江戸城(皇居)二の丸庭園 2013-06-11
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長元3年(1030)
この年
・北海帝国の成立(1028年とも)。
ノルウェー・ヴァイキングのハラルド・ハードラダ、デンマーク王・イングランド王カヌート大王に敗れ、ロシアのノブゴロド公国・キエフ公国に亡命。
カヌートはイングランド・デンマーク・ノルウェーの大王となり、北海帝国成立。
(この年、子のスヴェン・アルフィヴァソンをノルウェイ王位につける)。
1004年、デンマークのスヴェン1世双髭王がイングランド侵略開始、1013年ロンドンを攻略、全イングランドの王となる。
1014年、スヴェン1世双髭王が没し、デンマーク王に長子ハーラル、イングランド王に次子カヌートが即位。
カヌートは、アングロサクソンのエドマンド2世剛勇王との幾度かの闘いの末、テムズ川を境界とする休戦締結。
1016年、エドマンド2世剛勇王が没し、アングロ・サクソン封建家臣団の会議で王に推挙され、イングランド王カヌートとして即位。
エドマンド2世剛勇王の2人の子は流浪の末、ハンガリー王イシュトヴァーンの許に身を寄せる。また2人の弟は母エマと共にノルマンディの宮殿で保護され、カヌートはノルマンディとの関係改善の為に妻を離縁しエマと再婚。
1018年、カヌートはオクスフォードにサクソン人、デーン人の有力者を集め、エドガー平和王の法の順守と平和を宣言。
1019年、カヌートの兄ハーラル2世没し、カヌートはデンマーク王を兼ねる。
そして、この年(1030年)、カヌートがノルウェー王位を兼ね、3国の王位を兼ねて「大王」と称し、北海帝国を築き上げる(1028年との説もあり)。
ノルマン人カヌートがイングランドの王になりイングランドには平和が訪れる。
カヌートはキリスト教を保護し、旧来のイングランド法も尊重、北海を囲む地域の平和により商業が活発化、都市・商人を成長させる。
しかし、旧来のイングランドの支配体制は変更され、全土は4伯領(アールダム、ノーサンブリア、マーシア、イースト・アングリア、ウェセックス)に分けられた、有力な貴族が伯(アール)に任じられた。伯領の統治を行うことにより、以前から地方政治を担ってきたエァルドゥルマン達は没落する(伯領の数は増減し後には6つになる)。
これらの伯はカヌートの没後、混乱を招く原因となる。
1035年、カヌート(41歳)歿後、後継者争いが起こり、7年後、アングロ・サクソン系王朝が復位し、北海帝国は崩壊。
カヌートの王家(スキョル家)に残ったのはデンマーク1国のみとなる。
北海帝国は短期間に終わるが、デーン人は、イングランド東部の「デーンロー」と呼ばれる地域に慣習法や方言などの面で大きな影響を残し、イングランド語(英語)にも、デーン人の言語である古ノルド語の語彙が多数残った。
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・この頃、ナポリ公セルギウス4世、ノルマン人傭兵首領ライヌルフスにナポリ奪回の報償としてアヴェルサの町(アヴェルサ伯)を与える。
ライヌルフス(レイヌルフ、ライヌルフォ・ドレンゴット、ライヌルフ):
アヴェルサ伯在位1030~1045。1017年?ギョーム・ルポステル殺害、兄弟と共に南イタリアに来る。アヴェルサ伯領、ノルマン人達の「第1の拠点」となる。
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・イフリキーヤ地方(チュニジア)、カルブ朝と新興ジール朝が対立。
972年、ファーティマ朝、チュニジアよりカイロに遷都。
1030年代、対立がシチリアに持ち込まれる。
シチリア各地にアミールが割拠(分裂状態)。
シチリア総督(アミール)にカルブ家任命。シチリア・カルブ朝(948~1044)。
1044年カルブ朝のシチリア支配終了(アミールの争い激化)。
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・ドイツ、コンラート2世、義子シュヴァーベン大公エルンスト(23)反乱鎮圧。エルンスト戦死。
コンラート2世統治下の最大の諸侯反乱。
コンラート2世:
ドイツ王(1024~39)イタリア王(位1026~39)神聖ローマ皇帝(1027~39)ザリエル朝始祖。
フランケン公国のシュパイエル伯ハインリヒ長子、オットー1世娘リウトガルト曾孫、ロートリンゲン公コンラート赤公の孫。
1016年(か1017年)、シュヴァーベン公ヘルマン2世の娘ギゼラと結婚。ギゼラはシュヴァーベン公領とブルグント王領の相続権を保持していた。
ハインリヒ2世が子を残さずして歿し、1024年、国王選挙のための諸侯集会がオッペンハイムで開催された。コンラート2世は、満場一致でドイツ王に選出され、ザーリアー朝初代の王となる。しかし、ケルン大司教、ロートリンゲン大公などは欠席しており、ハインリヒ2世と同じく、コンラートも各地を巡行して、こうした各勢力から王位の承認を得る必要に迫られた。
ザクセン朝期の教会政策を継続・推進し、一方で王領地を拡大。家臣に対して封土の世襲と不可奪性を保障(1037)。
対外的には、シュレスヴィヒをデンマーク王に譲るが(1025)、ポーランド王からは一部領土を奪還、王を臣従させる(1031~1033)。
1026年、イタリア遠征を敢行してミラノでイタリア王の戴冠を受け、その翌年の復活祭の日(3月26日)、ローマのサン・ピエトロ大聖堂で、ローマ教皇ヨハネス19世から帝冠を受けて皇帝となった。この戴冠式には、ドイツ・イタリアの諸侯だけでなく、当時広大な北海帝国を形成していたデンマーク王クヌーズ1世なども臨席していた。
その後、コンラートは1033年に相続によってブルグントの王位も手中に収める。
このことによって、ドイツ(東フランク)・イタリア・ブルグントという3国の王冠を一手に掌握。この3国の領域が、いわゆる「神聖ローマ帝国」の支配領域を規定する雛型になった。
1037~1038年イタリア再征。
内外両政策で実績をあげ国王支配権の整備・強化に貢献。
シュパイエル大教会堂の建設者。
1039年、ユトレヒトで歿し、息子ハインリヒ3世が後継者となる。
子供は他にベアトリクス(1036年没)とマティルデの娘2人があり、後者はフランス王アンリ1世と婚約したが、早世して子孫を残さなかった。
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・フランス、アキテーヌ公ポワトゥー伯ギョーム5世(70)、没。
トルバドゥール(吟遊詩人)のパトロン。
1031年、妻アグネス(アニェス)、アンジュー伯ジョフロワ・マルテルと再婚。
1043年、娘アグネス(18、アニェス)、ハインリヒ3世と結婚、息子ハインリヒ4世摂政(位1056(30)~1062)。
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・アル・ビールーニ(57)、「天文学についてのマスウーディの法則」を著述。
緯度と経度の正確な測定、地球自転説を分かりやすく解説。
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