2014年4月17日木曜日

『桜が創った「日本」 -ソメイヨシノ 起源への旅-』(佐藤俊樹 岩波新書)を読む(9) 「ソメイヨシノが広まる背後に思想や文化をあまり強く見出そうとすると、現在の桜語りの様式を知らず知らずに持ちこんでしまう。桜に深い意味や特別な観念を読みこんでしまう。」

牛ヶ淵 2014-03-31
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公園と公共
桜は公園という公共空間の一部でありつづけていた
「この大鳥居の下を敷石伝いに進めば、両側には桜樹林をなし春候爛漫花開くの空は一面に花の天蓋もて掩(おお)われたらんが如く、常は奥深き翠閨の中に育まれたまうそこらあたりの姫様方さえ、この頃には花にも劣らぬ綺羅びやかなる扮装(いでたち)して腰元にかしつかれながら花間にさまよいたまうを見るもゆかし、樹下所々に共同ベンチを設けあり。

東都沿革調査会編『最新東京案内記』(明治三一年)の一節である。ここで語られる桜の景観は現在とほぼ重なる。空一面をおおう花の天蓋。ソメイヨシノの特徴を強く感じさせる語りである。」

「・・・例えば「共同ベンチ」が示すように、この桜は公園という公共空間の一部でありつづけていた。華族の女性が実際にどれだけ来ていたかはわからないが、靖国神社の西、番町の一帯はこの頃、東京の中流上層階級の住宅地になっている。田山花袋のおしゃべりに、もう一度耳を傾けてみよう。」

九段の公園は山の手/下町という東京の階層構成の結節点でもあった
「「花見に行くと、場所場所に由って、娘の種類の違うのが面白い。上野ではまだ綺麗な娘が見られるが、浅草から向島に行くと、娘の種がすっかり落ちる。げびていていけない。そこに行くと九段だ。あそこに行って、運が好いと、非常に美しい高尚な気高い娘が見られる。やはり、種が違うよ、君。それに、あそこは静かで、雑踏しないで好い。静かに花を見るには、あそこに越したところはない。」こう言う時分には、私はその桜の木と共によほど大きくなっていた。(『東京の三十年』)

品評する花袋自身が一番下卑ている気がしてくるが、九段の公園は山の手/下町という東京の階層構成の結節点でもあった。地方から出てきた一人の男性が、そこに立身出世と家繁栄の夢を結びつける。靖国神社のソメイヨシノにはそういう視線もむけられていた。」

日本と桜の結びつきはそれほど自明だったわけではない
「明治二十年代には、たしかに日本のナショナリティがさかんに論じられたし、桜はその表象の一つであったが、日本と桜の結びつきはそれほど自明だったわけではない。志賀重昂『日本風景論』も「日本は「松国」たるべし、「桜花国」と相待たざるべからず」と書いている。本居宣長の「朝日に匂ふ山桜花」という歌を香りの話だと誤解した新渡戸稲造『武士道』(明治三二年、明治三八年増訂)の語りも、結びつく中身の定まらなさを示すものだろう。」

桜-軍人-ナショナリティの連関は見られるのだが、その内容は現在想像されるのとはかなりちがう
「・・・軍人と桜が結びつく理由は、魂の追憶以外にも、さまざまあった。例えば、海軍教育本部『海軍読本』(明治三八年)の「桜」の章では、「花は桜木、人は武士」という名文句を、軍人を桜にたとえたものとしたしで、「ワガ国ハ桜ヲ花ノ王トス」とする。
けれども、そこで桜の特徴としてあがっているのは、派手でなく美しく咲いて人の目を喜ばすところや、材や樹皮も生活に役立つところで、散り方には一切言及がない。他方、「靖国神社」の章では、桜に全くふれていない。桜-軍人-ナショナリティの連関は見られるのだが、その内容は現在想像されるのとはかなりちがう。そのなかで靖国神社の桜が特別な位置を占めていたわけでもない。」

コノ神社ノ境内ハ公園ニシテ、築山、泉水ナドアリ。マタ、梅、桜ナド、多ク、植エタレバ、花時ノナガメ、コトニ、ヨシ
「・・・明治三六年(一九〇三)の『高等小学讀本一』だろう。その第四課に靖国神社がでてくるが、「コノ神社ノ境内ハ公園ニシテ、築山、泉水ナドアリ。マタ、梅、桜ナド、多ク、植エタレバ、花時ノナガメ、コトニ、ヨシ」と書かれている。桜は梅とならぶ公園の景観の一つであった。読本の解説書『高等小学讀本字解』(峯間信吉校)は、この「公園」の語に「多クノ人人ガ、だれデモ、じゆーニ 遊ブタメニ、ヒロク、カマエタル、にわヲイウナリ」と注釈している。」

戦争と事業
明治期の桜は自己犠牲の哀調よりも、開放的な陽気さを強く感じさせる
「明治期の桜は自己犠牲の哀調よりも、開放的な陽気さを強く感じさせる。そういう視線で九段の桜も語られていた。・・・そもそも戦争が昭和期とはちがう意味をおびていた。」

そもそも戦争が昭和期とはちがう意味をおびていた:その動員規模において
「・・・加藤陽子『徴兵制と近代日本』によれは、日清戦争時の二〇歳男性人口四三万人に対して陸軍動員数は二四万。日露戦争でも二〇歳男性人口約五〇万に対して動員数五七万である。これが第二次大戦時(日中戦争をふくむ)になると、二〇歳男性人口七〇万に対して動員数約六〇〇万。実に八・六倍もの人間を戦地に送ったことになる。それに比べると、日露戦争でも規模はずっと小さい。
死んだ兵士の数でも、第二次大戦の死者二六〇万(二〇歳男性人目の三・七倍)に対して、日露戦争では八・五万(〇・一七倍)。・・・」

戦争は生存をかけた闘いであるとともに一大事業でもあった
「明治の日本にとって、戦争は生存をかけた闘いであるとともに一大事業でもあった。勝てば領土も賠償金も手にはいる。死者の慰霊と勝利の祝祭は一体であり、徴兵の範囲が小さければ小さいほど、慰霊よりも祝祭の方が前面にでてくる。大きな損害をうけることなく、勝利の果実を期待できる国民がそれだけ多くなるし、たとえ家族に戦死者が出た場合でも、その死に「家繁栄の礎」という意味をあたえられるからだ。個人を犠牲にして、ではなく、戦争に勝って国が豊かになれはそれだけ個人の成功の途も開ける。そういう形で、戦争を位置づけることができた。」

桜は死者への慰霊とともに、立身出世の欲望と「家」繁栄の願いと国家の勢威を象徴する花になりうるのである
「「公」や「国家」にも同じことがあてはまる。個人の成功が国家の繁栄につながるのであれば、「国のため」と「私のため」を区別する必要はない。事実、田山花袋ではこの二つが融けあって語られている。

「今に豪(えら)くなるぞ、豪くならずには置かないぞ。」こういう声が常に私の内部から起った。私はその石階を伝って歩きながら、いつも英雄や豪傑のことを思った。国のために身を拾てた父親の魂は、そこを通ると、近く私に迫って来るような気がした。

立身出世の欲望が「家」繁栄の願いを介して、そのまま国家への貢献につながる。そうした語りにおいては、現在の私たちが考えるような、個人主義的か集団主義的かの二署択一は存在しない。桜は死者への慰霊とともに、立身出世の欲望と「家」繁栄の願いと国家の勢威を象徴する花になりうるのである。」

明治期の桜語りのなかで、桜は死や自己犠牲に特に強く結びついたわけではない
「斎藤正二『日本人とサクラ』や大貫恵美子『ねじ曲げられた桜』がくわしくのべているように、明治期の桜語りのなかで、桜は死や自己犠牲に特に強く結びついたわけではない。そこには戦争や国家がもつ意味のちがいもある。そもそも戦争が事業だとすれば、規模では他と比べものにならないが、意味においてはとびぬけて特異な出来事ではなくなる。似た出来事は他にも見つかる。例えは堤防修築、公園造営、観光地整備……。事実、ソメイヨシノは戦争だけでなく、それらの土木事業の記念にも植えられた。」

普及のメカニズム
ソメイヨシノが広まる上で日清と日露の二つの戦争が大きな契機になった、とよくいわれるが、・・・
「この桜が広まる上で日清と日露の二つの戦争が大きな契機になった、とよくいわれる。実際に、各地の名所の由来をみていくと、二つの戦争での出征や勝利の記念、戦没者への追悼のために、城址や忠魂碑の公園、堤防などに植えた事例は少なくない。戦争といっしょに拡がるソメイヨシノ。その姿は「一つの国家」「一つの軍隊」をつくる運動に見えるが、それも歴史というよりは、もう一つの起源の物語であるようだ。
そもそも日清戦争前後のソメイヨシノの拡大を靖国神社の複製と見ることはできない。境内への大量植栽から開戦まで、わずか三年。花袋の言葉をかりれば、当時の桜は「栽えたばかりで小さく」「境内は花の頃よりも新緑の頃が殊に美しかった」。
日露戦争の頃には靖国神社は桜の名所として定着していたが、少なくとも文部省の教科書レベルでは、桜は公園の景観の一部にすぎない。戦争の記念植樹に選ばれた樹も月桂樹であった。桜に特別な意味は見出されていない。」

「新しさ」が鍵
「なぜこの時期に各地に桜が植えられたか、・・・桜への視線からいえは、やはり「新しさ」が鍵だったのではないか。」

そういう(新しい)記憶の空間を美しく飾るのに、ソメイヨシノは絶好のアイテムだった
「戦争を記念する公園や碑は新しい記憶を伝える。新たに造られる、伝統や由緒をもたない場所だ。そういう記憶の空間を美しく飾るのに、ソメイヨシノは絶好のアイテムだった。ヤマザクラなら見映えがするまで二十年、ソメイヨシノならそれが十年ですむ。かなり育った若木を植えれば、さらに短縮できる。景観整備の上でも大変便利な樹であった。吉野でも、明治二五年に建てられた吉野神宮の周りには、ソメイヨシノを植えている(小清水卓二前掲)。ちょうど公園化され、桜の整備をはじめた頃である。
まして各地で同時期に同じような施設ができるとなると、染井などの園芸産地ですでに大量に栽培されている苗木を使うしかない。十年後に戦争をするからこの種類の苗木を育てておいて、と計画をたてられるわけではない。もともと選択の余地はあまりなかったのではないか。その分、桜やソメイヨシノ自体に強い意味は見出しにくい。」

ソメイヨシノが広まる背後に思想や文化をあまり強く見出そうとすると、現在の桜語りの様式を知らず知らずに持ちこんでしまう
「ソメイヨシノが広まる背後に思想や文化をあまり強く見出そうとすると、現在の桜語りの様式を知らず知らずに持ちこんでしまう。桜に深い意味や特別な観念を読みこんでしまう。桜好きの間でさえ、そういう桜語りがさかんになるのはもっと後である。」
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