カンザクラ 2015-02-03 江戸城(皇居)東御苑
*永長2年(1097)
この年
■伊勢平氏躍進の功労者:平正盛
・平正盛(清盛の祖父)、六条院御堂(白河上皇第1皇女で、前年、天折した郁芳門院媞子(いくほうもんいんていし)の邸宅を、仏堂に改め菩提寺としたもの)へ所領(伊賀国山田・輌田村、柘植郷の所領の田畑・邸20町余)を寄進。
正盛は、伊勢平氏一族の中心的な存在ではなかったが、この寄進により白河院の知己を得て、その後の一族の飛躍を実現した功労者となる。
この頃、正盛は白河院近臣藤原為房の郎等(隠岐守)となっており、所領寄進も為房の仲介によるもの。
身分の低い正盛が、直接院に所領寄進を申し出ることはできない。
藤原顕季(あきすえ)や藤原為房らの院近臣、院が寵愛する祇園女御が、正盛の所領寄進を利用し、輌田村から柘植郷におよぶ六十町以上の輌田荘を立てることに繋げる。
正盛もまた、彼らと結んで勢力を伸張させる。
こうして、正盛は院北面に取り立てられ、翌年、若狭守に補任される。
次に、正盛は白河院の御願寺の尊勝寺曼陀羅堂を造進、その功により若狭守を重任。
任期終了後、因幡守に補任。
遥任(現地に目代を派遣)の国守として自身は京に留まり、北面の武士として白河院の身辺警護を務めながら院の信頼を獲得していく。
この頃、隆盛を極めていた武門は、前九年・後三年の役で名を馳せた八幡太郎義家の一門で、彼らは代々摂関家に奉仕し軍事面から藤原氏の台頭を支援。
白河院にとっては院政をより強固なものにするためにも、源氏に代わる独自の武力を掌握する必要がある。
武勇の面でも、配流地の隠岐から出雲に渡り目代(もくだい、国守の代官)を襲撃した源義親(八幡太郎義家の嫡男)を追討して、名をあげた。また海賊追捕や寺院大衆(だいしゅ、いわゆる僧兵)の強訴阻止に手腕を発揮した。
一方、富裕な受領として院が進める造寺造塔事業を財力の面で支え、院の近習としての地歩を築いてゆく。
■御願寺領荘園の形成という側面
白河法皇は、自身にとって特別な女性の菩提を弔う仏事の経費などを調達するため、白河院や生前の彼女たちと関係の深い中・下級の貴族や女房たちが連携して立荘を進め、国司の協力をえて、数百町から千町におよぶ広大な領域型荘園が立ててゆく。
上記の六条院御堂はその好例。
このように、白河院政開始後、御願寺領の荘園が、院近臣をはじめとする院の周囲の人々の力で形成されてゆく。
白河院政は荘園整理令によって、荘園の抑制を行っていたとはいえなく、王家領荘園の形成が始められていた。
鳥羽院政期にはその動きはいっそう顕著なものとなる。
■院近臣:顕季-長実(ながざね)-家成(いえなり)
院近臣の中でも、鳥羽院政期の王家領荘園形成に、大きな役割をはたしたのが、末茂(すえしげ)流の藤原家成。
家成は顕季の孫にあたり、受領を歴任してきた院近臣の家、すなわち受領層といわれる家柄の出身。
顕季が白河院近臣になった契機は、院の乳母子(乳母の実子)であったことによる。そして、受領として王家の経済を支え、さらに御願寺領荘園の形成にも大きく関与した。
顕季の嫡男長実も白河・鳥羽両院の近臣だったが、娘の得子(とくし)が鳥羽院の寵愛をうけて、五位クラスの諸大夫層の家柄出身としては異例の皇后になり、近衛天皇やその姉の暲子(しようし、のちの八条院)を生んだことは大きかった。
この得子が美福門院である。
顕季の二男家保(いえやす)も両院の近臣で、三条烏丸の院御所、鳥羽の証金剛院などを造営していたが、その子家成は「天下の事を挙げて一向家成に帰す」(『長秋記』)といわれるほどで、鳥羽院第一の寵臣となった。
そこでは、家成が、鳥羽院の愛する美福門院の一族であるということが、非常に大きかった。
家成は、白河の宝荘厳院(ほうしようごんいん)や仏頂堂、鳥羽の安楽寿院、勝光明院、金剛心院などの院の御願寺を、つぎつぎと造営した。
これらの寺院では、修正会、修二会、孟蘭盆会、御念仏といった定期的な法会、その他のさまざまな儀式が行われたが、それらの財源として、新たな荘園が必要となった。
また、願主の院や女院が亡くなると、その菩提を弔うための国家的な仏事も挙行されたから、その費用を調達するための荘園も立てられていった。
家成は、こうした御願寺の造営を請け負って、その荘園が新たに必要となると、自分のもつ知行国での立荘を繰り返した。
その際、利用したのは、自分が親しい貴族の所領であり、その所領の寄進を募った。
所領がみつかれば、知行国主としての権限を最大限に利用して、立荘を推し進めた。
例えば、越後国では、金剛心院領小泉荘などの中世荘園を数多く新立させ、免田などを寄進した親しい貴族たちがその預所職(あずかりどころしき)に補任されている。
美濃国でも、下級貴族の中原俊重が寄進した所領をもとに、真桑(まくわ)荘を立てている。
のちに王家領の一大荘園群を形成することになる八条院領は、鳥羽院の皇女八条院に伝領されたもの。その中核は、鳥羽殿に造営された安楽寿院付属の荘園であったが、その安楽寿院領として保延3年以来、15年間で10ヶ所以上の荘園が立てられ、最終的には60ヶ所を越える荘園と末寺社が集積された。家成はそれらに深く関わった。
■伊勢平氏のこと、その成立
桓武天皇治世の8世紀末、天皇皇子・皇女(一二世皇親)に対し、姓を与えて臣籍に降下させる政策がとられ、以後皇族に対する賜姓が頻繁になる。
この時、降下の皇族に下賜された姓の一つが平姓で、平姓は桓武天皇の皇子葛原親王の皇子(桓武二世王)に与えられたのが最初。
源が歴代天皇皇子に下賜される姓であるのに対し、平姓は二世王以下のそれだった。その後、光孝・仁明・文徳の各天皇の子孫にも平姓が与えられた。
桓武天皇の皇子で平姓を与えられた系統は全部で三つあり、清盛が出た葛原親王のそれがもっとも繁栄した。
葛原親王の系統は、
①(高棟流)親王の長男高棟と
②(高望流)弟高見王の子高望を祖とする二流に大別され、
高棟流はそのまま宮廷貴族として展開してゆく。
高望流は、高望王が寛平(かんぴょう)元(889)年平姓を賜って、上総介に任じられたことより始まる。
高望の子孫は下総・常陸・武蔵など関東の各地に分かれて土着し、その子孫から坂東平氏の各流が生じた。清盛や源頼朝の時代に御家人として名を馳せる千葉・上総・三浦・中村・秩父・大庭・梶原といった家々はその末裔。
10世紀に反乱を起こし、一時関東を支配した平将門は高望の孫で、反乱も一族の内部争いに端を発するものだった。将門の従兄弟の貞盛は乱鎮圧に功があり、乱後その子維衡(これひら)ら(もしくは貞盛自身)が伊勢方面に進出した。
長徳4(998)年、維衛は伊勢で同族の平致頬(むねより)と武力紛争を起こす。
当時の貴族の日記には彼らについて「年来の間、伊勢神郡(しんぐん、伊勢神宮が支配する郡)に任す」と記している(『権記ごんき』12月14日条)。当時平氏の勢力圏は、鈴鹿郡以北の北伊勢を中心に、一部は尾張に及んでいた。この維衛が、伊勢平氏の祖とされる人物である。
彼らは下級の貴族でもあり、伊勢の現地にへばりついていたわけではない。京都に活動の足場を持って現地との間を往来する存在だった。
維衛は地方の長官である国守(くにのかみとも、受領)を歴任し、藤原道長など複数の上流貴族に武力や財力で奉仕していた。
こういう面は清和天皇(陽成天皇とも)から出た源氏で、維衛の同時代人である頼光、その弟で頼朝の遠祖頼信(よりのぶ)なども同様である(軍事貴族)。
維衡流は長元年間(1028~37)にも致頼流と闘乱を起こし、やがて後者を伊勢から駆逐し、伊賀方面にも進出。
■院政と平氏の躍進
伊勢平氏は11世紀中葉以降、下級貴族と侍身分の境目あたりで低迷を続けていた。
侍という身分は平安中期以降史料に見え、「じっとそばで見守り待機する」という意味の「侍ふ」という動詞が名詞化したもの。官位高く権勢のある家に仕え、位で六位、官職でいえば中央官庁の判官(じょう、次官の下の三等官。じようの訓は八省の判官の丞によるもの)クラスをまとめてそう呼ぶ。五位以上になれば貴族だから、貴族と百姓(一般庶民)の間に位置する社会的中間層を指す言葉である。
侍は武士と文士からなり、武士は武をもって顕貴な家に奉仕し、文士は文をもって奉仕する。
当時はまだ侍イコール武士ではない。
そうしたさえない存在の伊勢平氏が、飛躍を開始したのは院政期に入ってから。
退位した天皇(太上(だじょう)天皇。上皇はその略称)が政務に関与し、その実際を動かすような政治のあり方を院政という。
当時、天皇は幼くして即位し、しかも在位期間が短いので、複数の上皇がいる場合がある。その時、院政の主体になれるのは治天(ちてん)、つまり王家(天皇家)の家長である上皇だけで、現天皇は必ず彼の子・孫といった直系卑属だった。
上皇が出家すると法皇と呼ばれる。応徳3(1086)年の白河退位以降の、白河・鳥羽・後白河の三院政、約100年間が院政のもっとも盛んな時代。
院とはもともと上皇や法皇の御殿、その住まいを意味した。そこから転じて上皇・法皇を指す語にもなる。
上皇の側近として権勢をふるった廷臣が院の近臣(近習)。
実務官人や受領を歴任する中下級貴族の出身で、上皇・天皇の夫人や乳母を近親から出すことによって、上皇と結びついた者が多い。
上皇の院中の庶務を処理する機関が院庁、その職員が院司である。
院司は朝廷の官人が兼任し人数も決まっていないが、最上席者を別当といい、以下判官代(はんがんだい)・主典代(さかんだい)などが幹部である。名前だけの別当もいたので、実務は数ある別当のなかの執事・年預(ねんよ)(執事の輔佐)が中心となってこなした。
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