2014年2月24日月曜日

康平6年(1063) 前九年の役の勲功により頼義に正四位下伊予守、長男義家に従五位下出羽守が与えられる 「子孫郎従みな勧賞に与る」 源頼義、相模由比郷に八幡宮を建立

カワヅザクラ 北の丸公園 2014-02-24
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康平6年(1063)
この年
・ノルマンディー公ウィリアム(ギヨーム)、メンを獲得。
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・ボヘミア王ヴラチスラフ2世、オロモウツ司教区設置。
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・フランス、キリスト教徒騎士、南フランスを通りスペイン国境のサラセン人を討ちに行く途中、出会ったユダヤ人を虐殺。   
教皇アレクサンデル2世、虐殺黙認のナルボンヌ大司教に不快の念を表明、ユダヤ人保護に努めたナルボンヌのヴィコムトとスペイン聖職者を賞賛。
教皇庁は、洗礼強制に対して無力であったように、民衆の反ユダヤ主義の高まりを抑える力がないことをさらけ出す。
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・アラゴン王ラミーロ1世(フェルナンド1世弟、位1035~1063)、サラゴーサ王国グラウス(エセーラ河畔)を攻撃
(サラゴーサ王ムクタディル(位1046~1081)はフェルナンド1世家臣、サラゴーサは貢納国)。
フェルナンド1世、息子サンチョと将軍ロドリーゴ・ディーアス(エル・シッド、20)をムクタディルの許に派遣。アラゴン王ラミーロ1世のグラウス包囲を解かせる。カスティーリャに貢納するムスリム国を保護。
アラゴン王ラミーロ1世、グラウスで兄フェルナンド1世派遣のサンチョとロドリーゴ・ディアース(エル・シッド、20)により敗死。

ラミーロ1世敗死は、フランスで予期せぬ反応を引き起す。
1064年アキテーヌ人、ブルゴーニュ人、ノルマン人等が大挙してバルバストロを包囲、陥落。
バルバストロ攻略の際の掠奪が評判となり多くのキリスト教徒騎士がスペインに向うのを確実にする
(アラゴン人は自分達が山中から脱出するのをフランス遠征隊に助けてもらえることがわかる)。

アラゴン王ラミーロ1世没後、息子サンチョ・ラミーレス、アラゴン王即位(アラゴン王1063~1094、ナバーラ王1076~1094)。
ルーシ伯イルデュアン娘と結婚(母の従兄弟はフランス王フィリップ1世、義理の兄弟ペルシュ伯ジョフロア2世)。
アラゴン王家は従来南フランスの諸侯と結婚していたが、今回フランス北部より妻を迎えたのは重要な変革。
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・カスティーリャ王フェルナンド1世、セヴィーリャ地方劫略。
セヴィーリャ王ムータディドもカスティーリャに貢納する。
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・チュニジアのジール朝アミールのタミーム、父ムイッズ・ブン・バーディーズの遺志を継ぎシチリア島に軍隊派遣。
派遣軍司令官はタミームの息子アイユーブとアリー。
アイユーブ、パレルモ到着後、アグリジェントに本拠地を築き、シチリア島イスラム教徒の有力指導者となる。
イブン・アルハッワースとの戦いに勝利、パレルモ、アグレイジェント、カストロジョヴァンニの支配者となる。
1068年(5年後)ミシルメーリの戦いでロゲリウス1世に敗れ北アフリカに帰国。
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・セルジュク・トルコ、トグリル・ベグ、没(位1037~1063)。トグリル甥アルプ・アルスラーン、即位(位1063~1072)。
首都マルウからイスファハーン(イスパハン)に移転(従来通りバグダードは駐剳武将を置いて支配)。
サルジューク朝の最盛期(1055~1092、トグリル・ベク(位1037~1063)、アルプ・アルスラーン(位1063~1072)、マリクシャー(位1072~1092))。
西アジアをイスラム教徒の一王国下に統一。
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・ピサ大聖堂、建設開始(建設期間1063~1118)。
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2月16日
・陸奥国の源頼義から安倍貞任・重任・藤原経清の首級が献上された。
首級献上使の一行は、色鮮やかな甲冑で身を固め、長刀の切っ先に刺した三つの首級を先頭に掲げて四条大路入り口まで行進し、検非違使一行に引き渡した。
検非違使はそれぞれの首を先頭に三つの隊列をつくって四条大路を西獄門まで行進し、首を梟した。見物の貴賎・僧俗・男女の人垣や車馬は切れ目なく続き、振り向くこともできないほどだったという。
この様子を目の当たりにした権中納言源俊房は「奔車(ほんしや)の音は晴空に雷(いかずち)を聞くようで、飛塵(ひじん)の色は春天に霧を払うようだった。これまで見たこともない光景だ」と形容し、「末法の世に入ったとはいえまだ皇威は安泰だ」との感想を日記『水左記(すいさき)』に記した。
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2月27日
・頼義在国のまま勲功除目
12年の苦難の歳月を費やして蝦夷征服を成し遂げた勲功を讃え、頼義には正四位下(しようしいげ)伊予守、長男義家には従五位下(じゆごいげ)出羽守、次男義綱には左衛門尉、武則には従五位上鎮守府将軍が与えられた。
頼義は郎等たちの勲功賞をねばり強く請求し続け、「子孫郎従みな勧賞に与(あずか)る」といわれるほどの恩賞を獲得した。
古くは奥州十二年合戦といわれた「前九年の役」の称の由来ははっきりしないが、発端となった天喜3年(1055)の阿久利河事件から勲功除目までの歳月は9年である。
伊予守に任じられた頼義は、残党掃討と帰降者処分の未定、勲功の追加推挙者の恩賞未定を理由に、さらに1年間陸奥国に逗留した。
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2月28日
・地震あり。同月晦日にも地震あり。
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3月
・教皇アレクサンデル2世、ローマに戻る。
教皇アレクサンデル2世、皇帝に承認と(ローマ貴族との)仲裁を懇請し、ドイツ宮廷がアレクサンデル2世を正当な教皇と承認。
この事件により、1059年・1060年の決定が白紙に戻り、教皇を皇帝が叙任する「俗人叙任」が復活。
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3月11日
・地震あり。
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4月
・藤原頼成を越前守に任命。
この年、秦枝吉を越前少目に任じる(「魚魯愚鈔」)、また、文章生正六位上藤原国正を越前大掾に任じる(「大間成文抄」)
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4月3日
・源義家、初めて園城寺新八幡宮の祭礼を行う。
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4月13日
・源頼義、馬を献上。
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6月
・カープア候リカルドゥス1世、ガエータを占領。
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8月
・源頼義、相模由比郷に八幡宮を建立。
『吾妻鏡』治承4年(1180)10月12日条によると、頼義は、陸奥から帰京の途中、鎌倉に鶴岡八幡宮を勧請したとある。真偽は判断できないが、彼が武神八幡に対する信仰を深めたこと、その背景に武門としての名誉がかろうじて保持されたことがあったと考えられる。
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・夏、ウェセックス伯ハロルド、弟トスティイとウェールズ王グリフィズ(グリューフィド)制圧の侵略。
8月5日、ウェールズ王グリフィズ、逃亡中に家臣に裏切られ殺害、首をロンドン橋に晒される。
ウェールズの諸首長、イングランドに服属。ウェールズの反乱鎮圧。
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・チェラミ(セラミ)の戦い。
夏、シチリア島東部トロイナ西方10km、教皇アレクサンダー2世、十字軍の印「聖ペテロの旗」をロゲリウス1世に贈呈。
ロゲリウス1世、サラセン軍を撃破。
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8月18日
・清水寺が焼失。
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10月7日
・23代石清水別当頼清の父・権別当兼清(紀氏)、八幡大菩薩宝前で舌をかみ切り自害。
「西方ノ衆ヲ滅スベキ願意ナリ。程ナク皆滅ブ。当時西ノ胤一人トシテナシト云々」(「石清水祠官系図」)。
「西方ノ衆」「西ノ胤」は宇佐氏の家系。

貞観元年(859)、紀氏により石清水の地に八幡神が勧請されるが、延長5年(927)「延喜式」(巻三・神祇三・臨時祭)に、 八幡神宮司は大神・宇佐2氏を補すとの定めが公布される。
天慶2年(939)2月28日宇佐氏の義海が石清水検校とされるが、翌年3月天台座主とされ石清水検校を辞す。
19代石清水別当元命も宇佐氏で、元命以後、20代清成・21代清秀・22代戒信・24代清円とこの家系が続く。

石清水の地に八幡神が勧請される前年、太政大臣藤原良房の外孫惟仁親王(9、清和天皇)が即位、幼帝を補佐するため良房は摂政となる。
貞観8年(866)応天門炎上事件が起り、大伴氏の伴大納言善男と従者紀豊城らが犯人として遠流、累は紀豊城の異母兄・紀夏井にも及び夏井も配流
(昔からの名家大伴氏・紀氏が藤原氏によって弾圧)。
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