2013年6月6日木曜日

ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(74) 「第8章 危機こそ絶好のチャンス-パッケージ化されるショック療法-」(その2)

江戸城(皇居)二の丸庭園 2013-06-06
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横領に充てられた国家債務
 腐敗したアルゼンチン軍事独裁政権の横領者たちは、拘束した人々までを自分たちの犯罪に巻き込んだ。
ブエノスアイレスのESMA強制収容所では、高い言語能力や高学歴を持つ者はしばしば独房から出されて事務的な仕事に就かされた。
生存者の一人グラシエラ・ダレオは、横領した資金の送金先として海外の租税回避地を案内する書類をタイプするよう、軍の将校たちに命じられたという。

民間企業救済に充てられた国家債務
 残りの国家債務はおおむね利息支払いや、民間企業の怪しげな救済措置に充てられた。
アルゼンチン独裁政権は崩壊直前の一九八二年、企業部門のために最後の便宜を図った。
大手多国籍企業や国内企業は-チリの投資家集団「ピラニア」のように-膨大な債務によって倒産の瀬戸際まで追い詰められていたが、中央銀行総裁ドミンゴ・カバージョは、国がそれを吸収すると発表した。
この都合のいい手続きによって、企業の資産や利益は守られ、一五〇億~二〇〇億ドルの債務のツケは国民が払うことになった。
この寛大な措置の恩恵にあずかったのは、フォード・モーター・アルゼンチン、チェース・マンハッタン、シティバンク、IBM、メルセデス・ベンツなどだった。

融資側もその使途を知っていた
 こうした不当に蓄積された債務不履行を支持する人々は、融資側もそうした資金が弾圧や腐敗に費やされていることを知っていた、或いは知っていたはずだ、と主張した。
その裏付けとなるのは最近米国務省が機密解除した資料である。

 これによると一九七六年一〇月七日、アメリカのヘンリー・キッシンジャー国務長官とアルゼンチン独裁政権のセサル・アウグスト・グゼッティ外相が会談し、クーデター後の人権侵害に対する国際社会の批判について話したあと、キッシンジャーはこう発言した。
「いいですか、われわれの基本的な姿勢はあなた方に成功してほしいということです。私は、友人同士は支え合うべきという古い考えの持ち主だ。(中略)早く成功すればするほど望ましい」。
このあとキッシンジャーは話題を債務に移し、アルゼンチンの「人権問題」が米政府の足かせとなる前にできるだけ早く、多くの融資を申請するようグゼッティに促す。
米州開発銀行には「二種類の融賢がある」が「われわれはその融資に反対票を投じる意図はまったくない」とキッシンジャーは言い、さらにグゼッティ外相にこう指示している。
「輸出入銀行からの要請を進めてください。われわれは貴国の経済プログラムの成功を願っているし、それを助けるために最善を尽くすつもりです」

その債務が民政移管後の政府に返済を求められる
 アメリカ政府が、軍事政権の恐怖作戦のまっただなかで使われることを承知のうえで融資を承認したことを、この資料は裏づけている。
八〇年代初め、アメリカ政府が民政移管後のアルゼンチン政府に返済を求めたのは、こうした「忌まわしい」債務だったのである。

債務ショック、債務危機、ヴォルカー・ショック
 民主化後の新政権にとって、これらの債務はそれだけでも膨大な負担であったが、その負担をさらに重くする事態が起きる。
FRBのポール・ヴォルカー理事長がアメリカの金利の大幅な引き上げを発表し、「ヴォルカー・ショック」(「債務ショック」とも「債務危機」とも呼ばれる)と呼ばれる大きな衝撃がもたらされた。
ヴォルカーは短期金利を最高で二一%まで上げ、一九八一年にピークに透した高金利は八〇年代半ばまで続いた。
アメリカ国内ではこの高金利が多数の企業の倒産を引き起こし、一九八三年には債務不履行に陥った人の数は三倍に増えた。

債務スパイラル
 最も大きな痛みを感じたのはアメリカ以外の国だった。
金利の急上昇は、対外債務の支払い金利が高くなることを意味し、その支払いの為に更に借り入れを増やさねばならなくなった。
こうして債務スパイラルが生じる。

 アルゼンチンでは、軍事政権から引き継がれた時点で四五〇億ドルに達していた膨大な債務が急増し、一九八九年には六五〇億ドルに上ったが、これに似た状況は世界の貧困国のあちこちで見られた。
ブラジルの債務が六年間で五〇〇億ドルから、一〇〇〇億ドルに倍増したのは、ヴォルカー・ショックのあとだった。
七〇年代に多軸の債務を抱えたアフリカの多くの国も同様で、たとえばナイジェリアの債務は同じ時期に九〇億ドルから二九〇億ドルに膨れ上がった。

その上に価格ショックが襲いかかる
 八〇年代に発展途上世界を襲った経済的ショックはこれだけにとどまらない。
たとえばコーヒーやスズのような輸出商品の価格が一〇%かそれ以上下落するたびに、「価格ショック」が起こる。
IMFによれば、発展途上国は一九八一年から八三年までの間に二五の価格ショックを経験し、債務ショックまっただなかの一九八四年から八七年までの間には一四〇の価格ショックを経験、これによってさらに債務が膨らんだ。

 ボリビアではジェフリー・サックスの処方した苦い薬を飲み、資本主義的改革を甘受した翌年の一九八六年、価格ショックに見舞われた。
コカ以外の主要な輸出品目であるスズの価格が五五%も下落し、同国経済は自らの責任とは無縁のところで大打撃を受けた(五○~六〇年代の開発主義経済学が脱却しようとしたのは、まさにこうした原料資源の輸出への依存だった。だが北の上流経済学者たちはこの考えを「明確さを欠く」として問題にしなかった。)

ますます自己強化されるフリードマン危機理論
 ここにおいて、フリードマンの危機理論はますます自己強化される。
世界経済が彼の処方に従い、変動金利、価格統制の撤廃、輸入中心の経済などを採用すればするほど、経済システムは危機に陥りやすくなり、経済的崩壊も起きやすくなる。
こうした状況にあるときにのみ、政府は過激な助言を取り入れるのだとフリードマンは考えた。
このように、シカゴ学派のモデルには「危機」が組み込まれている。

 際限のないカネが猛スピードで世界中を自由に移動し、投機家がコカから通貨に至るあらゆるものの価値の変動に賭けることができれば、その結果生じるのは途方もない不安定さである。
そして自由貿易政策は貧困国に、コーヒー、銅、石油、小麦などの原料資源の輸出に依存し続けるよう奨励するため、これらの国々は危機の悪循環にはまる可能性がきわめて高い。
たとえばコーヒー価格が突然下落すれば、その国の経済はたちまち不況に陥り、為替トレーダーはそれに反応してその国の通貨が下がるほうに賭けるから、ますます通貨は下落し、経済はいっそう悪化するというわけだ。
そこに金利上昇が加われば、その国の債務は一夜のうちに膨れ上がり、経済破綻の危険性が迫ってくる。

 シカゴ学派の信奉者の大半は、八〇年代半ば以降、自分たちのイデオロギーが順調かつ輝かしい勝利を収めたと評価する。
民主化の波が世界を覆うなか、自由な人間と際限なく自由な市場とはワンセットであるという啓示が、彼らの上にいっせいに下った。

 だがこの啓示は真実とはほど遠い。
フィリピンのフェルディナンド・マルコスやウルグアイのファン・マリア・ボルダベリなどの独裁政権下、拷問室で加えられたショックを逃れ、長年否定されてきた自由を人々がようやく勝ち取ったと思ったとたん、規制が撤廃され、不安定さを増すグローバル経済によって引き起こされた経済的ショック---債務ショック、価格ショック、そして通貨ショックが、彼らを見舞った。

アルゼンチンのアルフォンシン政権の崩壊
 不幸なことにアルゼンチンは、債務危機にこうした他のショックが重なるというまさに典型的な例だった。
一九八三年、ヴォルカー・ショックの真っ最中にスタートしたラウル・アルフォンシン政権は、第一日目から危機モードに入ることを余儀なくされた。
一九八五年、猛威を振るうインフレ対策としてアルフォンシンは新通貨アウストラルを導入するという賭けに出たが、四年も経たないうちに物価はさらに上昇し、食料をめぐる大規模な暴動が頻発した。
レストランでは紙よりも安いからと、紙幣を壁紙に使うありさまだった。
一九八九年六月、インフレ率はその月だけで二〇三%にも達し、アルフォンシンは任期満了五ヵ月前に辞任することを決断した。

 アルフォンシンには、他の選択肢もあったかもしれない。
膨大な債務を不履行にすることもできたはずだし、同様の危機にある隣国政府と協力して債務者連合を結成することもできたかもしれない。
また、これらの政府同士が開発主義的な理念に基づく共同市場を創設する(そうした動きは、この地域が加虐的な軍事政権によって引き裂かれたときから始まっている)こともできたかもしれない。

 しかし、民主化された政権は、いまだに国家テロという負の遺産を引きずっていた。
八〇年代から九〇年代にかけて、発展途上国の多くは一種のテロ後遺症に苦しんでいた。
名目上は自由になっても、警戒を解くことはできなかった。
仮に七〇年代に軍事クーデターを挑発したのと同じ政策を推進すれば、またしても米政府の後押しによるクーデターを誘発する恐れがある。
独裁政権の闇からようやく抜け出したばかりの段階で、そのリスクを冒そうという政治家はまずいなかった。
しかも、かつてクーデターを起こした軍将校たちのほとんどは訴追を免除され、刑務所ではなく兵舎の中から様子をうかがっているとなれば、なおさらである。

「構造調整」(債務独裁)の時代の幕開け
 民主化されたものの危機にあえぐこれらの国々は、融資元であるワシントンの国際経済機関との対立は避けたいという無理からぬ思いから、ワシントンのルールに従う以外に術を持たなかった。
そして八〇年代初頭、このルールが大幅に厳しくなる。
それは債務ショックと南北関係の新時代の到来とが、時を同じくして-偶然の一致ではなく-起きたからだった。
これ以降、軍事独裁政権はほとんど不必要なものになる。
それは「構造調整」(あるいは債務独裁とも呼ばれる)の時代の幕開けだった。
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