2014年1月2日木曜日

堀田善衛『ゴヤ』(20)「ローマへ」(2) 「われわれ非キリスト教徒が見落してならないのは、ローマがヨーロッパ・キリスト教共同体の首都であったということである。」

海棠 鎌倉・妙本寺 2014-01-02
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ローマとはいったい何であったか?
「ローマへ!
という固定観念である。何がなんでもローマへ!
しかしそのローマ ー ローマとはいったい何であったか?

まず第一に、われわれ非キリスト教徒が見落してならないのは、ローマがヨーロッパ・キリスト教共同体の首都であったということである。イタリアという一国家の首都であることなどは、いわば二の次ということである。・・・
・・・

また文化、文明、芸術に例をとってみても、ローマに比べれば、ウィーンもパリもマドリードもロンドンも、いずれもただの新興都市の新興、田舎の文明であるにすぎなかった。そうしてローマ以外のいずれもが、要するにローマ文明の植民地、移植地であった。パリのルーヴル宮殿の礎石が、ローマ時代の建築の石を、そのまま使ったものであることがそれを証明しているであろう。

さればこそ、ローマは一日にして成ったものではないのであり、すべての道はローマへ通じているのであってその逆ではない。永遠の都と言われる所以である。人はここに七千年の文明があったと言う……。」

彼はフランス語をも、いつの間にか学んでいた
「われわれの主人公が、果していつローマに到着したものか、正確な目付けなどは無論わかっていない。そうして海路をとったものか、陸路をとったものか、それも明らかではないのであるが、後者の可能性の方が高いようである。
海路か、陸路か、そんなことはどうでもいいことのように思われるかもしれないが、そうは行かない。あいだに、フランスというものがあるからである。・・・風俗のことだけではなくて、マドリードにはフランスの画家たちの手になる作品が数多くあったのであり、彼はフランス語をも、いつの間にか学んでいたのである。
・・・」

イタリアに着いたときにはひどい病気で苦しんでいた、という
「道中、フランスで何枚かの、マドリードで見て知っていたとおぼしいフランスの画家たちの作品を模写したり、スケッチをとったりしているのである。かなり長い時期をフランスてついやしていると見られる。しかしパリを経由したという証明は出来ないようである。
陸路か、海路かの問題は、どうやら陸路ということにほぼ認定されたのであったが、ここに一つ、不確定な証言ではあるけれども、彼の生涯の、もっとも苦しい経験となる等のものについての予兆が出て来る。それは、最初期の伝記作者の一人であるローラン・マトロンが伝えるところのものである。それは、海上の旅がおそろしく身にこたえるものであって、イタリアに着いたときにはひどい病気で苦しんでいた、というのである。
彼は生涯のあいだに何度か、もうこれで死ぬか、と彼自身も覚悟をきめたほどの重病をした。彼が頑丈無類の体格をもった男であることはよく知られていた。しかしこの男は、ときどき、突如として何も出来なくなる。病気でか、神経的にか。双方であろうけれども、この未確認の情報は、彼の未来の影の部分を予告しているように思われる。」

「さて彼は二三歳。一七六九年。
ローマである。
そうしてローマ滞在の期間であるが、これもあまりはっきりしていない。けれども、一七七一年の秋一〇月には、もう故郷のサラゴーサヘ帰って来ていることだけはたしかである。ごく短い時日をしか、彼はこの永遠の都ですごしていないのである。

このごく短い時日をしかローマですごしていなかったということと、「ローマへの旅も、そこでの生活も自分の費用でまかなった」と後日述べていることとは、あるいは符合をするものであるかもしれない。」

ローマは世界第一の都であった
「一八世紀半ばすぎのローマは、これはもう文句なしに世界第一の都であった。」

「ローマに比べれば、パリとウィーンはまだしもとしても、マドリードもモスクワも、またドレスデンもアヴィニョンも田舎都市であるにすぎない。・・・
この”永遠の都”は、教皇のいます都としてだけではなく、富裕な、歴史に因縁の深い大貴族たちの住む町でもあった。そうしてこれらの貴族たちは、ただ単にイタリア人であるだけではなかった。彼らの親類縁者たちは、全ヨーロッパにひろがっていた。だから、この町は、時間の糸を縦にして”永遠”と言われただけではなくて、横にも、真にコスモポリタンな町であった。・・・教皇庁には、各国からの大使が駐在していた。」

教皇就任を祝う行列・パレード
「時の教皇は、クレメンス一四世であった。彼に先立つクレメンス一三世は、一七六九年の二月に死んでいて、一四世の就任は一一月のことであったから、おそらくゴヤが到着してからもカトリック教に付きものの、ほとんど名物とさえ言いたくなるほどの、豪勢な行列やパレードがくりかえし行われていたものであったろう。」

祭日や祝聖の日は年がら年じゅうあり、豪勢な行列がねり歩く
「・・・祭日や祝聖の日は年がら年じゅうあり、豪勢な行列がねり歩く。家々のパルコlTには、前述のような女たちがこぼれ落ちぬばかりにひしめき、館のおもてには高価なタピスリー(壁飾り)やペルシャの絨毯がぶら下げられてその蒙華さを競ったものであった。」

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