2013年6月10日月曜日

1769年(明和6)2月~5月 尼崎藩灘地域の上知 一揆禁令 モーツアルト、「ラ・フィンタ・センブリチェ」初演 【モーツアルト13歳】

東京 千鳥ヶ淵緑道 2013-06-06
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1769年(明和6)
2月1日
・木曽騒動。筑摩郡尾張藩領の農民が、米の買い占めに反対して山村代官所へ強訴。
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2月4日
・河内、丹南郡22ヶ村が麦不作のため食料を要求して越訴。庄屋11人が牢死、4人が追放。
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2月5日
・モーツアルト、大学教会(コレギウム教会)で大司教列席のもとにミサ。
ドミニクス師(ハーゲナウアーの息子カイエターン)の2月5日付け日記帳。
「九時、尊師は大学教会で、猊下ご列席のもとに、ミサ聖式をとり行なわれた。ミサの音楽は、十三歳の少年ヴォルフガングス・モーツァルト氏により作曲された。」
この時のミサ曲は、1月14日の日付けをもつ『ミサ・プレヴィス ニ短調』とされていたが、この聖式は「ミサ・ソレムニス(盛儀ミサ)」なのであたらないとして、「新全集版」では否定されている。
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2月13日
・尼崎藩灘地域の上知。
幕府、尼崎藩領(松平忠告、4万石)のうち灘の海岸沿い村々など1万4千石余を収公し、播磨国多可・宍粟・赤穂3郡のうちに替地1万9千石余を与えることを申し渡す(明和6年の上知)。
流通の管理を狙って尼崎藩領のうち西宮・兵庫の町々と周辺の菜種産地を幕府領とする。

4月6日、尼崎藩は、上知を命じられた22ヶ村を幕府に引き渡し、兵庫津・西宮町は6月21日に引き渡す。

上知は、勘定奉行石谷清昌の建議により実施される。
兵庫津・西宮を含む摂津国菟原(うはら)郡17ヶ村、武庫郡3ヶ村、八部(やたべ)郡4ヶ村、合計24ヶ村、計1万4千石が上知され、その代わりとして播磨国多可(たか)郡9ヶ村、宍粟(しそう)郡31ヶ村、赤穂郡31ヶ村、合計71ヶ村、計1万9千石が与えられた。表向き5千石増えているが、兵庫・西宮の2港をはじめ、周辺の町場や手工業地帯を失ったため、藩財政は悪化した。

上知は、尼崎藩領以外にも及んだ。
藩領では、丹波篠山の青山領の武庫郡1ヶ村、大和国小泉藩片桐領の菟原郡4ヶ村、八部郡1ヶ村、下総国古河藩士井領の菟原郡2ヶ村が上知され、旗本知行所では、青山氏知行所の菟原郡2ヶ村、青木氏知行所の菟原郡2ヶ村、船越氏知行の菟原郡1ヶ村・八部郡1ヶ付も上知された。

幕臣の植崎九八郎政由は、享和2年(1802)に出した上書の中で、石谷を厳しく批判、「一体石谷淡路守勤万は只御益と申事を御奉公とのみ心得、聚斂(しゆうれん)の臣の最たる者にて不仁の勤万、今以残暴の臣と申せば石谷淡路守噂申出侯」と、幕府の利益を最優先させる悪官僚と評価している。

石谷清昌は、明和4年、長崎奉行であった際、長崎から江戸へ帰る途次、命じられて摂津・河内を巡見し、灘地方の酒造地帯の豊かな風景をみて、その収公を幕府に進言した。
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2月22日
・幕府、一揆禁令を発し、諸領主に他領の騒動に対しても出兵を命じる。

「ついで同年二月二十二日には、百姓の強訴鏡圧の命を下した。その趣は、近頃遠国の農民らが願事を含んで諸処に会合して、檄文を以て他の村々をも誘うて、村役人を初めその他恨みある家などを打毀つ者がある。その事を質(ただ)さるるに及んで願事を申出るものがある。此の如きは畢竟領主地頭が公を憚って、ひたすら事を穏便に済さんと欲するより、下民がますます放縦に成り行いて、不法の事を起すのである。そもそも民を憫むはさる事ながら、此の如く、徒党を企てて、村里を騒がす者を穏かに扱えば、所在これに倣って、ますます付け上るのである。今よりは公領の民が騒動を起したならば、その近傍の領主より人数を出して、私領ならばその領主は申すに及ばず、近傍からも力を戮(あわ)せて十分に手強くこれを討伐すべし、という事を命じた。」(辻善之助『田沼時代』)
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3月1日
・松江藩の米価引き上げ策に反対して、城下の町人が米騒動をおこす。
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3月29日
・仏、ニコラ=ジャン・ド・ディウ・スルト(後、ナポレオンの元帥)、タルン県サン・タマン・ラバスティドに誕生。貧しい公証人の家の長男
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4月5日
・この日付けのワシントンからジョージ・メイスン宛て手紙。
「イギリスにいる我々の横柄な指導者達が、まさしくアメリカの自由を奪うことで満足しようとしているのであれば、攻撃をかわし、我々が先祖から受け継いだ自由を維持するために何らかの措置を取ることが絶対に必要でしょう。[イギリスの]狙いに効果的に抗するために、それをどのように行うかが焦点となります。まことに価値がある恩恵を守る際に武器をとることに躊躇する者はいないだろうというのが私の明白な意見です。しかし、武器は―できれば[意見を]付け加えたいのですが―最後の最後の手段です。王に請願し、イギリス議会に抗議することはどうやら無駄なようだと既に分かっています。イギリスの貿易業や製造業を飢えさせることで、我々の権利や恩恵にどの程度注意が向けられるかどうかまだ試していません。北部の植民地はそうした方式を採用しようと努めているようです。私の意見では、それは良い方法であり、もし一般的に広く実行されれば有益な効果を伴うに違いありません」
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4月10日
・仏、ジャン・ランヌ(後、ナポレオンの元帥)、ジェール県レクトゥールで誕生。父は小作農で貸し馬車屋の厩務員(馬の飼育係)。
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4月16日
・徒党注進の高札
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4月29日
・アーサー・ウェズリー(ウェリントン公爵)、英領ダブリンで誕生。初代モーニングトン伯爵ギャレット・ウェルズリーとダンガノン子爵アーサー・ヒル長女アンの間の4男。ワーテルローの戦いでナポレオンに勝利、イギリスの首相
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5月1日
・モーツアルト、「ラ・フィンタ・センブリチェ(見てくれの馬鹿娘)(K.51(46a))」、ザルツブルクで初演。
初演のプログラムにはイタリア語で、
「『ラ・フィンタ・センプリチェ(みてくれの馬鹿娘〔音楽喜劇〕)』ザルツブルク大司教兼君主、神聖ローマ帝国の王にして教皇庁世襲遣外使節、ゲルマニアおよび旧家シュラッテンバッハ伯爵家の指導者ジギスムント猊下の御命令により宮廷にて上演。」とあり、配役のあと、最後に「作曲は十二歳のヴォルフガンゴ・モーツァルト氏による」となっている。
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5月9日
・コルシカ独立運動挫折。コルシカ軍、ポンテ=ノヴァ(モンテ・ヌオヴォ)でフランス軍に敗北。
6月、パオリ、イタリアに脱出。
パオリ:コルシカの愛国者。1739年、宗主国ジェノヴァのコルシカ支配に抵抗して独立運動を進め、父ジャチントと共にナポリに亡命。1754年、コルシカに戻り、独立政府最高司令官となる。
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5月17日
・ジョバンニ・ガンガネリ(64)、教皇に選ばれ、クレメンス14世として即位。
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5月18日
・北米、ヴァージニア植民地議会、英商品ボイコットを決定。
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