2015年2月24日火曜日

野口冨士男『わが荷風』を読む(11) 「6 堤上からの眺望」 (その1) : 「『つゆのあとさき』は、むしろ空前のカフエーやバアの最全盛期に執筆されたといわれるべきなのである。」

カワヅザクラ 2015-02-20 北の丸公園
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6 堤上からの眺望

『おかめ笹』(大正7年1月)から『つゆのあとさき』(昭和6年10月)の間
 「親がかりであった外遊前や外遊中は別として、明治四十一年に帰朝した荷風は柳橋に遊び、新橋の妓に狎れしたしんで、刺青をし合ったり、家へ入れるまでに至っている。そして、そういう遊蕩状況は大正五年ごろまで持続される。『新橋夜話』や『腕くらべ』がそうした体験のなかからうまれ、『夏すがた』から『おかめ笹』に至った文学的経路を私は前章で《麻布十番までの道》とよんで、彼の花柳小説をついに行き着くところまで行き着いたとみた。その先には『つゆのあとさき』、『ひかげの花』の世界しかなかったとのべたのであったが、もしここに代表作中心の荷風略年譜といったものを作製するとしたら、大正七年一月の『おかめ笹』から昭和六年十月の『つゆのあとさき』に至るまでの間にいかなる文学的業績をえらんでかかげるべきだろうか。」

 「ひとくちに大正七年から昭和六年までといっても、その期間は実に十四年間で、年齢的にいえば四十歳から五十三歳 - 中年から初老に至る、作家的には完成期に相当するもっとも貴重な歳月が空白ではないまでも、甚だしく充実を欠いている。四十歳にして過半の新進作家がようやく名を知られる現状に、この年齢をあてはめることはゆるされない。荷風は当時、すでに大家のひとりであった。昭和二年にみずからの生命を断った芥川龍之介がかぞえ年でも三十六歳であったといえば、思いなかばに過ぎるものがあるだろう。大正十年の『雨瀟瀟』にみられる陰々滅々たる心情がどこから生じているか、想像に難くない。」

(『雨瀟瀟』の一節)
 《されば本業の小説も近頃は廃絶の形にて本屋よりの催促断りやうも無之儘(これなきまゝ)一字金一円と大きく吹掛け居候ものゝ実は少々老先心細くこれではならぬと時には額に八の字よせながら机に向つて見る事も有之候へども一二枚書けば忽筆渋りて癇癪ばかり起り申候間まづまづ当分は養痾に事寄せ何も書かぬ覚悟にて唯折節若き頃読耽りたる書冊埒もなく読返して僅に無聊を慰め居候次第に御座候。》

いかにひどいスランプ状態であったか
 「当時の原稿料は、広津和郎の『年月のあしおと』によると、《大正六年に「中央公論」にはじめて書いた時は一円》であり、同八年に《今までの一円を二円》にされ、《大正十二年の震災前に五円になった。》とのことである。荷風は広津和郎より文壇的に先輩であったから、これより多額の稿料を獲ていたことは確実だが、それにしてもこういうデータに照合すれば、荷風が《一字金一円》つまり一枚四百円と《大きく吹掛け》たと記していることが、冗談にもせよ、いかにひどいスランプ状態にあったかをものがたっている。

 そういう状態のなかで書かれた『雪解』から『夜の車』に至る諸作は、・・・素材の上では花柳小説から去って一歩新境地へ足を踏み入れているのにもかかわらず、失敗作という意味ともまたすこしちがって、作品がしずんでいる。生色がみられない。」

今や実際、カフエの黄金時代である
 「・・・『腕くらべ』中にみられる《千人近い新橋芸者》とか、《新橋南北壱千八百有余名》という数字を昭和四年十二月に中央公論社から出版された『新版大東京案内』の記載にひきくらべてみると、新橋六四四人、新橋南地二一一人で合計八五五人だから約半数に減少している。しかも、同書には次のような記述もある。

 《なぜ花柳界が苦悶をする。それはいふまでもない、日を追ふて発展するカフエーとバーの圧迫、取分け激しかつた昭和四年の夏枯れに加へて、浜口内閣の高圧的な緊縮政策といふ風で、まるで花柳界は三方から詰め腹でも切らされさうな有様になった事である。新橋などでは六百四十四人の芸者が、一晩に三十八人しか動かなかったといふみじめな事さへ出来上った。同じ日に柳橋と葭町と新橋の三ヶ所を調べたら、三ヶ所合計千六百余人の芸者中で、動いてゐるのは僅かに百人であった。》」

 「それに対して、花柳界に《圧迫》をくわえたといわれるカフエーやパアのほうはどうであろうか。奇しくも『新版大東京案内』と同年同月に四六書院から出版されている酒井真人の『カフヱ通』をのぞいてみることにしよう。

 《今や実際、カフエの黄金時代である。この日に増す世間の不景気に反比例して、何んといふ驚くべきカフエの膨脹振りであらうか。
統計学のやうにして、試みに今この驚くべきカフエの膨脹振りを数字で現すならば、四年八月現在の調査による都下(東京)のカフエ、バーの数は、カフエ六千百八十七軒、パー千三百四十五軒である。(略)そしてしかも、私の知つてゐる限りに於てさへ、この数字の示された八月からこの方、それからそれへと新らしくカフエやバーが殖えて来てゐるのだ。》

『つゆのあとさき』は、空前のカフエーやバアの最全盛期に執筆されたといわれるべきなのである
 昭和五年九月から翌六年二月にかけて広津和郎が「婦人公論」に長篇小説『女給』を連載して大きな反響をよび、その主題歌まで大流行したのも、こうした社会風俗の反映にはかならない。『つゆのあとさき』は『女給』が完結したのと同年の十月に発表された作品だが、その時分には「女給の流行も既に盛を越したやうである。》とのべている荷風の言にもかかわらず、昭和四十二年六月に社会思想社から出版された『明治・大正・昭和 世相史』昭和九年の欄には「全国カフエー・バーの数は約三万、内、東京七千、女給数二万二千》とあり、誠文堂新光社から昭和十二年九月に出版された「日本地理風俗大系」中の『大東京」篇をみると、《相当の盛衰はあるがなほ大銀座街における無慮二〇〇のカフエーの中、女給一〇〇人以上を使用するもの六を数へるの盛況である。》と記録されている。『つゆのあとさき』は、むしろ空前のカフエーやバアの最全盛期に執筆されたといわれるべきなのである。

 が、それならば荷風はなぜ『正宗谷崎両氏の批評に答ふ』のなかで、《既に盛を越した》などとのべたのであろうか。まず大正四年二月に妻=ヤイと離婚したのちの彼は複雑な異性関係をもって転々と居を移しているので、宮城達郎編著『永井荷風の文学』巻末に収載されている竹盛天雄作製の『年譜』によって、その足跡をたどってみよう。

(*一部に改行を加えた)
大正四年五月、《京橋区築地一丁目に移宿し、清元梅吉のもとに出入し清元節に励んだ。》
同年十一月、《宗十郎町の妓家に隠れ住》む。
大正五年正月、《浅草旅籠町一丁目一三番地米田方に転居(先年の三月、新橋芸者米田みょを身受けしたのをここに囲っていた。)》
同年五月はじめ《旅籠町の住居を引き払って大久保余丁町本邸に帰り、玄関の六畳を断腸亭と命名し、そこに起居した。》
九月、《ふたたび浅草旅籠町に住んだが、一か月余り余丁町に帰った。》
十二月、《米田みよと縁を切り、神楽坂の妓中村ふさとの関係が始まった。》
大正六年九月、《木挽町九丁目に住み、家を無用庵と名づけた。》
《この年、中村ふさを女中がわりとして家に入れた。》
大正七年十二月、《余丁町の邸宅を売り、築地二丁目三〇番地に移居した。》
大正八年十二月、いったん四谷の芸者となっていた《中村ふさを家に入れ妾とした。》
大正九年五月、《麻布市兵衛町一丁目六番地に偏奇館を完成しこれに移居した。》

 そして、大正十五年夏以降、独身生活の欠をみたすために銀座尾張町のカフエー・タイガーで夕食をとることが多くなって、関心を女給にかたむけはじめている。ひとたび何らかの対象に没入すると、荷風の執拗さには驚くべきものがあることについては、これからおいおいのべていくこととするが、『つゆのあとさき』執筆当時の彼は、すでに興味の対象を別種のところに移している。したがって、《既に盛を越した》のはカフエーそのものではなくて、彼のカフエーに対する関心が《盛を越し》ていたのである。」

 「私の見落しでなければ、『雪解』(*大正11年)あたりが女給を取り上げた荷風の最初の作品であろう。浅草瓦町の玩具雑貨輸出問屋の主人であった田島兼太郎は、株式の大崩落で家倉をなくしたすえに築地本願寺横手の路地奥で二階借りをしながら、もと瓦町の店の使用人であった男の店で、いまは《電話と家屋の売買を周旋する所謂千三(せんみつ)屋の手先》にまでおちぶれた身となって、偶然銭湯で実の娘のお照と避逓する。そして、そのお照が女給になっていて、人形町のカフエーから日比谷のカフエーに鞍がえする時機が背景となっている。
この『雪解』は北原武夫も高く評価していたひとりで、彼の指摘した観点からいえば秀作のひとつだが、いったん銭湯でわかれたのち夜になってからたずねてきたお照が鋼壷(どうこ)の中から取り出した二合壜で酌をする手つきから、娘が水商売に入っていることを兼太郎がさとる・・・。つまり、『雪解』は作品に女給が登場するというだけのものであって、芸者にかわる新時代の職業女性がえがかれているというような作品とはいえない。」

『つゆのあとさき』の先駆的作品は、『かし間の女』、『夢』、『あぢさゐ』、『夜の車』
 「・・・『おかめ笹』から『つゆのあとさき』に至る十四年間に発表された諸作のうちで『つゆのあとさき』に直接かかわりのある作品 - 『つゆのあとさき』の先駆的作品ということになれば、『かし間の女』、『夢』のほかに『あぢさゐ』と『夜の車』を挙げるべきだろう。・・・」

『おかめ笹』が花柳小説としての終着駅となったゆえん
(ここで花柳小説の最後たる『おかめ笹』前後の話に戻る)
「・・・いわゆる芸者遊びは、およそ三種に大別できるかと思う。客が単数か、もしくは複数の芸者をよんで浅酌をかたむけながら絃歌をたのしんでさっと引き揚げる平(ひら)の座敷と、宴席ならびに枕席である。・・・」

 「・・・荷風の花柳小説では新橋を取り上げている『腕くらべ』においてもほぼ枕席に終始していて、里見弴の表ないし明に対して、裏または暗の面が展開される。すなわち、荷風作中の芸者は歌舞音曲等の遊芸を表看板とする職業女性ではなく、公娼や私娼とさしてえらぶところのない春婦であって、・・・。神楽坂をえがく『夏すがた』や、富士見町や白山をえがく『おかめ笹』に至って、その偏向はいよいよ顕著となる。内実はどうあれ、芸者は一応建前として芸と粋(いき)とが売りものである以上、《箱無しの枕芸者》(『あぢさゐ』)ばかりになっては、花柳小説の花柳小説たる特徴がうしなわれる。特徴をみずから放棄しては、ゆきづまらざるを得ない。『おかめ笹』が、花柳小説としての終着駅となったゆえんである」
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