北の丸公園 2013-08-07
*1771年(明和8)
この年
・福井藩の旱魃被害。
預所(高4万6472石余)の毛付田高3万1251石余のうち2万757石余が被害を受ける。
鯖江藩領下新庄組下の村々では、旱魃により用水が不足し、植付できない田や、田植えはしたものの水不足のため「白割」になった田が生じる。畑方は「荒地同前」。
各村は、水不足の対策として「池」を掘って水を得ることを藩に願い出て許される。
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・イングランド、船団を送り再び西フォークランド島確保。
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・ポルトガル、工業化の推進。
イギリスから設備を導入してポルタレグレ王立毛織物工場新設。
79年時点で、本工場に370名、周辺の家内工業に1千程度が従事する典型的な分散マニュファクチュア。その他、リスボン中心に国営・民間製造業が興る。
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・1771~73年、フランスで不作。価格高騰。
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・ゲーテ(22)、抒情詩の秀作「五月のうた」、「野ばら」など。フランクフルトの自宅へ帰りシェイクスピア祭を催し自作の文章を朗読。『ゲッツ』初稿を書く。
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1月
・1月か2月、モーツアルト、ミラノかパヴィアでK.74b アリア「愛に心用いず」(ホ長調)作曲。
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1月2日
・ミラノでオペラ「ミトリダーテ」が再演。モーツアルト、チェンバロを弾きながら指揮。
この日付レオポルトのボローニアにいるマルティーニ師宛手紙。
「オーケストラの楽員諸氏は全員、このオペラは弾きやすく、音が澄んでいて豊かだと断言してくれ、歌手全員が満足を表明した」
「今まで行なわれました6度の上演では、劇場はいつも超満員でありましたし、毎晩アリアが2曲アンコールされ、他のアリアのほとんどが大変な拍手喝采でした」
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1月4日
・モーツアルト(15)、フィルミーアン伯爵邸で音楽会。提示された「美しいが難しい新しい協奏曲」を初見で演奏。
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1月5日
・モーツアルト、ヴェローナ、アッカデーミア・フィラルモニカより「名誉楽長」の称号授与。
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1月12日
・モーツアルト、ミラノから姉へ手紙。
「ありがたいことにオペラはあたって、毎晩のように劇場は一杯です。 多くの人が、新しいオペラでこんなに一杯になったのは見たことがないと不思議がっています。」
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1月14日
・モーツアルト一家、トリノ到着。トリノ王立劇場で、ジョヴァンニ・パイジェッロのオペラ「トリノのハンニバル」を観る。
31日、ミラノに戻る。
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1月20日
・フランス政府、パリ高等法院の反対に苛立ち、構成員130人を追放。
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2月2日
・モーツアルト、フィルミーアン伯爵邸で別れの午餐会。
4日、一家、ヴェネツィアへ出発。
21日、ヴェネツィア到着。リーオ・ディ・バルカローリ(現ポンテ・ディ・バルカローリ)橋の袂のチェゼレッティ家に宿泊。、オペラ観劇・食事などの歓迎攻め
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2月12日
・スウェーデン国王アドルフ・フレデリック(60)、没。グスタフ3世(25)、即位。
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2月23日
・フランス、国璽尚書モーブーは、パリ高等法院の管轄区域を解体し、裁判官は官職株購入ではなく政府によって任命されると決定。
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3月
・のちのネルソン提督、叔父モーリス・サクリング艦長レゾーナブル号に士官候補生として乗り組む。
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3月1日
・ヴェネチア、レオポルトからザルツブルクの妻宛て手紙。
毎日のようにあちこちから招待されており、「たえず貴族の人たちのゴンドラが私たちの家の前にきていて、毎日毎日カナル・グランデを通っています」。
「ミトリダーテ」の楽譜は写譜屋のところにあり、「完全な筆写譜を5部」作るの時間がかかってザルブルクには持ち帰れない。
「今度の火曜日には、大音楽家を催します」。
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3月4日
・杉田玄白、浅草の茶店で中津藩医前野良沢と会い小塩原刑場に腑分けを見に行く。
翌5日より良沢の家で「解体新書」翻訳開始。3年6ヵ月を要す。
「一、其の翌朝、とく支度整ひ、彼所に至りしに、良沢参り合ふ。其の余の朋友も皆々参会し、出迎たり。時に、良沢、一つの蘭書を懐中より出して、披き示して日く、『これは是、ターヘルアナトミアといふ和蘭解剖の書なり。先年、長崎へ行きたりし時、求得て帰り、家蔵せしものなり』といふ。これをみれば、即ち、翁が此頃手に入りし蘭書と同書・同判なり。『是誠に奇遇なり』と、互に手をうちて感ぜり。扨、良沢、『長崎遊学の中、彼地にて習得し、聞置し』とて、其の書を開き、『これはロングとて、肺な り。これはハルトにて心なり。マーグといふは胃なり。ミルトといふは脾なり』と、指し教へたり。しかれども、漢説の図には似るべきものあらざれば、誰も、直にみざる内は、心中に、いかにやと思ひしことにてありけり。
一、これより、各々打連て、骨ケ原の設け置し観臓の場へ至れり。・・・其の日も、彼の老屠が彼れの此れのと指示し、心・肝・胆・胃の外に、其の名無きものを指して、『名は知らねども、己が若きより数人を手に懸け、解き分けしに、何れの腹内を見ても、此の所にかよふの者ある、かしこに此の物あり』と示し見せたり。・・・良沢と相倶に携へ行し和蘭図に照らし合見しに、一として、其の図にいささか違ふことなき品々なり。古来医経に説たる所の、肺の六葉・両耳、肝の左三葉・右の四葉などいへる分ちもなく、腸胃の位置・形状も大に古説と異なり。官医岡田養仙老・藤本立泉老などは、其の頃まで、七八度も腑分し給へし由なれ共、皆千古の説と違ひし故、毎度々々疑惑して、不審開けず、其の度其の度に、異状と見へしものを写し置れ、『つらつら思へば、華夷人物違ありや』など著述せ られし書を見たる事もありしは、これが為なるべし。扨、其の日の解剖事終わり、迚もの事に骨骸の形をも見るべしと、形場に野ざらしになりし骨共を拾ひ取りて、かずかず見しに、是亦旧説とは相違にして、ただ和蘭図に差へる所なきに、皆人驚嘆せるのみなり」(「蘭学事始」)。
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3月4日
・モーツアルト、'73謝肉祭にミラノ王立劇場の為のオペラ(「ルーチョ・シッラ」(K135))作曲の契約。
5日、大音楽会を開催。
12日、父子、ヴェネツィア出発。
13日、ヴァドヴァ着。フランチェスコ・アントニオ・ヴァロッティを聖アントニオ修道院に訪ねる。サンタ・ジュスティーナ教会でオルガンを弾く。アラゴン大公ジュゼッペ・クシメネスからオペラ(「救われたベトゥーリア」(K74c))作曲依頼。
14日、ヴィチェンツァ着。
16日、ヴェローナ着。
20日、ヴェローナ発。
25日夕方、インスブルック着。
夏迄の間に、オラトリオ「救われしベトゥーリア」(K.74c (118))作曲。但し、ただしイタリアでは上演されず、1775年5月にミュンヘンで上演か?。
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3月10日
・琉球諸島で大地震による大津波。死者多数。
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3月28日
・モーツアルト、ザルツブルクに戻る(第1回イタリア旅行終る)。
ザルツブルク帰郷後、マリア・テレジアよりオペラ(「アルバのアスカーニョ」)作曲依頼。10月中旬ミラノで行われるロンバルティア総督フェルディナント大公とモーデナ大公女との婚儀のため。
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