2014年2月25日火曜日

ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(93) 「第11章 燃え尽きた幼き民主主義の火-「ピノチェト・オプション」を選択したロシア-」(その1) 「ソ連経済の実践モデルはピノチェトのチリだ」(『ワシントン・ポスト』紙) 

カワヅザクラ 江戸城(皇居)東御苑 2014-02-25
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第11章 燃え尽きた幼き民主主義の火
-「ピノチェト・オプション」を選択したロシア-

 たとえ外国人には奇異に見えようとも、生きている都市には固有の伝統が存在する。それを無視して都市を切り売りすることはできない。(中略)これがわれわれの伝統であり、われわれの街なのだ。われわれは長い間共産主義者の独裁のもとで生きてきたが、実業家の独裁のもとで暮らすようになっても生活はいっこうに良くならない。彼らは自分たちがいる国のことなどまったく気にしていないのだ。          
ー グリゴリー・ゴーリン(ロシアの作家、一九九三年)

 真理を広めなければならない。経済学の法則は工学の法則と同じである。ある一連の法則があらゆるところに当てはまるのだ。
 - ローレンス・サマーズ(世界銀行チーフエコノミスト、一九九一年)

1991年7月の先進国首脳会議(G7)出席に臨むゴルバチョフの期待
 1991年7月、先進国首脳会議(G7)に初めて出席するためロンドンに向かったソ連のミハイル・ゴルバチョフ大統領には、英雄として迎えられると期待してもおかしくないだけの理由があった。

①それまでの3年間、ゴルバチョフは世界のメディアを魅了し、軍縮条約に署名したり、1990年のノーベル賞をはじめいくつかの平和賞を受賞するなど、国際舞台を軽やかに往来して注目を集めてきた。

②ゴルバチョフはまた、アメリカ国民を味方につけるという過去には想像もできなかったことをやってのけた。
それまで「悪の帝国」と風刺されてきたソ連のイメージからはかけ離れたゴルバチョフに、マスコミは”ゴルビー”という愛称をつけ、1987年には『タイム』誌がソ連の最高指導者を「マン・オブ・ザ・イヤー」に選んだ。同誌編集部によれば、前任者たち(「毛皮の帽子をかぶった怪物」)とは異なり、ゴルバチョフはいわばロシアのロナルド・レーガン、つまり「偉大なコミュニケーター〔レーガン大統領のあだ名)のクレムリン版」だという。

③ノーベル委員会は、ゴルバチョフの功績によって「私たち人類の希望がかない、今こうして冷戦の終結を祝うことができた」と言明した。

④1980年代後半~90年代初め、ゴルバチョフはグラスノスチ(情報公開)とペレストロイカ(改革)の二つの政策により、ソ連の民主化を大きく前進させた。
マスコミは自由な報道ができるようになり、ロシア議会や地方議会議員、正副大統領は選挙制となり、憲法裁判所も独立した。

⑤経済面では、主要産業は国家の統制下に置きつつ自由市場と強力なセーフティーネットとを混合した社会を目指し、目標が達成されるまでには10~15年かかると予測していた。
彼にとっての最終目標は、スカンジナビア・モデルに基づく社会民主主義国家の建設、すなわち「全人類のために社会主義の指針」となることだった。

当初は西側諸国も、ゴルバチョフがソ連経済をスウェーデン経済に近いものへと変革することに期待を寄せていた。
ノーベル委員会も、賞の授与は変革を後押しするためのひとつの手段であり、「助けが必要なときの救いの手」だと明言した。
ゴルバチョフ自身、プラハ訪問の際に次のようなたとえを使って、独力では経済改革を行なうことは不可能だと述べた。「一本のロープでつながっている登山家たちのように、世界の国々はともに頂上まで登るか、あるいはともに奈落の底に落ちるかのどちらかなのです」

予想外のG7:ショック療法即時受入の要求
したがって1991年のG7で起きたことは、まったく予想外だった。
各国首脳がほぼ全会一致でゴルバチョフに伝えたのは、急進的な経済的ショック療法をすぐに受け入れなければ、ロープを切断して奈落に突き落とすというメッセージだったのだ。
ゴルバチョフはこのときをふり返って、「改革のスピードと方法に関する彼らの提案はまさに驚くべきものだった」と書いている。

断られた債務免除
 当時、ちょうどポーランドが国際通貨基金(IMF)とジェフリー・サックスの助言のもと、一回目のショック療法を完了したところであり、ジョン・メージャー英首相、ジョージ・H・W・ブッシュ(父)米大統領、カナダのブライアン・マルルーニー首相、そして日本の海部俊樹首相は、ソ連もポーランドのあとに続き、さらに短期間で改革を断行すべきだとの意見で一致した。
G7後、ゴルバチョフはIMFや世界銀行をはじめ、あらゆる主要貸出機関から同様の指示を受けた。
同じ年、ソ連は壊滅的な経済危機を乗り切るために債務免除を申し入れたが、すげなく断られた。サックスがポーランドの援助と債務救済に携わった頃に比べると政治的ムードは様変わりし、厳しさを増していたのである。

「改革」という言葉で語られ、民主主義に対する重大な罪が覆い隠されている
 その後のソ連崩壊、エリツィン台頭によるゴルバチョフ失脚、ロシアにおける経済的ショック療法の波乱に満ちた経過・・・の出来事は、現代史の一ページとして十分に記録されてきた。
だが、「改革」という平凡な言葉で一般化されて語られることが多く、現代史における民主主義に対するもっとも重大な罪のひとつが覆い隠される結果となっている。

ゴルバチョフが着手した民主化プロセスを覆す必要がある
 中国と同様、ロシアもまた、シカゴ学派の経済プログラムか正真正銘の民主主義革命か、二つにひとつの選択を迫られた。
中国の場合、指導者たちは民主主義によって自由市場化計画が邪魔されないよう、自国民に攻撃の矛先を向けた。
ところがロシアの状況は中国とは異なり、民主主義革命がすでにかなり進んでいた。したがってシカゴ学派の経済プログラムを断行するには、ゴルバチョフが着手した平和的で希望に満ちた民主化プロセスを強引に中断し、さらにそれを根底から逆転させる必要があった。

「自由主義経済へのピノチェト・アプローチとも言うべき試みを行なうのは、今度はソ連なのかもしれない」(『エコノミスト』誌)
 G7やIMFが提唱しているようなショック療法を強行するには、少なからぬ西側諸国がしてきたように力ずくでやるしかないことを、ゴルバチョフは承知していた。
1990年、『エコノミスト』誌は「本格的な経済改革を阻んできた抵抗勢力を打倒するために(中略)独裁的手法」を採用するようゴルバチョフに促す記事を掲載し、注目を集めた。
ノーベル委員会が冷戦の終結を宣言してからわずか一週間後、同誌はゴルバチョフに冷戦時代のもっとも悪名高き殺し屋の一人を手本にするよう勧めたのである。
「ミハイル・セルゲイヴィッチ・ピノチェト?」と題されたこの記事は、この助言に従えば「流血の事態を招く可能性もある」としつつ、「ひょっとすると自由主義経済へのピノチェト・アプローチとも言うべき試みを行なうのは、今度はソ連なのかもしれない」と締めくくっている。

「ソ連経済の実践モデルはピノチェトのチリだ」(『ワシントン・ポスト』紙)
 1991年8月、『ワシントン・ポスト』紙はさらに一歩踏み込んで「ソ連経済の実践モデルはピノチェトのチリだ」と題する論評を掲載。
筆者のマイケル・シュラージは、なかなか改革を進めようとしないゴルバチョフをクーデタで失脚させるというシナリオを支持しつつ、ゴルバチョフの反対勢力には「ピノチェト・オプションを採用するための知識も支持も存在しない」ことを懸念し、彼らは「クーデターの起こし方を本当に知る独裁者、すなわちチリのアウグスト・ピノチェト元将軍」をモデルにすべきだと書いている。
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