2014年2月27日木曜日

明治37年(1904)5月 南山の戦場にいた森鴎外(第2軍軍医部長)と田山花袋(博文館派遣の従軍記者)---(その2)

カワヅザクラ 丸紅本社前 2014-02-25
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この頃の森鴎外と田山花袋、そして島崎藤村(その2)

小諸での藤村の生活
 藤村の小諸での生活は6年目になっていた。
月給は、はじめ30円、昇給して40円になり、田舎ではどうにか中流の生活をすることができた。しかし、小諸義塾は次第に経営不振に陥り、この年(明治37年)、教員たちは、塾長木村熊二に減俸を申し出た。その結果、藤村の月給は25円となり、家族4人の暮しが難かしくなった。
彼は自宅で個人教授をして、月5円ぐらいの収入を得、妻冬子も少女たちに習字を教えたりした。
彼には時々文筆の収入もあったが、「落梅集」「一葉舟」など春陽堂から出した詩集は1冊15円の買い切りであった。
彼は短篇小説の試作を4、5篇書いたが、小説家としての地位も収入も安定したものではなく、詩人としても青年たちの間に愛好者や崇拝者を持っている存在にすぎなかった。

この頃、彼は、その少い収入の中から、一族の者のために金を工面しなければならなかった。
彼の長兄で、父正樹を継いだ秀雄は、家産を立て直そうとして仕事を企てたが、人のよさと侠気のために何度も躓いた。はじめは製氷事業に手を出して失敗し、家・土地を悉く隣家の大脇家に譲り渡して明治26年に上京した。その翌年、水道鉄管の製造販売に他人と協力したが、不正事件の連累者となって入獄した。明治30年に出獄して、電気自動車の発明に資金を注ぎ込んで失敗した。明治36年には九州の五島沖で金塊を積んだ貨物船を引き揚げる計画を建て、それが詐欺事件に問われて禁錮2年の刑を受けた。そのあとの家族の手当てのために、四男の藤村(春樹)は次兄の広助と共に次々と金を作らねばならなかった。また三兄の友弥は青年時代の性病のために廃人となっていて、その生活を見ることも春樹の荷になっていた。骨を折って仕上げた原稿から入る金は右から左に消えて行った。藤村は、何とかして生活を確実な基礎の上に立て直したい、と思った。
買い切り制
尾崎紅葉が前年(明治36年)10月に没したとき、遺族は、紅葉が春陽堂から出した多くの著作についての印税を手に入れることができなかった。それ等の著作はみな買い切り制で出版社に渡したものであった。
買い切りとは、1冊10円位から80円ぐらいまででその版権を出版社に売り渡してしまうことであった。
本の定価の一定割合を定めて印税を取る出版方法は、森鴎外が春陽堂の和田篤太郎に談判して「水沫集」できめたもので、鴎外は1割5分も印税をとると言われた。また徳富蘆花は、「不如帰」について兄蘇峰の民友社から、1千部につき20円の割で印税を取っていると言われた。「不如帰」は、この数年間毎年1万部ずつも増刷していた。

「破戒」自費出版の企て
春陽堂は好んで買い切り制度で出版した。
藤村が7年前に春陽堂に買い切りで渡した「若菜集」は、その後ずっと売れているから、春陽堂の収益は大きなものであった。
彼は、今度書いている長篇小説は、成功すれば「若菜集」以来自分についている多くの読者に受け入れられると考えた。
彼は、去年訪ねて行った徳富蘆花の千駄ヶ谷の家を思い出した。蘆花は、兄蘇峰と争って民友社と縁を切り、自宅に黒潮社という看板を出して、自費で長篇小説「黒潮」を出版した。
藤村は、経済的独立と精神的独立とを得て著作生活をしている蘆花を羨しいと思った。
その蘆花のとった方法を真似て、今度の小説を自費出版しよう、と藤村は考えた。
しかし彼にはその資金がなかった。彼は妻冬子と相談した結果、函館の末広町で網問屋を経営している彼女の父秦慶治(はたけいじ)の援助を受けることにした。秦慶治は、商才のある努力家で、一代で大きな産をなしただけに、厳しい人物であった。冬子はその次女で、長女浅子とその夫貞三郎が家を継いでいた。

藤村は、この年7月27日、函館に赴き冬子の父秦慶治に資金援助を懇願し400円の出資の承諾を得た。

宇品での鴎外と花袋の出会い
鴎外森林太郎(43歳)は、第2軍軍医部長を命ぜられて1月下旬、宇品に向い、大手町の長沼旅館に宿泊していた。
ある日、花袋は意を決して長沼旅館に鴎外を訪ねた。
鴎外は、「まあ此処に来たまえ、花袋君だね、君は?」と言った。鴎外のさっぱりした接しかたが花袋には救いであった。花袋は鴎外と文壇の話や戦争の話をし、また戦地でお目にかかりましょう、と言って別れた。

前年(明治36年)12月16日には「しらがみ草子」同人の落合直文が43歳で没していた。落合直文は明治21年、第一高等中学校教師になるとともに、新帰朝の森鴎外の仲間S・S・S(新声社)に加わり、訳詩集「於母影(おもかげ)」執筆家の一人となった。またそれに続いて刊行された「しがらみ草紙」同人でもあった。
鴎外は、明治35年6月、上田敏と共に雑誌「芸文」を発行したが、出版社文友館と衝突して中止し、その年10月、これを「万年艸(まんねんぐさ)」と改題して刊行した。しかしこの年(明治37年)3月、出征するに当り、巻第12をもってこの雑誌を廃刊にした。

4月21日、第2軍司令部は御用船八幡丸で宇品港を出帆。
花袋たち従軍記者もこの船に乗っていた。
航海の何日目かの夜、花袋は鴎外の船室を訪ねた。彼は前よりも楽な気持でハウプトマンやメエテルリンクやダヌンチオなどについて鴎外と話し合った。鴎外は香りのいい葉巻を吸い、花袋にも「どうです、君も一本」と言ってすすめた。

5月8日、第2軍司令部は塩太澳に上陸。

鴎外の遺書
鴎外は出征に当って遺書を書き、母峰子に託した。
それには、「予ハ予ノ死後遺ス所ノ財産ヲ両半二平分シ左ノ二条件ヲ附シテ一半ヲ予ノ相続者ノ長男森於菟二与へ一半ヲ予ノ母森みねニ与フベシ」とあり、妻しげには財産処理をまかせない旨が書かれてあった。その理由は、「森しげガ森於菟卜同居年ヲ踰(こ)エナガラ正当ナル理由ナクシテ絶テ之卜言ヲ交へズ既ニシテ又正当ナル理由ナクシテ森みね及森潤三郎卜同居ヲ継続スルコトヲ拒ミ右三人ニ対シ悪意ヲ挟ミ倒底予ノ遺族ノ安危ヲ託スルニ由ナキコト是ナリ」と、妻に対して厳しい内的態度を持ってた。

しかし、一方で、鴎外は妻へのいたわりも忘れなかった。
鴎外は出征後妻のしげに絶えず手紙を書いていた。姑の峰子と合わないしげは、彼の出征中、実家である芝区明舟町の荒木家に住んでいた。

4月17日に広島から出した手紙には、「広しまでおれが馬鹿なことでもするだろうといふやうな事がおまへさんの手紙にあつたから歌をよんだ」と言って「わが跡をふみもとめても来んといふ遠妻あるを誰とかは寐ん」と書いた。

彼は、前年(明治36年)1月に生れた長女茉莉のことを気づかって、いつもその子のことを書いた。
6月21日に戦地から出した手紙には「千駄木から茉莉の夏ものゝ切れが行った筈だから最うこしらへてやつたらうね。茉莉の写真はをりをり出して見るとなぐさみになるよ。博文館からこちらへ来て居る人が先頃顔も洗はない髪だらけのところを写真に写したから其内戦争実記とかに出すだらう。丸で熊のやうになってゐるよ」と花袋と写真技師柴田常吉のことを書いた。
鴎外は、元の妻の子である森於菟へも、母峰子へも、弟篤次郎へも手紙を書いたが、妻のしげへは最も頻繁に書いた。

花袋は妻あての手紙も書いたが、妻の姉のところにいる岡田美知代へも手紙を書いた。
岡田美知代もまた戦地にいる花袋へ手紙を書いた。彼女の手紙には、東京に住んでいる時に向っては言えないような情のこもった文章があって、それが花袋の心を動かした。

鴎外の再婚
明治35年1月4日、鴎外(41歳)は荒木しげ(23歳)と結婚(ともに再婚)。
鴎外の任地小倉で暮す。

しげの父荒木博臣
しげの父荒木博臣は初めの名を山口権六といい、佐賀鍋島家の藩士である。藩校弘道館の英才として知られ、藩命を受けて文久元年(1861)、25歳で昌平坂学問所に入り佐藤一斉に学んだ。
大槻玄沢の息子磐渓(ばんけい)と親しく交わりその影響を受けた。その子が大槻如電(にょでん)や文彦であり、のちに彼らが鴎外の史伝などに出てくるのは、この関係かもしれない。権六は漢詩をよくつくり、大槻磐渓の評を得ている。
文久2年、坂下門外の変が起こり、安藤信正襲撃の首謀者とかかわりのあった友人を持ち、自らも国事に奔走した権六は危険を感じて野州から会津、米沢を経て仙台、盛岡まで落ちのびた。のち帰藩して荒木林右衛門の養子となり博臣と名乗った。
戊辰の役では官軍側に加わり、北陸、東北に転戦した。
明治初年、江藤新平司法卿にかわいがられ、司法省に勤めて短期間に何度も栄進し、ともに近代司法制度確立のため働いた。
のち大正5年、江藤が復権されたとき、しげの兄、荒木三雄が、江藤新平殉難遺祉碑の建設願を出している。「亡父の遺志を継いで」建てたといい、長い間、荒木は逆賊とされた江藤の恩を忘れなかった。

荒木博臣の本宅は芝明舟町にあり、金刀比羅(ことひら)神社に近かった。道を隔てた向い側には東伏見宮邸、隣家には歌舞伎の十五世市村羽左衛門が住んでいた。土地は500坪あまり、そこに30軒ほどの棟割長屋が並んで、その大家としての収入もあった。
鴎外の日露戦争出征中にしげと茉莉が住んだのも家作の一軒である。
そのほか渋谷に土地と雑木林を、藤沢の鵠沼には別荘を持ち、妻阿佐の手腕もあって、内所は豊かで、家庭は賑やかに運営されていた。
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