2014年1月9日木曜日

ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(89) 「第10章 鎖につながれた民主主義の誕生 -南アフリカの束縛された自由-」(その5) 「最近のマンデラ氏はかつての社会主義革命家のような口ぶりはどこへやら、むしろマーガレット・サッチャーのような発言が目につく」(WSJ) 

江戸城(皇居)梅林坂 2014-01-09
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ANCは、削限された権力に甘んじて新経済秩序を受け入れる道を選ぶ
 これらの事実や数字の根底には、経済交渉で相手の戦略に負けたことに気づいたANCが下した運命的な決断がある。
その時点で、ANCには二つの選択肢があった。
ひとつは、第二次解放運動を起こし、体制移行期以来ANCの首を締めてきた”網”から自由になるために戦うこと。
もうひとつは、削限された権力に甘んじて新経済秩序を受け入れることである。

 ANC指導部が選んだのは、後者の道だった。
ANCは政権に就いた時点で、自らが公約に掲げた「自由憲章」の柱である富の再分配を政策の最重要項目とするのではなく、支配的な論理を受け入れた。
そして新しい外国資本が新たな富を創出し、その恩恵が貧困層にまで浸透することに唯一の望みを託した。
だがそうしたトリクルダウン効果を実現するには、ANC政権は投資家を惹きつけるために、それまでの態度を180度転換しなければならなかった。

マンデラ釈放時の市場の混乱
 これが容易ではないことは、マンデラ自身が自由の身になったとたんに思い知ったとおりである。
彼が釈放されるや、南アの株式市場はパニック状態に陥って暴落し、通貨ランドは10%下落した。
数週間後、ダイヤモンド関連企業デピアス社は、本社を南アからスイスに移した。
このような市場からの瞬時の反応は、マンデラが最初に投獄された30年前には考えられないことだった。
60年代には、多国籍企業が思いつきで本社を別の国に移すこともなかったし、世界の通貨体制は依然として「ドル金本位制」を基礎としていた。
だが今や南アの通貨は何ものにも統制されず、取引の障壁は取り除かれ、しかもその大部分は短期投機によって占められていた。

市場のルールは単純で明白
(公正を目指す政策は高くつくから「売り」、現状維持は歓迎され「買い」)
 不安定な市場はマンデラの釈放を嫌ったばかりでなく、マンデラやANC幹部がほんの二言三言、見当違いの発言をしただけで、大地を轟かすような暴走を起こす可能性があった
『ニューヨーク・タイムズ』紙のコラムニスト、トーマス・フリードマンは”電脳投資家集団”が暴れるという、うまい表現を使っている。

 マンデラの釈放の際に起きた暴走は、その後ANC幹部と金融市場との間に交わされる、かけあいのような関係の始まりにすぎなかった。
このショックを伴う対話を通じて、ANCは新しいゲームのルールを習得していくことになる。
党幹部が不吉な「自由憲章」を政策にする可能性を少しでもほのめかせば、そのたびに市場はショック反応を起こし、たちまちランドは急落する。

 ルールは単純で明白だった。
公正を目指す政策は高くつくから「売り」、現状維持は歓迎され「買い」である。
釈放から間もない頃、マンデラが実業界の有力者たちとの私的な昼食の席で国営化を支持する発言をすると、「ヨハネスブルグ証券取引所の金指数は五%も下落した」。

 金融界とは一見なんの関係もない事柄でも、潜在的なラディカリズムが透けて抱えれば、市場は過剰に反応した。
ANC政権の閣僚トレヴァー・マニュエルが、南アのラグビーは(チームが全員白人で構成されていたことから)「白人少数派のゲーム」だと発言したときにも、ランドは急落した。

 新政権を束縛するものは多々あったが、なかでももっとも強力な制約となったのは市場だった。
これはある意味で、自由放任資本主義の持つ自己規制的な特質に由来する。
世界の国々が気まぐれなグローバル市場に対して自国市場を開放すれば、シカゴ学派の正統理論から外れた国は瞬時に、ニューヨークやロンドンのトレーダーから通貨の下落という痛い仕打ちを受け、その結果危機は深まってさらなる債務の必要性が生じ、いっそう厳しい条件がつけられるというわけである。

 1997年、マンデラはANCの全国大会で、この罠の存在を認めて次のように述べている。
「資本の流動性と資本やその他の市場のグローバル化によって、世界の国々はたとえば国内の経済政策について、これらの市場が示すと予測される反応を考慮せずに決定を下すことはもはや不可能になっているのです」

マンデラの右腕で後継者となるターボ・ムベキ
 ANC内部でこうしたショックを阻止する術を理解していたのは、マンデラが大統領在職中は副大統領としてその右腕となり、やがては後継者となるターボ・ムベキだった。
ムベキはアパルトヘイト時代、国外追放になり長年イギリスで過ごした。
サセックス大学で学んだあとロンドンに移り、祖国の黒人居住区に催涙ガスが充満していた80年代をサッチャリズムのもとで過ごす。
ANC幹部全員のなかで実業界のリーダーたちとたやすくつき合えるのは唯一ムベキだけだったし、彼はマンデラが釈放される前、黒人多数派政権の樹立に危機感を抱く企業幹部との秘密の会合をいくつか開いてもいる。
1985年、ザンビアの狩猟ロッジでムべキや実業家グループとともにスコッチを傾けながら一夜を過ごした南アの一流ビジネス雑誌編集者ヒュー・マレーは、「ANCのトップにいる彼は、もっとも困難なときでさえ相手に信頼を与える驚くべき能力の持ち主だ」と述べている。

市場の獣はすでに放たれたのだ、とムベキは説明した
 市場を鎮静化させるためのカギは、こうした社交的な関係に基づく信頼を、それよりずっと広い範囲に与えることだとムベキは確信していた。
グミードによれば、ムベキは党内で自由市場について教示する役割を買って出たという。
市場の獣はすでに放たれたのだ、とムベキは説明した。
獣を飼い馴らすことはできない。
ただひたすら獣が欲しがるエサ、つまり、成長に次ぐ成長を与えるしかないのだ、と。

 こうしてマンデラとムベキは鉱山の国営化を提唱するのではなく、ハリー・オッペンハイマーと頻繁に会合を重ねることになる。
オッペンハイマーはかつて、アパルトヘイト時代の経済的シンボルとも言うべきアングロ・アメリカンとデピアスという巨大鉱山関連企業の会長を務めた人物である。
1994年の選挙後すぐに、マンデラとムベキはオッペンハイマーの同意を得るためにANCの経済プログラムを提示し、彼をはじめとする産業界トップの懸念事項に対応するため、いくつかの大きな修正を加えることまでしていた。

「われわれとマルクス主義イデオロギーとを結びつけるようなスローガンは、ただのひとつもありません」
 市場からふたたびショックを与えられるのを回避するべく、マンデラは大統領就任後の最初のインタビューでは、国営化を支持する従来の発言から注意深く距離を置く姿勢を示した。

「われわれの経済政策においては(中略)国営化などといったことについてはいっさい言及していないし、これは別に予想外のことではない」と彼は語っている。

「われわれとマルクス主義イデオロギーとを結びつけるようなスローガンは、ただのひとつもありません」。

経済紙はこの路線変更を一貫して後押しした。
「ANCには依然として強力な左派が存在するが、最近のマンデラ氏はかつての社会主義革命家のような口ぶりはどこへやら、むしろマーガレット・サッチャーのような発言が目につく」(『ウォールストリート・ジャーナル』紙)。

*ところが実際には、ANCの公約には「国営化などによって公共部門を戦略的領域において拡大すること」が掲げられており、さらにANCのマニフェストが「自由憲章」であることにも変わりなかった。

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