2014年11月27日木曜日

堀田善衛『ゴヤ』(51)「もう一人の公爵夫人」(2終) 「ゴヤは、一筋縄でとらまえられるような、表層的な人物ではなかった。その重層は、深くバスクの先祖、あるいはかつてのイスラム文化にまで届いていた。彼自身がそれを自覚しているかいないかは、この際別の問題である。」

ゴヤ『葡萄摘み』(『秋』)(1786-87)
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『収穫』(『夏』)
「この次に、横に長い(二七六×六四一センチメートル)『収穫』(『夏』)が来る。
太陽は天頂にあって、数人の子供を含む農夫たちが穀物の収穫をし、たばねられた茎は背景右に天高く積み上げられている。子供が一人、荷車の上に乗って鋤を振り上げている。大人どもは休みをとって愉快そうに談笑をしている。」

「ところで、左の背景には、廃址らしい城塞が見え、その前に、子供のもっている振りあげられた鋤とは反対に、大人とも子供ともつかぬ男が鋤を杖にして立ち、これが傍の男に葡萄酒を注いでもらっている。
にやにやと馬鹿笑いに笑っている、この大人とも子供ともつかぬ男 - 片方の靴下はずり落ちてしまっていて、胸もあらわにはだけている。ズボンも腰の下に、いまにも落っこちそうである。この人物について、実はさまざまな説が、ゴヤ生前からあった。
それは、これがアルバ公爵夫人が飼っていたバカ、白痴だ、というのである。そうしてこの白痴は、マドリードの町を二六時中うろついて歩いて、いわば一種の人気者のようなことになっていた、という・・・。」

「そうして、白痴を飼っていた、道化として - ということに、どうしてそんな白痴などを、という疑問を出される方には、私としても、時が時なのです、時代はまだ一八世紀の末なのです、としか答えようがないのであるが、たとえば、ベラスケスの前記『宮廷官女図』などにも、矯人、傴僂(せむし)などが犬とともに宮廷の道化、にぎやかしとして描かれていたことを思い出して頂きたい。
アルバ公爵夫人は、このほかに黒人の幼女までを養っていた。男の白痴は、べニートという名であった。趣味がわるいなどといわれるのも、ちょっと待って頂きたいのである。時は一八世紀末なのである。
・・・、ゴヤがそれとわかるかたちでアルバ公爵家をめぐる何物かに、はじめてその絵筆を動かしたのが、まずこの白痴べニートが最初であったかもしれない。」

ゴヤ『葡萄摘み』(『秋』)(1786-87):これはいわばスペイン・ロココの代表的な作品であろう
「夏の次に来るのが『葡萄摘み』(『秋』)である。
これは、秋の黄金の夕陽のなかに、遠くの岩山の急な稜線を背景として、低い石垣の上に座した男女と、その中央に葡萄を一杯にいれた籠を頭に乗せた女が立ち、背中を見せた男の子が両手をさし上げて葡萄を求めている、という図柄である。
背景の葡萄畑には、二人の男が働いている。・・・
さてこの『葡萄摘み』であるが、これはいわばスペイン・ロココの代表的な作品であろう。すべては理想化、美化されている。リアリズムなどは糞くらえ、である。
男は美男子であり、きわめつきの美服をまとっている。白い襟つきのコート風な上着、その下に黄色に白レースのフリルつきの下着、キュロットには刺繍がつき、ひ三とするとどこかに宝石もが縫いつけてあるであろう。靴には銀のバックルがついていて、下に敷いた緋の縁どりのついた青いマントの色を映して白い靴下は青く染め上っている。
・・・
そうして左の、白い薄物を下に敷いて坐っている女性は、黒髪に、白いレースのショールを軽くまとい、黒味のかった服をつけている。
・・・
両手をさし上げている後向きの子供は、白いレース襟に、緑の服、腰には緋のサッシュを巻いている。
これはもう完壁の理想化であり、美化である。」

ゴヤとアルバ公爵夫人と妻のホセーファと息子のハビエール
「そうしてここで特に注目されなければならないのは、この四人の中心人物たちの、手の行衛である。
男がさし出している一房の葡萄に、中央の女の手、左の女の両手、子供の両手、この六本の手が集中しているのである。
左側の、黒髪の女性は誰か・・・?
ホアキーン・エスケーラという研究者、この人はとりわけて『アルバ公爵夫人とゴヤ』の関係の研究者なのであるが、この人によると、左の黒髪の女性は、実にほかならぬアルバ公爵夫人であり、真中に立った女性は、ゴヤの妻ホセーファであり、子供は『マドリードで一番美しい子』とゴヤ自身が断言をしたフランシスコ・ハビエールである。ハビエールはこの年、可愛いさかりの二歳である。
そうして、この葡萄畑のある場所は、マドリードの北、アビラ市に近いピエドライータにあった公爵家の別邸である、ということになる。」"

「もし本当にそうであるとしたら、アルバ公爵夫人と一房の葡萄の房を差し出しているゴヤとの中央に立った、ゴヤの妻ホセーファの左手と、子供のハビエールの両手をも勘定に入れても、この六本の手の交錯は、ゴヤにとっての、これこそは本当に最高の幸福の表現であろう・・・。」

本当にアルバ公爵夫人か?
「・・・果してこれが、半月形の眉をもち、比較的に質素な身なりをしたこの夫人がアルバ公爵夫人であるかどうか。
・・・
ゴヤがこの公爵夫人に、ライバルであるオスーナ公爵夫人のサロンで出会ったことがあるであろうという、ほぼ確実な推定については先に述べたが、それより先に、ゴヤをマドリードの貴族社会に紹介するにあたってとりわけて力のあった建築家のベントゥーラ・ロドリゲス氏が、この公爵夫人の母がつくったマドリードのすぐの郊外の小宮殿モンクロア邸の建築家であり、またサラゴーサの名家であり、若きゴヤの庇護者でもあったピニァテルリ家と公爵夫人は親戚関係にあった。このピニァテルリ一家のうち、フエンテス伯爵は、ゴヤ生地であるフエンデトードス村の領主でもあった。
それにゴヤはなんといっても宮廷に足を片足だけでも踏み入れた人気画家である。オスーナ公爵家のお気に入りの画家でもある。紹介者に事欠きはしない。」"
"半月形のしっかりした眉をもつ女性:『落馬』『プランコ遊び』『目隠し遊び』(1789年)
「・・・この半月形のしっかりした眉をもつ女性は、すでにいくつかのゴヤの絵に登場している・・・
まず第一に、オスーナ公爵家のアラメーダ別邸のために描いた七枚の油絵のなかの、『落馬』と題された一枚。この画中、右端の騾馬に乗って、馬が傷ついて落馬した女性をあわれんで両手を天にさし上げて嘆いている女性である。
それから『プランコ遊び』での主人公である。・・・」

「・・・日本で言うかごめかごめの『目隠し遊び』(一七八九年)となると、これは、余程疑ってかかる性質の人であっても、その右端の目隠しをされた男にシャモジで指さされてのけぞっている女性に、アルバ公爵夫人の面影を見ないわけには行かなくなる。」

自己顕示を必要としなくなったゴヤ43歳の羞恥心
「私はこの『目隠し遊び』について、南中の布で目隠しをされた男のことを、いままで、された、と受身で書いて来たのであったが、しかし、考えてみれば、これを描く画家ゴヤとしては、自分がこの男に目隠しをつけてやったことになる。
あまりに当り前のことなので呆れられる方があるかもしれないけれども、それをよくよく見ていると、そこに私は画家ゴヤに、一種の羞恥心というものの芽生えが見られるように思われるのである。」"
"「・・・一七八九年、四三歳に達した男は、ようやくそこまでの自己顕示を必要としなくなった、必要としない地位に立った、と解したとしてそう不自然ではないであろう。
しかも王家を除いては、スペイン第一の家柄であるアルバ公爵夫人と、誰の眼にもあらわに見てとられる女性を描いて、その人にシャモジを突きつけたのでは、これはあまりに露骨すぎるであろう。さらに、このカルトンがタピスリーに織り上げられて、それが飾られる壁面は、マドリード郊外のパルド宮殿の親王の寝室である。いくらなんでも、遠慮がなければならない。それにアルバ公爵夫人は、宮廷、特に皇太子妃のマリア・ルイーサのライバルとしてほとんど憎まれていた。
そういう事情もあった。」

芸術家自体の内面の問題:自己顕示とその逆の慾望:自己撞着のかたまり
「それからもう一つ、芸術家自体の内面の問題もある。
あらゆる芸術家に、多かれ少かれ自己顕示慾というものはつきものである。・・・」

「と同時に、あらゆる芸術家には、自己を隠したい、表現したもの、されたものが、それは自分ではない、それは客観的表現である、として、作品の蔭にかくれたい、それが自己であるという秘密を守りたいという、自己顕示慾の逆の慾望もがある。
芸術家とは、ある意味でこの自己撞着のかたまりである。
この二つの矛盾した慾望の力が、彼の推進力となる。・・・」

「そうしてひそかに描き込まれた自己を、絵画の場合ならば見てとる、作家の場合ならば読者が読みとってくれることを、画家も作家も期待し、かつ期待しない。誰もが見とっても、読みとってもくれなかったら、おそらく画家も作家も、それはおれだ、と大声で叫んで出て来るか、あるいはしおしおと、肩を落してアトリエへ戻って行くであろう。また、あまりに簡単に、それはあなた自身なのですね、と言われたりしたら、彼はおそらくむきになって、いやそうではない、と言うか、あるいは、複雑な表情で黙り込んでしまうであろう。」

時代はまだ一八世紀なのである。男が妻のほかに恋人をもち、妻は夫のほかに恋人をもつこと、それは王室からはじまって下庶民にいたるまで、当然自然なことであった
「芸術家にあっての、こういう在り様から考えて行ってみるとき、『葡萄摘み』(『秋』)の二人の女と一人の男、そうして子供の、この四人の群像は、美化、理想化という目隠しをかけたアルバ公爵夫人、ホセーファ、ゴヤ自身、息子のハピエールだとして考える人があったとしても、深くとがめるにもあたらぬであろう。そうとしておいても、誰にも害を加えることにはならない。
それに、時代はまだ一八世紀なのである。男が妻のほかに恋人をもち、妻は夫のほかに恋人をもつこと、それは王室からはじまって下庶民にいたるまで、当然自然なことであった。聖職者までが、そのほとんどが誰かに子を産ませていた。聖職者の私生児が法をごまかして教皇になった例さえある。また聖職者用の売春婦(?)として去勢された男が御用をつとめていたことさえもあった。
スペイン第一の家柄であり、二〇もの爵位をもったアルバ女公爵がただ目をかけてくれるだけでも、それはゴヤにとっても妻のホセーファにとっても名誉なことでなければならないというのが当時の常識であったのである。」

の後期のカルトンは、スペイン・ロココとしてはやはり最高のものである・・・
『葡萄摘み』と『日傘』の二作が、おそらくワットオ=ランクレを凌駕している
「この後期のカルトンは、スペイン・ロココとしてはやはり最高のものである。そうして主題は、如何なる意味でもスペインそのものから取られていた。
だから、あるイギリス人が、
「スタイルの点から言って、これらの作品はフランス人のものとはひどく異ったものである。その全部が(イベリア)半島のローカル・カラーを帯びたものである。われわれがワットオやランクレの作品で鑑賞することを覚えた、あの優雅で繊細な彩色法や奇麗好みの気移りのする姿態などはここにはない。ゴヤは大胆にも、ほとんど粗野とさえ言うべきやり方で、強い赤と黄色を並べたり、無残なほどのリアリズムで女性の頬に紅を塗りつけ、眉を真黒にしたりする。」
とこう批判するのも無理はないであろう。
ワットオは、三六歳でフランス・ロココの最盛期に、ほとんどロココ的な死を死んだものであったが、ゴヤはまだまだ、現在の年齢の倍近くも生きなければならぬ。そうしてこの英国人の批判は、主として初期のカルトンに向けてなされたものであるけれども、後期のより単純化され、洗練の度をも増しているものについても、ワットオやランクレとの対比において批判される限りでは、やはりあたっていると言わなければならない。『葡萄摘み』と『日傘』の二作が、おそらくワットオ=ランクレを凌駕しているものである。」

ゴヤは、一筋縄でとらまえられるような、表層的な人物ではなかった。その重層は、深くバスクの先祖、あるいはかつてのイスラム文化にまで届いていた。彼自身がそれを自覚しているかいないかは、この際別の問題である
「・・・これらのきわめてロココ=人工的=非リアリズムの作に対して、ある英国人批評家は、東洋的なもの、「描き方、配色ともに日本の版画、タクマロやホクサイをどうしても想起させるものである」と書いているのであるが、当の日本人である私自身は、如何なる意味でも歌麿も北斎も想起させられることがないのはどうしたものであろうか。さすれば歌麿や北斎は、日本のバロックでありロココであるのであろうか。
この批評家は、つづけて「一度ならず東方の雰囲気がゴヤの仕事を包み込むと思われる。彼のマンティーリアをまとった女性たちは、ペルシャの図案工たちの仕事を示唆している。民族学者ならばサラゴーサにおける遠いアラブ系の先祖の、眠れる影響を指摘するかもしれない」とも書いている。
そういうこともあるかもしれない……。」

「・・・彼は、このカルトンの仕事で、実に多くのことを学んだ筈である。図像学の勉強から、新聞を読んで『酔っ払った石工』を『傷ついた石工』という、厳粛な〝社会的〞かつ悲劇的なテーマに差し替える世間智までを学んだ。また王室からはじめて大貴族、大ブルジョアの人工的生活を観察して、そこからこれらの人々を喜ばすための、人工的技術とテーマを見出すことも学んだ。
彼は、一筋縄でとらまえられるような、表層的な人物ではなかった。その重層は、先のイギリスの批評家を信用するとすれば、深くバスクの先祖、あるいはかつてのイスラム文化にまで届いていた。彼自身がそれを自覚しているかいないかは、この際別の問題である。」
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