2015年2月21日土曜日

1787年(天明7年)3月1日~4月4日 モーツアルトの父への最後の手紙 「死は(・・・)、ぼくたちの生の真の最終目的でありますから、ぼくは、この人間の真実で最良の友と、数年来、非常に親しくなっています。そのため、その姿は、ぼくにとって、ただ単に恐ろしいものでないばかりか、まったく心を安らかにし、慰めてくれるものなのです! そしてぼくは、神がぼくに、死をぼくたちの真の至福の鍵として知らしめ給う機会(・・・)をもつ幸せを与えて下さったことに感謝しています。」 【モーツアルト31歳】

カワヅザクラ 2015-02-20 北の丸公園
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1787年(天明7年)
3月
・モーツアルト父レオポルト、病気になる。
モーツアルト、ダ・ポンテから「ドン・ジョヴァンニ」(K.527)の台本の一部を受け取る。5月中旬には台本を全部書き終わる。

モーツアルトはプラハから新しいオペラの作曲を依頼され、『フィガロ』の作者ダ・ポンテに歌劇創作への協力を依頼していた。

ダ・ポンテ『回想録』によれば・・・
ダ・ボンテは皇帝ヨーゼフ2世から、モーツァルト、サリエーリ、マルティーン・イ・ソレールのために台本を書くよう勧められ、3つの台本を同時に書くはめになった。
「この三人の作曲家は同時に台本を求めにやってきて、その機会〔オペラとしての前二作の失敗を回復すること〕を私に提供してくれた。私は彼ら三人が同じように好きだったし、高くも買っていた。彼らの助力で自分の失敗から立ち直ろうと思っていた。三つの芝居を同時に作ることで彼らを満足させるしか手だてがないのがなんとなく分かっていた。私は二つ台本を書くのに成功したばかりだったから、この企ては私の力を超えるものとは思えなかった。サリエーリが私に求めていたのはオリジナルな作品ではなかったのだ。彼はパリで『タラール』のオペラの曲を書いていたので、この曲をイタリア語の歌詞に合わせるのを望んでいたのである。だから彼が必要としていたのは自由な翻案だったのである。モーツアルトとマルティーンについては、彼らは題材の選択を私にまかせてくれた。私は『ドン・ジョヴァンニ』を前者に予定したが、彼はこれにすっかり心を奪われてしまった。(中略)三つの題材が決まったので、皇帝にお目通りし、三つ一緒にやってみるつもりだと申し上げた。彼は叫んだ。『失敗するぞ』『あるいはそうかもしれません! でもやってみます。私はモーツァルトのためにダンテの『地獄篇』を何ページか読んで書いてみましょう。そうすれば私のインスピレーションが調子づくでしょうから。』私は夜の十二時頃、仕事机に向かって坐った。上等なトカイの葡萄酒が一壜右手にあり、左手には文具箱が、真正面にはセビリアの煙草がいっぱいの煙草入れがあった。」

ダ・ボンテの住んでいる家には16歳の綺麗な娘が住んでいて、彼はその娘を父親のように愛していた。彼女は彼の用事をなにくれとなしに果たしてくれていた。その娘の母親が共にダ・ボンテの仕事に協力している。

「こうして、トカイの葡萄酒とセビリアの煙草、机の上の呼び鈴と一番若いミューズともみまごう綺麗なドイツ娘に取りかこまれて、私は最初の晩モーツァルトのために『ドン・ジョヴァンニ』の最初の二つの場面と、『ディアーナの樹』(マルティーン・イ・ソレールのための台本)の二幕、それに『タラール』の第一幕の半分以上を書いたのであった。(中略)朝になって、私はこの仕事を三人の作曲家たちのところに持っていったが、彼らは信じられないといった様子だった。二ヵ月のうちに、『ドン・ジョブァンニ』と『ディアーナの樹』は仕上がり、『アクスール』〔『タラール』の改題〕のオペラは三分の一以上作曲が終っていた。」

・この年の春のモーツアルトの作品には短調が多い。
『クラヴィーアのためのロンド イ短調』(K511)、『弦楽五重奏曲 ト短調』(K516)。『セレナード ハ短調』(K388=K6・384a)を弦楽五重奏用に編曲した作品(K406=K6・516b)もこの頃か翌1788年の作品と思われる。
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・イギリス、アーサー・ウェルズリー、長兄リチャードの計らいで第73歩兵連隊に入隊。12月、コネで中尉昇進 。
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3月4日
・頃、モーツアルト、K.509a (232) カノン「親愛なるフライシュテットラー君」(ト長調)作曲。ガウリマウリとは弟子フライシュテットラーにつけたあだ名、ウィーン方言で「馬の顔」の意味。
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3月7日
・ウィーン、ケルントナートール劇場でのヴァルブルガ・ヴィルマン兄妹の音楽会。モーツァルトはこの女弟子のため「クラヴィーア協奏曲 ハ長調(K503)を提供。
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3月11日
・モーツアルト、クラヴィーアのためのロンド イ短調(K.511)を作曲。ホフマイスター社から出版。明るく軽やかというロンドの性格に反してアンダンテの主題が何かの嘆きを代弁しているかのよう。 作曲の動機は不明(父の死を予感しているのか。親友ハッツフェルト伯爵の死(1月30日31歳)を悼んでいるのか)。
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3月11日
・イギリス、のちのネルソン提督、フランシス・ニズベットと結婚。媒酌人ウイリアム・ヘンリー王子(後のウイリアム4世)。継子ジョサイアは後に海軍入りし、ネルソンの部下となる。
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3月14日
・ウィーン、ケルントナートール劇場でオーボエ奏者フリードリヒ・ラムの演奏会。モーツァルトの交響曲1曲が披露され、かつアロイージア・ランゲによって演奏会用アリアが歌われている。
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3月16日
・ドイツ、科学者オーム、誕生。
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3月16日
・この日付けレオポルトのナンネルル宛て手紙
「お前の弟のことでは、あれがもうウィーンに帰ったことを聞いた。(中略)それにあれがプラハで千フロリーン(とあの人たちは言っていた)の収入を得たこと、またあれの新しい子供レーオポルドゥルが死んだことも聞いたよ。それに、もう書いたように、あれが英国に旅行したがっていることもね。ただ、あれのお弟子〔アットウッド〕が前もってロンドンでなにか確実なことを、つまりオペラを一曲書く契約とか、予約演奏会とか、そういったものを取り決める必要があることもね。同じことはストレース夫人もあれに吹き込んだらしい。しかもみんなも、またあの人たちも、あのお弟子も初めは彼らといっしょに英国に行く考えをあれに起こさせたようだ。でも、私が父親の立場で、夏の旅行ではなんにも得るものがないこと、あまり適当でない時期に英国に着いてしまうこと、それに、この旅行を企てるには少なくとも二千フロリーンは財布に入れておかなければいけないこと、それにとどのつまり、ロンドンで契約といった確実なものを前もってもっていなければ、できるだけうまくやらなきゃいけないし、最初は少なくともしっかりと窮乏に耐えなくちゃいけないことをあれに書いたので、 - あれはそうする勇気をなくしたのだろう。」

このあとナンネルル宛の手紙は5月10日付まで欠けている。この間、レオポルトが病気になり、ナンネルルが看病のため、ザルツブルクにやってきていた。
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3月21日
・イグナーツ・ルートヴィッヒ・フィッシャー(「後宮からの誘拐」(K.384)の初演歌手)の音楽会。モーツアルト、レチタティーヴォとアリア<アウカンドロよ、私は告白しよう/どこから来たのか、私は知らない> (K512)。
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3月23日
・モーツアルト、フォン・ジャカンのために、アリア「お前と別れる今、おお娘よ」(K.513)作曲。
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3月25日
・頃、ベートーヴェン(17)、初めてのウィーン旅行
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4月
・春、選挙により、アムステルダムとロッテルダムで、愛国派が市議会多数派となる。総督は愛国派と戦う為の援助をプロイセンとイギリスに求める。プロイセンはブラウンシュヴァイク公麾下の小部隊を送る。イギリスは艦隊を送って、オランダ沿岸を游弋させる。
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4月3日
・イギリス下院、初代ベンガル総督ウォーレン・へースティングス(55)に対する弾劾裁判実施決定。
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4月4日
・モーツアルトよりザルツブルクで病床にある父へ最後の手紙。

「今、ぼくをたいへん悲しませる知らせを聞きました。 - この前の手紙で、あなたがとても元気でいらっしゃるのを想像できていましただけに、いっそう悲しいことです。 - ほんとにご病気でいらっしゃるのですね! あなたご自身から安心できるお知らせをどれほど待ち望んでいるかは申し上げるまでもありません。ぼくは、あらゆることの最悪の状態を考える習慣をもつようになってしまいましたが、それでも安心できるお手紙を望んでおります。 - 死は(正しく考えますれば)、ぼくたちの生の真の最終目的でありますから、ぼくは、この人間の真実で最良の友と、数年来、非常に親しくなっています。そのため、その姿は、ぼくにとって、ただ単に恐ろしいものでないばかりか、まったく心を安らかにし、慰めてくれるものなのです! そしてぼくは、神がぼくに、死をぼくたちの真の至福の鍵として知らしめ給う機会(お分かりのことと思います)をもつ幸せを与えて下さったことに感謝しています。- ぼくは、毎晩、ベッドに就く時、もしかすると、ぼくは(まだとても若いのですが)、明日にはもう生きてはいないのではないかと考えるのです。 - それでも、知人の誰もが、ぼくと交際する時、無愛想だったり、悲しげだったりすると言えるものは、一人もいないでしょう。 - この幸福を、ぼくは毎日、創造主に感謝し、そして心からぼくの隣人たちのいずれにもそれを祈っているのです。- ぼくは手紙(ストレースが荷物に入れたものです)で、この点についてはもう(ぼくの親友のフォン・ハッッフェルト伯爵の悲しい死去に際して)、自分の考え方をあなたにご説明いたしました。彼はぼくと同じでやっと三十一歳になったところでした。 - ぼくは、彼を可哀そうと思っているのでほありません - でも、自分と、それに彼をぼく同様とてもよく識っていた人たちみんながほんとに心から哀れなのです。 - ぼくがこの手紙を書いているあいだにも、あなたが快方に向かわれるようにぼくは望み、願っています。でも万事推察するところあなたは決してよくはなっておられないことでしょうから、あなたがそれをお隠しにはならず、ぼくにほんとの真実をお書き下さるかそれとも書かせて下さるかなきって下ざい。そうすればぼくはできるだけ早くあなたの腕に抱かれることができましょう。ぼくは ー ぼくたちにとって神聖なるものすべてにかけて、あなたにお誓いいたします。 - でも、ぼくはすぐにもあなたから慰めになるお手紙がいただけるよう望んでいますし、このこころよい希望のうちに、妻とカールともどもあなたの御手に千回キスいたします。敬具。
                                 あなたの従順な息子W・A・モーツァルト。
                                 ウィーンにて、一七八七年四月四日。」

ウィーンでモーツァルトの友となったアウグスト・クレメンス・ルートヴィヒ・マリーア・フォン・ハッッフェルト伯爵は、1月30日、デュッセルドルフで死去し、モーツァルトは自分の悲しい思いを父親宛てに手紙を認め、英国に帰る音楽家一家に託していた。

親友の死に触発されたモーツアルトの死をめぐる想念は、迫ってくる父親の死を捉えていた。
彼のその死の想念は、モーツァルトの死後、彼の蔵書の中に見出された18世紀の著名な哲学者モーゼス・メンデルスゾーンの主著『パイドーンまたは魂の不死性について』(1767年)の主導動機と強いつながりをみせている。

その近代的<ソクラテス対話篇>の中で、メンデルスゾーンは、シミアスを相手にソクラテスに語らせる。
「肉体が魂から離れるのを、人は死と名づけている。」
「そのとおりです。」
「英知を真に愛するものは、したがって、考え及びうるあらゆる努力を傾けて、できるかぎり、みずからを死に近づけ、死ぬことを学ぶべきではないか。」
「そのように思われます。」
(中略)
「したがって、シミアスよ、真の哲人にとっては、死は決して恐ろしいものではなく、いつでもよろこんで迎えるべきものなのだ。 - 肉体とともにあることは、彼らにとって、どんな場合でも、煩わしいものなのだ。というのは、彼らが自分たちの存在の其の最終目的を満たそうとするなら、彼らは魂を肉体から分かつことを求め、そしていわば自己自身のうちに魂を集めねばならぬ。死は、かかる離脱であり、肉体の協同からの長い間望まれた解放なのだ。だから、死が近づいてくることに怯え、それを嘆き悲しむことはなんと不合理なことだろう! むしろ、心を安らげ、嬉々として、われわれは、自分たちが愛する者を抱擁することのできる希望があるところへと旅をしなければならぬのだ。」
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