2014年1月7日火曜日

明治37年(1904)5月1日~8日 第1軍(黒木為禎大将)、九連城占領 第3回旅順港閉塞作戦失敗 第2軍(奥保鞏大将)、遼東半島塩大澳上陸 日比谷公園の大祝捷提灯行列で死傷者多数

江戸城(皇居)東御苑 2014-01-07
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明治37年(1904)
5月1日
・第1軍(黒木為禎大将)、九連城占領
午前6時35分、第2師団捜索隊3隊、腰溝と九連城に向けて前進。
午前7時15分、第2師団残部・第12師団・近衛師団、続々、靉河を渡河。ロシア側は総退却。
ロシア軍最後の九連城支隊・第11連隊(長ライミング大佐)の「突破隊」が第12師団第23旅団24連隊第5中隊陣地を攻撃(第5中隊:戦死38、負傷68)。
両軍兵力:ロシア満州軍東部兵団29,245、日本軍第1軍42,500。
損害:ロシア側戦死614、負傷1,144、行方不明526。日本側戦死172、負傷761。
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5月1日
・午後5時、第3回旅順港閉塞作戦のための船隊、仁川北東の海州邑泊地を出発し旅順口に向かう。
第3回閉塞は第2軍の上陸援護のため行われたため、その成否が上陸地点の選定に影響するという見地から、船隊は12隻(これまでの倍以上)で行われ、援護艦艇を含め50隻余が旅順ロに向かう。
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5月1日
・第3軍司令部動員下命。
2日、乃木希典中将、第3軍司令官に親補。
7日、第3軍、伊地知知幸少将参謀長以下司令部編成完了。
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5月1日
・吉沢商店派遣カメラマンによる日露戦争実写映画、東京神田錦輝館で上演、好評。
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5月2日
・清国で公司駐册章程制定。
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5月3日
・第3次旅順港閉塞作戦
2日午後9時すぎ、天候悪化のため船隊指揮官林三子雄中佐(「新発田丸」)は作戦延期を命令。
命令徹底せず12隻中8隻が突入。
3日午前1時35分、怒濤と猛火のなかほぼ予定地点に沈むが、失敗。158人中67人収容(死者4、生存者63)。
ロシア側は「約30名」を収容(自殺者多く、開城後、病院で発見されたのは16)。
戦後、ロシア墓地から遺体39を発掘。結局、参戦者158中生存は79。
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5月4日
・真宗大学、専門学校令により、設立認可。大谷大学の前身。
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5月4日
・米、新パナマ運河会社よりパナマ運河に関する一切の権利と施設の引渡しを受ける。
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5月4日
・インドの財閥ジャムシェートジー・N・ターター、没(1839~)。
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5月5日
・第2軍(奥保鞏大将)、遼東半島塩大澳上陸
午前7時37分、海軍陸戦隊1個大隊が「無血上陸」。以降、第2軍5万6千、続々、上陸。13日完了。
第2軍の戦闘序列は、第1師団、第3師団、第4師団、野戦砲兵第1旅団。
軍医部長:森鴎外、管理部長:石光真清
軍医部長森鴎外は、5月8日猴児石に上陸、下旬に錦州、南山、七月蓋平、大石橋、八月海域、首山堡に移動。9月遼陽、10月沙河などで会戦があり、以後、鴎外は十里河に駐屯。

石光真清の諜報活動(『曠野の花』)
予備役将校の時ハルビンで写真館を開く。
ハルビン駐在のロシア軍将兵に取り入り、ロシア軍事施設(鉄道沿線や旅順要塞)の写真撮影を仕事とするようになった。
ロシア軍は原板の納入を義務づけ、焼付け写真の枚数も厳密に検査したので、故意に失敗写真を作り、これを東京に送った。
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5月5日
・第1軍第2師団、湯山城に進出。
6日朝、一部が鳳凰城入り、主力も城外に迫る。
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5月5日
・『新潮』創刊。
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5月5日
・神戸燐寸軸木職工組合結成。
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5月5日
・チェコ作曲家アントニーン・ドボルザーク(63)、急没。プラハ音楽院院長在任中。
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5月6日
・エクアドル、ブラジルのカクエタ・アマゾン間の領土要求を承認。
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5月8日
・都下新聞雑誌社発起大祝捷提灯行列。日比谷公園、10万人、馬場先門で死者20人・傷者13人、桜田門で傷者12人。

日比谷公園の紅白の幕をひきまわした会場中央には、料亭やレストランから寄付された酒肴、ビール、すし、軍用パンが積まれ、自由に飲み食いできた。            
午後7時、各社が趣向をこらした提灯が一斉に点灯された。ひときわ目をひいたのは、日出新聞のアセチレンガス使用の大行灯や「国民新聞」の大砲の模型に爆竹をしこんだものだった。
それから提灯行列が始まり、群集は二手に別れて二重橋へ向った。
一隊が馬場先門から進んで行ったとき、市街電車が行列をさえぎった。この時、行列を止めた群集とうしろから続く群集とで揉み合いになり、踏まれる者、その上にかぶさる者たちの阿鼻叫喚の修羅場となった。
さらに、騎馬巡査の馬が、この騒ぎで暴れ出した。また、群衆のうちの一隊が、騒ぎを回避し、桜田門へ回り、そこから広場へ入ろうとした。しかし、そこには、既に万歳三唱を終えた行列が出てきていた。ここでも、正面衝突がおこり、地獄のような惨事となった。

もしこれが新聞社・雑誌社、通信社以外の発起にかかるものであったら、彼等は必ずや筆を揃えて攻撃したであろうが、この大事件の責任を感じて紙上に謝罪文を掲げたのは僅かに「毎日」、「萬朝」の二紙だけであった。

「時事」と「朝日」は警察の不行届きを攻撃し、「読売」と「中央」は罪を封建時代の遺物たる見附門の狭隘に塗りつけ、「日日」は警察と人民の不規律が原因だと主張、「国民」は自社の万燈が破壊された損害の愚痴をこぼし、「報知」は不幸を悲しむと書いたきりであった。

この事故以後、「市民祝捷会」は市役所の主催となり、会に参加するのは市の「有志者」で、下層の民衆は会場周辺にあつまる見物人にしかなれなかった。
一般民衆が加わって暴走しかねない「提灯行列」は「祝捷会」から排除された。
会場内の参加者と場外の見物人は区別され、式場とその周辺は警察官が厳重に警備した。
見物人である下層民衆は警察の取締まりの対象だった。
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5月8日
・小樽で大火事。焼失2,400戸。
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