2014年11月11日火曜日

野口冨士男『わが荷風』を読む(4) 「2 順境のなかの逆境」 (その2終) 「《私は母親といつまでもいつまでも、楽しく面白く華美(はで)一ばいに暮したいのです。私は母の為めならば、如何な寒い日にも、竹屋の渡しを渡って、江戸名物の桜餅を買って来ませう。》」

北の丸公園 2014-11-10
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 ・・・、この強いもの、逞しいものとしての父に対する畏怖の念はたいへん象徴的で、のちにアメリカへ渡り、さらにフランスへ移ってからもたえず荷風につきまとい、いよいよ日本へ帰国する直前に至ってよぅやく解放されることになるものである。年齢的にいえば満二十八、九歳ごろまでまつわりついてはなれなかった重圧感であった。

 ・・・庭に棲みついた狐が鶏をとったことから家人 - 特に父の怒りをかって、父、書生、出入りの鳶職、植木屋、車夫たちによって雪の日に仕留められたのち、今度は目的が達せられたことを祝って、父たちが新しく殺した二羽の鶏を料理して酒盛りをおこなうまでの経過が『狐』の梗概だが、荷風はそのあとに記している。

《眠りながらその夜私は思った。あの人達はどうしてあんなに狐を憎くんだのであらう。鶏を殺したからとて、狐を殺した人々は、それがために更に又鶏を二羽まで殺した。
あゝ、ツルゲネエフは蛇と蛙の争ひから幼心に神の慈悲心を疑つた。私はすこしく書物を読むやうになるが早いか、世に裁判と云ひ懲罰と云ふものゝ意味を疑ふやうになつたのも、或は遠い昔の狐退治。其等の記憶が知らず知らず其原因になったのかも知れない。》

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荷風は狐を仕留めた大人たちのうち、特に書生の田崎に憎悪を集中する表現をもちいているが、田崎は忠実な部下であったに過ぎなくて、その指揮官が父であることは覆うべくもない。この作品にかぎらず、父は常に悪役として登場する。

・・・、荷風にはエディプス・コンプレックスがあったという佐藤春夫らの説がある。佐伯彰一の集英社版「日本文学全集・永井荷風集」の解説『作家と作品・永井荷風』も、拡大解釈をすれば、その系統のひとつとみて大過あるまい。

・・・下谷の家とは母=恒の実家 - すなわち鷲津家で、家長の毅堂は明治十五年十月五日、荷風が満三歳に達しようとする直前に胃癌で他界したため、その家はもっぱら祖母=美代の記憶につながる。しかも翌十六年二月五日に弟の貞二郎が生まれたため、荷風は下谷竹町四番地の鷲津家にあずけられて、初孫のために祖母から鍾愛され、お茶の水の女子師範学校附属幼稚園にもその家からかよって、十九年に小石川服部坂の黒田小学校へ入学する直前に金富町へもどっている。そして、漢学者の妻であった祖母はクリスチャンであり、母=恒もその感化を受けて入信し、のちに鷲津家へ養嗣子として入った荷風の次弟=貞二郎は牧師となって下谷教会を創設している。

悪役としての父に対して、母がそうした家から出ているという事実には注目すべきものがあって、佐伯彰一は強い父に対する母のやさしさが『狐』のなかで《くり返し強調されている》点を指摘する。そして、次のような異議を唱える読者がいるかもしれぬとのべる

《荷風は、なるほど生涯を通じて、倦むことなく女を描き続けた。『腕くらべ』『つゆのあとさき』『濹東綺譚』『問はずがたり』のいずれを取っても、「女に覆われた」世界であり、男性は女たちとかかわりを持つ限りにおいてのみ登場を許される底(てい)の世界には違いなかった。しかし、そこにおける女性たちの芸妓、カフェの女給、私娼といった職業は別として、いずれも母性的なものからは極端にまで縁遠い女ばかりではないのか。荷風が興味をいだいたのは、男性に快楽をもたらし得る限りにおいての女性であり、母としての女性など、そもそも彼の念頭には浮ばなかったのではないか。いや、さらには、母としての女性こそ、荷風が自分の世界から意識的に閉め出し、遠ざけたところではなかったか、と。そうした異議に対しては、ぼくといえども反駁する気持はまったくない。》

《たしかに、こうした荷風にあって、母としての女性のイメージは、意識的に排除されている。荷風は長い小説家的な生涯において、母たる女性に、ほぼ完全に締め出しをくわせて来た。だが、ぼくの注目を求めたいのは、まさにその点、その「意識」性、あまりな「完全」さ自体なのだ。『下谷の家』と『狐』における母のイメージを思い合わせる時、その排除ぶりの「意識」性は、いよいよ際立ってくる。とすれば、いったい何のために? 荷風は、母のイメージを手つかずの完璧さにおいて保持しようがためにこそ、ひたすらその反対物、つまり娼婦としての女に執着しつづけたのではなかったろうか。荷風における芸術家としての自己確立に際して、「父」からの離脱、「父」的な世界からの脱走、拒否が大きく働いた。そしてその際、他方の極に、「母」のイメージが、「下谷の家」の世界が浮んでいた。抱きかばってくれる母のイメージと、「神秘な気高い」過去にひたされた世界とが重なり合う形で、別の対極を形造った。しかし、こうした対極の世界のうちにのめりこむことを荷風は避けた。母のイメージを純化、理想化する母性崇拝への道を避け、むしろ現実の女たちを見る道をえらんだ。変化と多様性に惹かれる小説家的な本能の仕業には違いなかったろうが、同時に母のイメージを完璧に護持しつづけるための戦略でもあった、とぼくはいいたい。げんに荷風は、これらの「現実の女たち」のいっさいから、母たる資格と位置をきびしく剥ぎとっている。創造者としての荷風は、彼女らの誰一人に母たることを許さなかった。裏側からいえば、母のイメージを前にしての、潔癖な禁欲であった。》

荷風は昭和十年三月の随筆『きのふの淵』に、《父は曾て一たびも芝居を見たことのない人》であった、と書いている。久一郎が最初に劇場へ足をはこんだのは《東京で始めて椅子席を用ゐた》《数寄屋橋の有楽座》が開場したときだというから、それは明治四十一年十二月、満でも五十二歳のおりで、漠詩人とはいえ彼がいかに芸能と縁遠い人間であったかは、この一事によっても明白である。

それに反して、荷風が年少にして「帝国文庫」ほかの文学書類にしたしんだのは、母=恒の蔵書に負うところが大であったといわれるし、『監獄署の裏』をみると、母について《江戸の生れで大の芝居好き、長唄が上手で琴もよく弾きました。》とあって、さらに次のような記述もみいだされるのだから、後年の永井荷風をはぐくんだ素地が母によってつちかわれたことはまちがいない。すくなくとも、佐伯彰一説を裏づけることになっても、抵触するものはどこにもない。

《私は忘れません、母に連れられ、乳母に抱かれ、久松座、新富座、千歳座なぞの桟敷で、鰻飯の重詰を物珍しく食べた事、冬の日の置炬燵で、母が買集めた彦三や田之助の錦絵を繰り広げ、過ぎ去った時代の芸術談を聞いた事。》

《私は母親といつまでもいつまでも、楽しく面白く華美(ハデ)一ばいに暮したいのです。私は母の為めならば、如何な寒い日にも、竹屋の渡しを渡って、江戸名物の桜餅を買って来ませう。》

が、実在の荷風は《母親といつまでもいつまでも、楽しく面白く華美一ばいに暮した》であろうか。暮さぬまでも、暮そうと心がけたことが実際にあったのだろうか。右は『監獄署の裏』からの引用だが、その直前に発表した海外生活中の手記である『西遊日誌抄』に、彼は父に対する怨嗟や憎悪は記しても、母に対する慕情は一片だに示していない。どんな形にせよ、当時の彼の心に父はあっても、母はなかった。

荷風の著作物を通じてみるかぎり、恒は明治中期の富裕で知的な家庭の主婦として、さほど特殊な女性であったとは私には考えられないし、荷風の思慕にもそれほど深いものがあったとは受取りかねる。

なるほど昭和十二年九月八日、満七十八歳で恒が死去したとき、荷風は《泣きあかす夜は来にけり秋の雨》という哀悼句をつくっている。が、いかに義絶中の三弟=威三郎と顔を合わせることを忌避したという理由があったにもせよ、そして、荷風が憎悪に対しては絶対に妥協せぬ性格の人物であったにしろ、母の葬儀に列しようとしなかったことには、瞋恚(しんい)や憎悪を乗り越えてもというほどの心を、母に対していだいていなかったという事情があったのではなかろうか。
右の句と同時に吟じられた《秋風のことしは母を奪ひけり》という句に、私はむしろ彼と母との間にあった距離をすら感じる

経済的には何ひとつ不自由がなかったという意味で、荷風は順境の子であった。めぐまれた家庭環境のなかで、彼は育てられた。が、彼はそうした家庭の反逆児であった。荷風がはじめて吉原の娼家へ登楼したのは明治三十年二月、満では十七歳のおりである。そして、三十二年春には落語家に弟子入りして、高座へあがるなどのために学業も半途におわった。一方では小説を書きはじめたり、三十三年夏からは歌舞伎座の作者部屋へ入るというありさまで、通常の家庭でも顰蹙をかって当然のところ、彼の場合は家長が文部官僚であっただけに、他家よりいっそう強く家族から白眼視されねばならなかった。しかも、世間からは落語家としても、作家としても、狂言作者としても、一人前としては認められぬ存在でしかなかったから、家庭の一員としても、社会人としても、逆境におかれているという心境がぬぐいがたかったに相違ない。『すみだ川』の主人公=長吉は、恐らくそのような自身のすがたの写し絵である。

『紅茶の後』中の一篇である『九月』をみると、高校入試に失敗した荷風にむかって父が《絶望と憤怒の叫》を《頭上にあびせ掛けた。》のに対して、母が《なにも大学とかぎつた事はないでせう。高等商業か福沢さんの学校でもいゝぢやありませんか。》と取りなすところがある。が、荷風が当時としては社会的に一段も二段も低くみられていた落語家、作家、狂言作者という経過をたどったとき、母はどれだけそんな息子の側に立ったであろうか。夫に対して、どれだけ息子の庇護者の立場にまわったであろうか。

私ひとりの当て推量でしかないが、『すみだ川』の母親=文字豊は荷風の母=恒の、そんな半面の投影であったかもしれない。憶測が過ぎるかもしれないが、長吉という主人公の作中名も、作者自身の本名=壮吉のもじりでなかったとはいえないだろう。
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