の依りつく木と解釈すれば、柳田の見解は当ることになるわけである。」

「三春滝桜」の祠
「ところで「三春滝桜」の根元には小さな祠が祭られている。

祠は昔かららしい。そして主幹にはシメナワが巻かれている。

つまり、この木が神聖な木であり、神として祭られていることを示す。

あるいは、桜久保という地名から察せられるとおり、この桜はこの土地の主としての性格が強いのかもしれぬ。すなわち「地主(じしゅ)桜」としてあがめられてきたのかもしれない。」

桜の枝の中(小宇宙)に入り最高の至悦感にひたる
「眺めていると、桜見物に訪れた人々はそっと桜の枝の内側に入って行く。
私もそれにつられて、しだれの内側に入れさせてもらう。つまり、体ごと桜の花のドームに包まれる。大きな桜の花の傘の下に入れてもらうわけである。

すると、どうであろう。
不思議に心安まり、なにか自分があたたかな心で包まれているような気分にさえなるのだ。
自分のまわりも目の前も頭上もすべては花、花、花の世界であり、桜の花でいっぱいに満たされている。

しだれ桜を人間との関係で物理的に構造的に位置づけるとしたならば、この構図にほかなるまい。

つまり、ここでは人間は外部の世界と遮断せられて、誰でも桜花という小宇宙の主人に、この瞬間だけはなれるのである。
それは、わけても日本人にとっての最高の幸福感なのではあるまいか。

日本人が、求め得る最高の至悦感にひたることのできる瞬間であり、精神的エクスタシーに昇華され行く一瞬なのではあるまいか。」

3 ねがはくは花のしたにて・・・

「賽の河原地蔵和讃」の世界
滝桜の枝の中に入って法悦感にひたった著者は、ここで
「唐突のようであるけれども、あの「賽の河原地蔵和讃」の世界」を思い浮べる。

「十にも足りぬみどり児が、河原の小石を集めては、一つ積んでは父のため、二つ積んでほ母のためと、石の塔を供養のために築こうとするが、陽が沈む頃ともなると、どこからともなく地獄の鬼が現われて、無残にもせっかく児等が積んだ石を金棒で突き崩してしまう。

児等はなおもこの世の親を慕って恋い焦れて泣く。

そこへ地蔵様が現われ、「やれ、汝らは何をする」といって、地獄の鬼を錫杖で追い払い、泣き叫ぶいとけなき児等をもすその下にかばいつつ、さても縁薄きおまえたちよ。こうしてここにやってきたが、今日よりほ自分を冥途の親と思えと救いあげるのである。

この哀切の極みともいうべき世界と、地蔵菩薩による一転救済によって人々の心は浄化されるのである。」

著者は、祖母から子守歌がわりに「賽の河原和讃」聞かされたという。
「目覚めているような、眠っているような、なんともいえぬまどろみの状態で、「これはこの世のことならずーゥ、死出の山路のすそ野なるーゥ・・・」と、これも語るでもなく、歌うでもない一種恍惚の哀詞の世界へと知らぬ間に引きずり込まれ、眠りの世界へと溶けて行った思い出は今もからだから消えない。」

そして、こう締めくくる。
「滝桜の根元に立ち、桜花のしだれの中に包まれている法悦感は、あたかも地蔵菩薩に救われ、衣のすそに包まれている、あのみどり児たちの気特に通じているのではあるまいか。
自分は、滝桜の傘の下にいると、桜の花々が私の頭上を覆い、まるで天から花が降り注いでいるかの錯覚さえ感じる。」

さらに『法華経』の世界へと
さらに著者は、
「すると、私にはこうも解釈されてくるのである。これはまるで、あの『法華経』の世界なのではあるまいかと。

・・・、法華経に描かれている、ある世界が今ここに現出されているのではあるまいかと感じられる」という。

『法華経』序品を引用し、
「お釈迦様が尊い教えを説き、瞑想に入られるたびに、これに共鳴して天地が震動し、天上より花々が雨となって地上に降り注いだ、という、その情景について」、

「天地の震動は、釈迦の教えに対する共鳴を、大自然そのものが一種、身体表現を以て答えたことにほかなるまい。その証しが天より降り注ぐ「花」なのである。

灼熱の国インドにあっては、「雨」はまさしく天からの最高の贈物なのであり、「慈雨」そのものである。

そう考えるとき、「花」が「雨」となって降り注ぐさまは、至高の境地なのであり、だからこそ、それは「奇蹟」でもあるわけである。」
という。

また、
「「諸天が仏徳を讃歎して四華(しけ)を散花する記事は諸経典に見える」(岩波版『仏教辞典』七六三頁)が、もっともよく知られているのが、ここに引用の『法華経』(序品)の箇所である。

この影響は『梁塵秘抄』などにもあらわれ、「法花経弘めし始めには、無数の衆生その中に、本瑞空に雲晴れて、曼陀羅曼殊の花ぞ降る」(『梁塵秘抄』五九)といったように、すでにわれわれ日本人の感性のなかに久しく棲み続けている。」
という。

西行の歌と日本人の心の深層構造
著者は、
「この世に人と生まれ、老病死をはじめ避けがたきもろもろの事象に直面した人間が、もし求め得るならば、至高の境地、最高のエクスタシー」
の構図が、「賽の河原地蔵和讃」『法華経』の世界にあり、さらに『梁塵秘抄』にも見え、西行の歌に論を進める。

「その意味では西行が

ねがはくは花のしたにて春死なむ そのきさらぎの望月のころ

と詠んだのも、ひたすら花に包まれての浄土世界を希求してのことであった。

ここには花を借りることによっての日本人が願望してやまぬ心の深層構造があらわにその真像を垣間みせているともいえる。

この基層構造を更に掘り下げるならは、そこには日本人の観音信仰や、母性的な社会構造とその心理、土居健郎が指摘する「甘えの構造」などもっとも基本的な精神軸がみえてくることであろう。

今は、それらを深追いはしない。が、少なくとも、しだれ桜のもとに、あたかも磁力にふれるが如く、かくも強く人々の心が吸い寄せられて行くについては、およそ右の如きがその根本理由にあるのではあるまいか。

そして、その背景にひそむものは、桜花を神霊と受け止めてきた太古以来の日本人の美しき感性にこそ発するのではあるまいか、と解釈するこのごろである。」

田村郡一円に滝桜の子や孫が約100本
「大正十一年、この桜が国の天然記念物に指定になったのを機に、一円にわたりベニンダレの分布調査がなされ」

「それによると田村郡一円だけで驚くなかれ、滝桜を除いて、実に九七本ものベニンダレが生育していたのである。
このうち、現在の三春町地域に属する内訳をみると、中郷村地区=十五本、三春町地区=十二本、要田村地区=二本、御木沢村地区=三本、中妻村地区=三本、合計=三五本にもなる(滝桜は旧中郷村地区の属する。但し、本数は滝桜を除外)。

滝桜だけは根元の周囲十メートル級であるが、これは別格であって、それ以外のこれらの桜は殆ど根元の周囲が五メートルないし三メートルである。ということは、実生か、接木かほ分らぬけれども、まず滝桜の子や孫と考えて間違いあるまい。地元には、いまも「滝桜」の実を拾い、これより発芽を待って苗を育て、分ち与えている人もいる。

推察であるが、神霊の宿る木としての滝桜の分与にあずかろうとする人々の信仰心は、きそってこの花の実を求め、長い時間をかけて滝桜を中心とする広範の地域に、その子や孫を誕生させることになったのではあるまいか

九七本といえば約百本。根元の周囲数メートル、樹高九メートルから十四メートル級が多い。
樹齢にすれば三〇〇年から四〇〇年見当にもなろうか。
江戸期が中心となるが、植栽の場所は社寺の境内が多く、個人の邸宅もある。現在では当然のことながら、これらのうち何本かは枯死、その他により姿を消してはいるだろう。

考えたいのはその心根というものである。
さまざまの理由があげられるだろうことは想像にかたくない。

しかし、その理由の大きな一つに、しだれ桜に心寄せる日本人の心性というものが中心軸としてあり、その心性の心的構造は、と尋ねられるならば、それはやはり日本人が抱く浄土感なのであり、心は祈りの世界へとつながっているのではあるまいか、と私は考えている。」
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