2013年12月10日火曜日

1779年(安永8)1月~2月 モーツアルト、パリの旅から戻りザルツブルクで宮廷オルガニストとなる 丸岡藩一揆 【モーツアルト23歳】

北の丸公園 敷紅葉 2013-12-10
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1779年(安永8)
この年
・手島堵庵の門人中沢道二、江戸進出。
1783(天明3)年、参前舎を開き、それを中心に江戸でも大きな勢力を確保し、東日本での心学の拠点とし、関東・奥羽への心学普及の基礎を固め、自後の普及に貢献。
この頃になると、農民層・武士層にも普及。
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・ゲーテ(30)、散文体の「タウリスのイフィゲーニエ」執筆。
枢密顧問官に任命される。
アウグスト公と共にスイス旅行。
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・イギリス、ネルソン(21)、フリゲート艦ヒンテンブルック号の艦長に昇進。
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・イギリス、ウィルキンソンがセヴァーン川に最初の鉄橋を架ける。
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1月
初め
・モーツァルトの求めにより、ベーズレがミュンヘンに来る。

・モーツアルト(23)、クラヴィーア協奏曲(第10番)変ホ長調(K.365(316a))、キリエ変ホ長調(K.322(296a)=Anh.12(296b))(断片)、教会ソナタ(第15番)ハ長調(K.328(317c))作曲。
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1月1日
・ナポレオン兄弟、 オータンのコレージュに入学
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1月7日
・モーツアルト、選帝侯カール・テオドール妻マリア・エリーザベトにパリで印刷した「ピアノとヴァイオリンのためのソナタ K.301~306」(通称マンハイム・ソナタ集)(K.301(293a),302(293b),303(293c),304(300c),305(293d),306(300l))献本。

8日、レチタティーボとアリア<テッサリーアの民よ/不滅の神がみよ、私は求めはしない> (K316=K300b)、ミュンヘンにて、アロイージアに、「生涯で最良の作」(アロイージアへの手紙))

14日頃、モーツアルト、ミュンヘン出発。

15日、モーツアルト、ザルツブルクに戻る。ベーズレもザルツブルクに来る。

中旬、2台のクラヴィーアのための協奏曲(第10番)変ホ長調(K.365(316a))作曲。

17日、モーツアルト、宮廷オルガニストとしての請願書が受理。モーツアルトの帰郷前に父レオポルトが作成。

25日、宮廷オルガン奏者に任命。アードルガッサー(1777年末に没)の後任。年俸450グルテン(前任者と同額)。

■ザルツブルクのモーツアルト
失意のうちの帰郷、嫌悪しっきていた大司教の従僕に戻されたにもかかわらず、オカールの言葉によれば、「あれほど多くの失望のあとでは、悲壮で引きつった音楽が出て来て当然だろうと人は思う。しかし驚くべきことに、そんなものは一つも見られない。」
刺激の乏しい地方都市に閉じ込められ、聴く耳を持たない尊大な田舎貴族たちに囲まれ、「ここではイスやテーブルに聴かせているようなものです」と言いながらも、後のウィーン時代の作品を思わせる傑作を残す(故郷でのこの2年間に約30曲の作品を残す)。
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2月14日
・英探検家キャプテン・クック(50)、ハワイ島民と衝突し没
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2月17日
・丸岡藩一揆。
17日夜、明日北横地村(幕府領福井藩預と丸岡藩領の相給村)布久漏社へ集まるように触れる。
翌日午前中に20~30、午後から夕方に300程が集まり、一団となって南横地村から寄安、正蓮花、境、為国の各村を呼び歩く。沖布目村で1千程となり、一斉に福島村組頭(大庄屋)宅へ押し寄せ、翌日明け方まで打毀す。
その後、隣の若宮村で二つに分かれ、長畝村、女形谷村、野中村、上金屋村、定重村、福島村、高柳村の各組頭宅を打毀す(福島村は2度目)。
20日早朝、高柳村から滝谷村の組頭宅を壊し、そこから平山村へ回って同村庄屋宅を少し傷める。
昼、金津へ出て丸岡城下へ向かう。この時、約1万人に膨れ上がる。

丸岡藩は18日から役人を繰り出し説得するが効果なし。
金津口では藩兵が惣寺中と一緒に城下へ入るのを押し止めようとするが、「ときのこへをあけ皆々押込」む。

一揆は、服装、道具、打毀しの方法・規律など、秩序・統制がとれている。
「破れたる蓑笠を着、顔を包隠し、或者面を墨にてぬり、銘々棒杖を持」ち、夜に入ると松明を灯し、口々に「ひだるいひだるい」と叫びながら押し歩く。
打毀しに際しては頭百姓が指導し、火の用心、盗みの禁止など規律を守る。
城下へ乱入した一揆勢は酒屋、煙草屋、豪勢な普請の町家を襲い、暗くなって神明社境内へ集合、郡奉行等が揃った所で5ヶ条の要求書「奉願上候覚」を手渡す。彼等はその場で協議し、全て認めると返答。

20日真夜中、一揆方は解散。
22日、これを確認した藩重役等連署の書付が83ヶ村全部の庄屋へ1本ずつ渡され、庄屋はこれを持ち帰って百姓たちに読み聞かせる。

一揆側の要求。
①組頭役の廃止:
有馬氏丸岡藩成立以来置かれ、宝暦13年(1763)一旦廃止、明和6年(1769)復活。
村方の怨嗟の的となり、組頭8人全員が打毀しの対象となる。
「皆々同シ百性」なのに権威をかさに私腹に走り、藩からの津出俵の損失補填分も村々へ割り渡さなかったからという。

②納所米先納取立と十月津出米納入までの才覚米金の中止、
③庄屋の1人制と順番制、
④津出諸経費の免除、

⑤前年度先納米金の返済。
享保9年一揆の時、既に先納才覚金、組頭制、庄屋2人制が問題となり、宝暦13年藩政改革を始め、翌年にかけて組頭廃止、家老以下役人の刷新、町在全部の借用米銀の返済中止を決め、これを強行。
荒廃の進む村へは土免法を適用し、入百姓を導入して再建しようとするが、効果を挙げえず、荒廃が進む村が多く、村方騒動が絶えず。
そこで、組頭役を復活し、彼等の協力による年貢確保や村方成立ちを考えざるをえなかった。
安永期、藩の先納・借用米金強制は止まらず、同5年、高柳村など8ヶ村は、藩の意向を受けて先納金津出米1480俵を引当とし、京都九条家御用金370両を借用させられる。
この年12月には同様に、平木弥次右衛門など3人の組頭が津出米3700俵を質物に1633両を確保する。
安永6年12月に翌年の路用金を引越しと称して1160両出させられており、しかも翌年8月以降は年貢への相殺も行われなくなる。この結果がこの一揆となる。

要求は「小百姓」或は「惣百姓共」の願いとして出され、この一揆は封建的収奪強化に抵抗する典型的な全藩一揆の性格をもつもの。
組頭への制裁を通じて藩政への対決を示す。丸岡藩は一揆後全8人の組頭役を取り上げ、百姓方の不満をかわすことに懸命。
一揆後の処分は不明で、同年秋に徒党張本人として大森村の百姓が獄に下ったという記録がある。
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2月20日
・パリの出版社シベール社、モーツアルト「パリ交響曲」を含む交響曲の予約出版広告を出す。
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2月23日
・10代将軍家治(43)の世子家基(18)、急没。田沼に毒殺されたとの噂。
21日、新井宿への鷹狩の帰途、品川東海寺で休息の折に腹痛を訴え、急遽江戸城へ戻るが2日後に急逝。
家治は、天明元年(1781)閏5月、一橋治済の長男豊千代(のち11代家斉)を世子として西の丸に迎える。
家治に豊千代を薦めたのは田沼意次で、意次は一橋治済に大きな貸しを作る。
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