2014年2月26日水曜日

堀田善衛『ゴヤ』(26)「ふたたびサラゴーサへ」(4) アカデミイ会員となる。 「一七八〇年五月七日、会員の全員一致で受け入れられたものである。 それは、しかし、ゴヤの勝利なのではなくて、むしろ義兄バイユーの作戦勝ちなのであった筈である。」

リュウキュウカンヒザクラ 江戸城(皇居)東御苑 2014-02-25
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1773年7月25日、ゴヤはフランシスコ・バイユーの妹ホセーファと結婚
「一七七三年七月二五日、聖ヤコボ(スペイン名はサンティアーゴ)の日に二人はマドリードのサン・マルティン教会で結婚をした。聖ヤコボは、はじめエルサレムにその遺骸が葬られてあったものが、後にスペインのサンティアーゴ・コンポステーラ市に移され、そこに壮麗な大聖堂がアルフォンソ王によって建てられ、今日にいたるまでそれは著名な巡礼地となっている。従ってこの日は、スペイン人にとっては、われわれの側での大安吉日というべきものにあたる。」

ぺパは、幸福か?
「妻となったホセーファ(愛称ペパ)は、爾後四〇年聞、夫とともに暮すことになるのであるが、彼女の生活は果して仕合せなものであったかどうか、・・・。
ぺパは、幸福か?
不幸ということはないであろう、何分にも宮廷画家の夫人であって、馬車もが与えられているのであるから。
しかし不幸でないということは、直ちに仕合せであるということに結びつくものではないであろう。」

今日、ペパが子を産んだ
「友人であるマルティン・サバテールにあてた、ある手紙の一節・・・。

今日、ペパが子を産んだ。

まるで馬か犬が子を産んだような言い方である。男の子とも女の子とも彼は書きはしない。彼の手紙を調べていて、私はこの一節を見出して、まったく憤慨をしたものであった。ベパが子を産んだ、とはまた何という言い方であろうか。」

「ホセーファは、誇り高き現宮廷画家であるフランシスコ・バイユーの妹であり、・・・バイユーの妹として美術についても一家の素養はある筈である。そういう娘を、彼は政略的に、ほとんど掠奪をして来たのではなかったか。それでいて、「今日、ペパが子を産んだ」などと言えた義理ではない筈である。これではホセーファはまるで牝馬である。」

このエゴイストで恥知らずの牡馬は、いまに罰せられるであろう
「・・・四〇年間の結婚生活で、ベパに二〇回も妊娠をさせたのはどこのどいつであったか。・・・このエゴイストで恥知らずの牡馬は、いまに罰せられるであろう。一ヒ九二年、彼が四六歳のとき、結婚して一九年目に、罰は雷が彼を撃つかのようにして港ちて来て、彼は地に打ち倒されるのであった。雷鳴の輝光と轟音は、彼の耳を直撃する。」"

この徹底した出世主義者は、従って徹底したエゴイストである
「この徹底した出世主義者は、従って徹底したエゴイストである。」

「男は、威張りちらして、野心満々である。」

「またこの男は、家長として聖職者になった弟の世話を見たり、父の死後、母の面倒を見るなど、こまかな心遣いを見せもするのであるが、その反面、発表済みの手紙類だけで見ると、父母の死について、あるいは妻のホセーファ自身の死についても、どうやら格別の、つまりは通り一遍なものではない悲しみなどを表明しないのである。一九人もの、相つぐ子供の死についてもそうである。」

遺すべき何物もなけれは遺書なし
「ゴヤの父は、一七八一年一二月一七日に六八歳でサラゴーサで死んでいる。サラゴーサの、サン・ミゲール・デ・ナバーラ教区の死亡者登録簿によると、「ホセ・ゴヤ、グラシア・ルシエンテスの夫、一七八一年一二月一七日逝去、サン・ミゲール教会内陣に埋葬。遺すべき何物もなけれは遺書なし」と記されている。
貧窮のうちに父は死んだわけである。・・・このときすでにこのゴヤは、アカデミイの会員にもなっていて、多くのタピスリーの下絵を王立の工場のために描き、「年間おれは一万三〇〇〇レアール儲ける。大金持ちと同じくらい幸福だ」と友人に書き送っている。またふたたびサラゴーサのエル・ピラール大聖堂の大井画の注文もうけているのである。ゴヤは何の不自由もしていなかった。」

彼は父の肖像も団の肖像も描いていない
「彼は父の肖像も団の肖像も描いていない。わずかに妹のリタの肖像を描いているだけである。それも仕事の中途で放棄したかの感のある、あまりよい出来のものではない。」"

自分の名前に、Francisco de Goya と貴族の血をひくものであることを示すdeをくっつけての署名をはじめる
「・・・父の死後に、一時母はマドリードの息子の家に引きとられて、ペパたちと一緒に暮したことがあった。
そのとき息子は何をしたか。
母のグラシア・ルシエンテスは、アラゴンの小貴族出身であった。宮廷へ何としてでも、人をかきわけても入り込みたいゴヤは、とってつけたように自分の名前に、Francisco de Goya と自分が貴族の血をひくものであることを示すdeをくっつけての署名をはじめる。
そうしておまけに、家紋までを捏造する。それは”金の野原の上に羽を拡げて飛ぶ黒い鷲、それに八個のブザン銀貨でふちかざりをした〞ものという、なんともいえず大袈裟なものである。ブザン銀貨というのは、ビザンチンの東ローマ帝国の貨幣の一つで、これを紋章に使うということは、その祖先の誰かが十字軍に従軍をしてエルサレムまで行ったことがあることを意味する。何という男であろう。
母のグラシアは、・・・やがてサラゴーサヘ帰ってしまう。・・・ゴヤは、仕送り年金を母につけてやる。」

コネ作りに腐心するゴヤ
「母の家系を使ってFrancisco de Goya になりすましたこの男がはじめたことは、要するに”関係”、いわゆるコネをつくることであった。・・・
すでに宮廷入りをしていた義兄のバイユーもおそらく手伝ってくれたであろう。この当時の、マドリートでのアラゴン閥、あるいはアラゴン党の首領は、前フランス大使で、いまは首相であるアランダ伯爵であった。男は、機会あるごとにこのアラゴン党の親分格の連中に近づいて、頭を深々と下げて懇請をつづけたものであったろう。
アカデミイの独裁者であるラファエル・メングスにも頭を下げる。・・・
絵の手法においても、大画家と言われる人々のなかでも、その世界への登場の時期にこの男ほどにひどいコンフォルミスト、大勢順応主義者であった者は他にないであろう。」

王(カルロス3世)・王子(後のカルロス4世)・王子妃(マリア・ルイーサ・デ・パルマ)に謁見かない、王子妃に絵を誉められる
「・・・そうして”機会”は意外に早く来た。
・・・

もう少し時間があったら、ぼくが王と王子と王子妃によってどんなに面目を施されたかを君に話したいんだが。神の恩寵によって四枚の絵をお見せすることが出来たんだ。いままで絶対経験したことのない幸福だ。・・・

と、彼が友人のサバテールに書き送るのは、一七七九年の一月である。
・・・
ここに王というのはカルロス三世、王子は後のカルロス四世であり、王子妃はマリア・ルイーサ・デ・パルマである。
王子妃のマリア・ルイーサが絵をほめた。」

舞い上がったゴヤは宮廷画家にして欲しい旨の懇請書を差し出し、やんわりと断られる
「・・・彼は”陛下の画家”になることをお許し頂きたい、という趣旨の懇請書をさし出している。これが、一七七九年七月二四日のことであった。
しかしそれは無理な話というものである。宮廷画家であるためには、まずアカデミイの会員になっていなければならない。この男は、宮廷用語というものも知らなければ、官僚制度の階段を一つ一つのぼって行かねばならぬものだということも、肝に銘じては知っていない。」

「・・・一〇月八日付で次のように返事をして来た。

「(あなたは)将来の進歩を約束された才能と精神をもった、勤勉な画家であるが、現在のところ王家のための作品制作に関しては、それほど差し迫った必要性もないし、また画家も不足していないので‥‥」

1780年5月7日アカデミイ会員となる(義兄バイユーの支援)
「現在はプラド美術館にある、このアカデミイ入りのための作品『十字架のキリスト』を凝っと見ていて、私は、この絵の下絵、あるいは下ごしらえは、おそらくバイユー自身の手になるものであろう、と思った。それは、アカデミイの独裁者であるメングスのある作品に、あまりに似ているからである。ゴヤの作品としては、あまりに冷たすぎるのである。キリストに人肌のあたたかさは皆無で、まるで解剖を待っている死体のようだ。人の子の罪障を一身にになったイエスとしての聖性などはまるで不在である。キリストはここで二重に死んでいる。
そういうところから、私は下ごしらえはおそらくバイユーの手になったもので、ゴヤは仕上げをしただけではないか、と推定をしたものである。ベラスケスのある作品にも似ている。似ていて何がわるいというのがこの世界である。文学の世界とは世界が追うのだ。
皮肉なことにこのもっともゴヤらしからぬ作品がアカデミイによって受け入れられ、ゴヤはとうとう、まるで門をこじあけ、自分自身をねじ込むようにしてアカデミイの会員になった。
一七八〇年五月七日、会員の全員一致で受け入れられたものである。
それは、しかし、ゴヤの勝利なのではなくて、むしろ義兄バイユーの作戦勝ちなのであった筈である。」
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