2014年9月26日金曜日

<個人的な意見> 「愛国」の「作法」について 高橋源一郎 (『朝日新聞』論壇時評2014-09-25)

北の丸公園 2014-09-26

<個人的な意見> 「愛国」の「作法」について 高橋源一郎
(『朝日新聞』論壇時評2014-09-25)

 学校で「新聞」を作るプロジェクトに参加している小学生の息子が、おれの机の上に積まれていた新聞と雑誌を見つけ、「これ、なに? 読んでいい?」と訊いてきた。おれは、少し考えて、「止めときな」といった。
「なんで?」
「下品で卑しいものが混じってるから。そのうち、きみはそういうものにたくさん出会うことになるだろうが、いまは、もっと気品があって美しいものを読んでいてもらいたいんだよ。パパとしては」
「わかった」。そういって、息子は書斎を出ていった。おれは、なんだかちょっと悲しく、憂鬱だった。

①本紙記事「慰安婦問題を考える(上)~『済州島で連行』証言」など(8月5日)
②本紙記事「本社、記事取り消し謝罪 吉田調書『命令違反し撤退』報道」(9月12日)

 朝日新聞は、二つの大きな「誤報」を作り出した(①②)。「誤報」に関しては、擁護のしようもない。その後の対応も、どうかしている。だから、批判は甘んじて受けるべきだ、とおれは考えていた。机の上にあったのは、その「誤報」を批判するものだった。

 その中には、有益なものも、深く考えさせられるものもある。だが、ひどいものも多い。ひどすぎる。ほんとに。罵詈雑言の嵐。そして、「反日」や「売国」といったことばが頻出する。

 そんなことばが使われること自体は珍しくない。「前の戦争」のときにおれたちのこの国で、1950年代のアメリカで、旧ソ連時代のロシアで、そして、ナチス支配下のドイツで、「愛国」の名の下に、それに反すると認定された者は、「売国奴」(ときに、「共産主義者」や「人民の敵」ということばも使われた)と呼ばれ、容赦なく叩きのめされ、社会的に(あるいは身体的に)抹殺された。いまも世界中で、同じことは行われ続けている。いや、気がつけば、おれたちの国では、その「語法」が、「憎しみ」と軽侮に満ち、相手を一方的に叩きのめす「語法」が広がっている。

■     ■

③スーザン・ソンタグ「9.11.01」(『同じ時のなかで』<2009年>所収)

 2001年9月11日、ニューヨークの世界貿易センタービルに2機の飛行機が突入した。イスラム原理主義グループによる同時多発テロだ。ベルリン滞在中のアメリカ人作家スーザン・ソンタグは、その2日後、このことについて意見を書き、テロから6日後に発売された雑誌に掲載された(③)。ソンタグはこう書いている・・・・まず、共に悲しもう。だが、みんなで一緒に愚か者になる必要はない。テロの実行者たちを「臆病者」と批判するが、そのことばは彼らにではなく、報復のおそれのない距離・高度から殺戮を行ってきた者(我らの軍隊)の方がふさわしい。欺瞞や妄言はなにも解決しない。現実を隠蔽する物言いは、成熟した民主国家の名を汚すものだ、と。

 この発言は、「団結」を乱すものとして、全米で憤激を巻き起こした。ソンタグは「アメリカの敵」を擁護する「売国奴」と見なされ、殺害予告をされるまでに至った。それでも、ソンタグはすぐにニューヨークに戻り、発言を続けた。

 彼女は、どうしてそんな発言をしたのだろうか。おれは、ずっと考えてきた。もしかしたら、彼女は、殺されても仕方ないと思っていたのかもしれない(彼女は、長期にわたる癌闘病生活を送っていて、2004年に亡くなる)。愛する祖国が、憎悪にかられて、暴走するのを止めるために、「正気」に戻るよう促すためには、それしか方法がなかったのかもしれない。実際、プッシュ政権下のアメリカはやがて、「イラクには大量破壊兵器がある」という情報を捏造して、戦争を開始することになるのである。

 おれは、ソンタグのような人間こそが、最高の愛国者ではないかと思う。同じような事件がこの国で起こったとき、同じような感想を抱いたとして、ソンタグのようなことが書けるか、といわれたら、おれには無理だ。そんな勇気はない。

④スーザン・ソンタグ「言葉たちの良心 エルサレム賞受賞スピーチ」(同)

 ソンタグはこんなことをいっている。 

 「自分が大切にしている諸権利やさまざまな価値の相克に、私は取り憑かれている。たとえば、ときとして、真実を語っても正義の増大にはつながらないということ。ときとして、正義の増大が真実の相当部分を押さえ込む結果になるかもしれない、ということ。(略)
私自身の見解は、もし真実と正義のどちらかを選ばざるをえないとしたら - もちろん、片方だけを選ぶのは本意ではないが - 真実を選ぶ」(④)

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 ジャーナリズムのことばと文学のことばは違う。けれど、共有しているものもある。だから、いまのことばを朝日新聞に贈りたい。「誤報」問題が起こったのは、自分たちの「正義」を絶対視してしまったからであるように思えるのだ。

 人は間違える(おれもしょっちゅう間違える)。組織や社会も間違える。国もまた間違える。それがすべての出発点であるように、おれは思う。それがどのような「正義」であれ、「おれは間違っていない」というやつは疑った方がいい。「愛国者」であると自称する連中は「国の正しさ」に敏感だ(だから、「正しくない」といわれると攻撃する)。だが、正しくなければ愛せないのだろうか。ソンタグにとって、祖国アメリカは、「正しさ」と「不正」の入り交じった存在だった。その、矛盾する、等身大のアメリカをこそ彼女は愛した。

 自称「愛国者」たちは、「愛国」がわかっていないのではない。「愛」が何なのかわかっていないのだ、とおれば思う。こんなこといってると、おれも、間違いなく「反日」と認定されちまうな。いやになっちゃうぜ。

(おわり)
*高橋さんの傍点はアンダーラインとした。

担当記者が選ぶ注目の論点
人口減少をどう生かすのか

 人口減少をめぐる議論が深まってきた。増田寛也元総務相らが参加する民間会議が5月に出した、2040年までに自治体の半数近くが「消滅可能性」があるというリポートが契機だ。

週刊エコノミスト9月2日号は「とことん考える 人口減」を特集。上智大教授の鬼頭宏は「近視眼的政策が招く人口問題」で、戦前から人口過剰論と過少論が繰り返されてきた歴史を紹介。人口減退期は「次の時代を作るさまざまな要素を生み出した時代」だったとし、これまでと同じ成長ではなく、成熟社会にふさわしい豊かさを求めることが、出生率の回復や安定した社会にもつながると主張する。

リポートに批判的な視点も。世界10月号の特集「生きつづけられる地方都市」は、消滅予測自治体のルポなどから、「地域の持続的発展のための新しいビジョン」を探った。まちづくり団体代表理事の木下斉はブログ記事「消滅可能性都市のウソ(以下略)」で、「なくなるのは地方そのものではなく、今の単位のままの地方自治体」と指摘。従来の行政単位ではなく広域行政でサービスを回すなど、「現実に沿って破綻しない社会を実現する行政議論をするのが当然」と釘を刺した。

なかなか変わらない政治。「女たちよ、政治家をめざせ」(新潮45・9月号)では、女性国会議員3人が飲みながら語った。「派閥の長に可愛がられるのが(女性の)出世の条件」だった時代から、「男性とガチンコで戦っても、終わるわけじゃない」時代へ変わったと語る野田聖子は感慨深そう。

「アヴィ・モグラビさんに聞く」(週刊金曜日9月5日号)は、イスラエルの映画作家のインタビュー。最新作で、パレスチナ人の友人との交遊を通じて共存の夢を描いた。加害と被害の歴史を超えて関係を再生できるのか。日本にとっても重い問いだ。






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