イチハツ(アヤメ) 江戸城(皇居)東御苑 2014-05-01
*エリツィンの独裁支配
クーデター後、ロシアは野放しの独裁支配下に置かれた。
選出された議会は解散、憲法裁判所は一時的に閉鎖、憲法も停止。
戦車が街を巡回し、外出禁止令が発令され、マスコミは広範囲にわたる検閲を受けたが、市民的自由は間もなく回復した。
「今こそショック療法のチャンスだ」
この重要な局面で、シカゴ・ボーイズと西側の顧問たちは何をしたか?
サンティアゴがくすぶり、バグダッドが燃えたときと同じく、民主主義の干渉から解放された彼らは手当たり次第に法律の作成に着手した。
クーデターの3日後、サックスはショック療法はいまだにまったく行なわれていないと指摘。それは計画が「ちぐはぐで気まぐれ的にしか実施されていない」からであり、「今こそ事を起こすチャンスだ」と述べた。
「議会が機能していない今こそ、改革の好機です」
そして彼らは行動に出た。
『ニューズウィーク』誌は書く。
「ここのところ、エリツィンの自由経済チームの動きが活発になっている。ロシア大統領が議会を解散させた翌日、市場改革者たちに、法令の作成を始めよとの指示が下されたのだ」。
「嬉々として政府と密接に協力する西側の経済学者」のコメントを引用。
この経済学者は、ロシアではこれまでずっと、民主主義が自由市場の実現計画にとって障害だったことを明確にし、次のように述べたという。
「議会が機能していない今こそ、改革の好機です。(中略)ここの経済学者たちはかなり落ち込んでいた。それが今では、昼も夜もなく働いていますよ」。
「人生でこんなに楽しかったことはない」
世銀のロシア担当チーフエコノミスト、チャールズ・ブリッツァーは『ウォールストリート・ジャーナル』紙に「人生でこんなに楽しかったことはない」と語る。
即座に国民の生活の窮状を招き、暴動を抑えるために警察国家化を必要とするような政策
しかも、楽しみは始まったばかりだ。
国中が議会砲撃のショックから覚めやらぬなか、エリツィンのシカゴ・ボーイズたちは、彼らのプログラムのなかでももっとも異論の多い予算の大幅削減、パンなど基本食品の価格統制の廃止、さらなる民営化のより急速な推進などの法案を強引に可決した。
これらは即座に国民の生活の窮状を招き、暴動を抑えるために警察国家化を必要とするような政策である。
「あらゆる領域で可能な限り早急に事を進める」よう提言
エリツィンのクーデター後、IMFのスタンレー・フィッシャー筆頭副専務理事(1970年代のシカゴ・ボーイでもある)は、「あらゆる領域で可能な限り早急に事を進める」よう提言した。
当時、クリントン政権下でロシアの政策策定に協力していたローレンス・サマーズ財務次官も同じく、「民営化、安定化、自由化の三つの「促進」をすべて、できるだけ早く行なうべきだ」と助言した。
多くの労働者は自分の働く工場・鉱山の売却を知らなかった
だが変化のスピードがあまりに速すぎて、国民はついていけなかった。
多くの労働者は、自分の働く工場や炭鉱が売却されたことすら知らず、ましてやどのような形で誰に売られたのかなど知るよしもなかった
(10年後、私はこれと同様の深刻な混乱をイラクの国営工場で目にすることになる)。
新興億万長者、新興財閥(オリガルヒ)の出現
理論上はこれらの戦略が好景気をもたらし、ロシアを不況から脱却させるはずだった。
ところが実際には、共産主義国家がコーポラティズム国家に取って代わられただけだった。
にわか景気から利益を得たのはごく少数のロシア人(元共産党政治局員も少なくなかった)と、ひと握りの西側の投資信託のファンドマネージャーで、彼らは新たに民営化されたロシア企業に投資して、目もくらむような利益を手にしていた。
新興億万長者たち(その多くは絶大な富と権力で「新興財閥(オリガルヒ)」と呼ばれる集団を形成するようになった)は、エリツィンのシカゴ・ボーイズと手を組んで価値ある国家資産をほぼすべて略奪し、1ヶ月に20億ドルのペースで膨大な利益を海外に移していった。
ショック療法実施前には、ロシアには百万長者すら存在していなかったが、『フォーブス』誌の長者リストによると、2003年には17人もの億万長者が誕生した。
オリガルヒ出現の理由
その理由のひとつは、エリツィンとそのチームが他のケースとは異なり、シカゴ学派の正統理論から逸脱したことだった。
ロシアの場合、外国の多国籍企業が国家資産を直接買収することを認めず、まずロシア人に買収させた。その後、いわゆるオリガルヒが所有する新たに民営化された企業の株を、外国の投資家に公開した。
それでも利益は天文学的なものだった。
『ウォールストリート・ジャーナル』紙は書く。「たった三年間で二〇〇〇%の利益が得られる投資をお探しだろうか? その望みをかなえるのは世界でひとつの株式市場しかない。(中略)ロシアだ」。
クレディ・スイス・ファースト・ボストンなど少なからぬ投資銀行や潤沢な資金を持ついくつかの金融業者は、すぐにロシアに特化した投資信託を設置した。
エリツィンの支持率は一桁台に落ち込む
オリガルヒと外国の投資家にとって唯一の気がかりは、急降下するエリツィンの人気だった。
経済プログラムは一般のロシア人に過酷な影響をもたらし、そのプロセスも明らかに不正まみれだったため、エリツィンの支持率は一桁台にまで落ち込んでいた。
もしエリツィンが大統領の座を追われれば、誰が後任者になっても極端な資本主義化路線にストップをかける可能性が高い。
それ以上にオリガルヒと「改革者」たちが心配していたのは、こうした反憲法的な政治状況のもとで分配された資産の多くを再国有化すべきとの主張が強まることだった。
チェチェン進攻で支持回復を図るエリツィン
1994年12月、エリツィンは、いつの時代でも必死で権力にしがみつこうとする多くの指導者がやったのと同じことを実行する。
戦争である。
オレグ・ロボフ安全保障会議書記はある議員に、「大統領の支持率を上げるために、ちょっとした戦争をして勝つ必要がある」と漏らした。国防大臣は、分離独立を主張するチェチェン共和国に連邦軍を派遣すれば、ものの数時間で制圧は可能だという見通しを語った。
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