江戸城(皇居)東御苑 2014-04-17
*治暦4年(1068)
この年
・ロベール・ギスカール、アプーリアのノルマン諸侯反乱を鎮圧(1064~1068)、アプーリア北部・中部を制圧。
反乱指導者(コンヴェルサーノ伯ゴフレドゥス。モンテスカリオーソ伯ロベルトゥス(ゴフレドゥス弟)。アベラルドゥス(ギスカール甥、フンフレドゥス息子))に対する措置は寛大。
ロベール・ギスカールの次の狙いは南イタリアにおける最後のビザンツ帝国の拠点バーリ。
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・ミスリメリの戦い。シチリア、シラクサ近傍ミシルメーリ、ロゲリウス1世、チュニジア・ジール朝派遣軍アイユーブ(アミール・タミーム息子)に勝利。アイユーブは北アフリカに退き2度とシチリアには戻らず。
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1月
・イギリス王ウィリアム、デボンのイグゼターを攻略、デボンを平定。
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1月1日
・日蝕あり。翌2日地震、3日大風。
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3月
・この月、後冷泉天皇が病に倒れ、最早天皇の崩御と、皇太子尊仁親王の即位が避けられないことが明らかになると、頼通は同月23日に致仕の上表を行い、28日には先の9ヶ所の平等院領荘園に対する不入の権の適用を求める申請を行った。
前者は4月16日に勅許され、後者は3月29日に改めて9か所の不輸の権・不入の権を認める太政官牒の発給を受けた。
そして、4月19日に後冷泉天皇が崩御し、頼通は宇治に閉居した。
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3月29日
・近江高島・善積郡内にある平等院領2荘園を不輸不入とする太政官符が出るが、そのうち子田上荘の北限は若狭比良山、河上荘の西限は杣山ならびに若狭堺。
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・春、アンジュー伯ジョフロワ3世髯顔伯、失脚(位1060~1068)。
フルク・ルシャン、兄ジョフロワ3世から伯職を奪い、土牢に投じ、18年目に発狂するまで釈放せず、1097年シノンで毒殺。
フルク・ルシャン(24)、即位(フルク4世ル・レシャン、1043~1109、位1067~1109)。
フルク・ルシャン、自らをアンジュー伯と認めさせるために大貴族や封臣に譲歩。
1069年国王フィリップ1世、アンジュー伯承認の代償としてガティネ伯を取り上げる。
ブロワ伯、同じやり方でトゥーレーヌに対するアンジューの臣従の誓いを 取り付ける。
フルク・ルシャンが政治を行えたのはメーヌ周辺のみ。
1109年、ルシャンが没したときアンジュー家の弱体化は深刻。
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4月16日
・左大臣藤原教通(頼通の弟)を関白とする。
『古事談』(巻2第62話)によると、頼通が子の師実に関白を譲ろうとしたところ、姉の上東門院彰子が後冷泉天皇へ「故道長がたしかに申しのこされたことがございます」と反対したので、関白は師実ではなく教通に伝えられることになった。道長は教通の後は頼通の子へ摂関を継承させる構想をいだいていたと考えられる。
この直後、後冷泉天皇が没し、摂関家の娘を母としない後三条天皇が即位したが、教通が引き続き関白となった。
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4月17日
・皇太后禎子内親王が太皇太后に、中宮章子内親王が皇太后に、皇后藤原寛子が中宮に、女御藤原歓子が皇后となる。
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4月19日
・後冷泉天皇(44)、没(誕生:万寿2(1025)/08/03)。70代天皇。
摂関家(藤原氏)に直接外戚関係のない後三条天皇(35、後朱雀天皇の第2皇子、後冷泉天皇の弟)、即位。
「律令格式にもそむきて、たヾうせに世のうせまかせる事こそ」(「愚管抄」)。
中世国家の骨格を形成する3過程の第1過程。
後三条親政~白河親政~鳥羽親政の期。
行政機構・訴訟機関・法体系の大凡の枠組形成。
在地領主制が構造的に組込まれ、国家構成上、諸権力の重層的編成・機能分掌が顕著となる。
生母が藤原の出でない為、関白頼通・弟教通に疎んじられるが、彼等の異母弟能信の支援を受ける。
後朱雀天皇が尊仁親王を兄親仁親王(後冷泉天皇)の皇太弟と考えていたのを、頼通が抑えるが、能信が薦めて、その遺詔により皇太弟となるとある(「今鏡」)。
頼通・教通は、後冷泉天皇後宮に娘を入内させ外祖父として権力を握る為に、尊仁親王を圧迫。
頼通は、歴代東宮が伝領する「壷切の剣」を「藤原氏(特に摂関家)腹の東宮の宝物」との理由で、23年間、親王が即位するまで献上しなかったされる(大江匡房の談話集「江談抄」)。
しかし、後冷泉天皇には皇子がなく、没後、尊仁親王が即位。
後三条親政:
頼通引退後、上東門院彰子の推挙で弟教通を関白にするが、反摂関家の急先鋒で東宮時代の天皇を庇護した故能信の養子能長や村上源氏の源師房等を登用して摂関家の政権独占打破を図り、大江匡房や藤原実政等の下級役人などを登用し、積極的に親政を行う。
頼通に気兼ねして東宮時代の天皇を蔑ろにしていた源隆国の子の俊明を登用する等、報復的態度は取らず。
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・夏、イングランド北部の反乱開始。
北部諸侯(マーシア伯エドウィン、ノーサンブリア伯モーカ(モルカル)兄弟、エドガ・アセリング(11、エドマンド剛勇王孫、1057?~1120)、ウイリアム征服王に反乱。
スコットランド王マルカム3世が南下して反乱支援。
ウイリアム征服王が制圧(両伯とも許される)。
以後、各地で反乱(1068~1076)。
反乱征服後、ウイリアム1世、アングロ・サクソン所領を奪い、フランス系家臣・高位聖職者に付与 、全国規模で「臣従と奉仕」関係が成立。
イングランド封建国家誕生。
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8月5日
・ロベール・ギスカール、ノルマン人の反乱鎮圧後、東ローマ最大拠点バーリを海陸から包囲。
バーリの指導者ビザンティウスは脱出、パテラノス率いるビザンツ救援艦隊が来訪、町への補給遮断は完全ではない。
東ローマは小アジアのトルコ軍の攻撃に備えイタリア半島派遣軍を縮小。
1071年4月16日バーリ陥落し、東ローマはイタリア半島での橋頭堡喪失。
後、ブリンディジも陥落、東ローマはイタリア半島の領土完全喪失。
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8月14日
・貞仁(のち白河天皇)、親王宣下
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12月
・内裏焼亡
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・年末迄に、イングランドのウイリアム征服王、南イングランドを制圧。
ウェセックスのゴドウィン家の権力と所領を没収。
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