2015年2月1日日曜日

嘉保3年/永長元年(1096)6月~12月 民衆十字軍壊滅 正規十字軍(第1~4陣、5万)進発 白河上皇第1皇女郁芳門院(22)没 白河出家 大地震により改元

横浜市戸塚区 2015-02-01
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嘉保3年/永長元年(1096)
6月
・前半、ラインガウ伯エーミコ軍はケルンを発つが、メルン子爵ギョームの一隊はユダヤ人捜索を目的にケルンを発ち、この日トリーア到着。ユダヤ人はトリーア司教エギルベルトに保護を求め、司教はユダヤ人を匿うが、十字軍の攻撃を防ぎきれず、ユダヤ人に改宗を迫る。ユダヤ人達は改宗を受諾して虐殺を免れる。
次にメッツに向かい、ユダヤ人22名を虐殺。6月中旬頃ケルンに戻る。
24日~27日、ギョームはケルン大司教ヘルマン3世がユダヤ人を匿った7村を襲撃、襲撃が終わると部隊を解散。

エーミコ本隊はハンガリーのヴィーゼルベルクに到着するが、エーミコ達の乱行を知るハンガリー王は市門を堅く閉ざすよう命令し、入市を拒絶。エーミコは市を6週間包囲後、市壁を破って乱入、放火。市民は体勢を立て直しエーミコ軍を破り、多数を殺害して追撃。エーミコ自身は逃げ延びるが、エーミコ十字軍は全滅。
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7月
・トルコのスルタン、クルジュ・アルスラン、フランクの群衆がコンスタンチノープルを目指していることを知る。トルコ首都ニケーアはコンスタンチノープルより徒歩3日、ムスリム教会よりビザンツ教会の方が多く、住民の大半はギリシャ人。
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7月2日
・隠者ピエールの民衆十字軍、ブルガリアを略奪しながら前進、この日ニサに到着。
ブルガリア総督ニケタスはニサ防衛部隊を集結、十字軍はニサ近郊に宿営地を築く。この時、ニサから数マイルの十字軍相手の市場でドイツ人巡礼者がニサ市民と乱闘騒ぎを起す。事件を聞きつけたビザンチン帝国軍は十字軍宿営地を攻撃、巡礼者多数を捕虜とする。
隠者ピエールと総督ニケタスとの捕虜返還交渉は決裂、一部十字軍士がニサ市を強襲するが攻撃は失敗。
十字軍はやむなく前進再開、ビザンチン帝国軍から再び攻撃を受け、多数の人員を失う。
隠者ピエールは散り散りになった巡礼者を再集結して旅を続け、12日ソフィア到着、ここでコンスタンティノープルからの皇帝特使と会い、帝国通過許可を受け、フィリッピポリス~アドリアンノープルを抜け、8月1日コンスタンティノープル到着。
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7月8日
・~12日、ニーム公会議。クレルモン公会議を補足。「聖職録」を俗人から受ければ、それだけで「聖職」を失う、等々。
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8月
・隠者ピエールの民衆十字軍、コンスタンチノープル到着。ゴーティエ隊やイタリアからアドリア海経由で到来した巡礼者達と合流し、コンスタンティノープル近郊(ビザンツ帝国のシヴィトートの陣営)に宿営。
ビザンツ皇帝アレクシオス1世は隠者ピエールに正規十字軍の到着を待つよう勧めるが、巡礼者達が周辺の農場・村・教会などを略奪し始めた為、6日、巡礼者達をコンスタンティノープル対岸へ渡す。
小アジアに渡った巡礼者達は略奪しながらニコメディア着。ここで、巡礼者のドイツ人・イタリア人グループはフランス人グループと対立し、イタリアの騎士リナルドをリーダーに選ぶ。共に旅を続け、港町キボートゥス着、ここを本拠に周辺地域を略奪、時にトルコ人支配地域にも侵入。今や隠者ピエールの指示を聞く者はなく、フランス人達も自分達のリーダーにジェフリーを選ぶ。
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8月7日
・白河院第1皇女の郁芳門院(22)、没。
郁芳門院は賢子が生んだ娘で、その面影を残し、「太上皇最愛之女(むすめ)」といわれた。
その哀しみは筆舌につくしがたいもので、9日、白河上皇(44歳)は出家して法皇となる。
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8月15日
・第1次十字軍出発
教皇ウルバヌス2世の呼びかけ、ノルマンディー公ロベール(2世)、下ロレーヌ公ゴドフロア・ドゥ・ブイヨン、ブローニュ公ボードワンらの率いる第1次十字軍(約5万)が出発。

4大海洋国家の動向:
①ピサ:大司教が120隻の艦隊を指揮してエルサレム攻略に参加、ヤッファに居留地獲得。
②ジェノヴァ:ノルマン人ボエモンを支援、アンティオキアに居留地を獲得。
③ヴェネツィア:十字軍に参加して得られる「利益」が「東ローマより受けている特権」に比べ少ないため当初不参加。
④アマルフィ:1073年ノルマン人に征服され国として十字軍に参加できず。

□十字軍の性格
宗教戦争。征服の戦い。東西の長い確執の中の一局面。
商業・拓殖の運動(イタリア諸都市の在外商館、西方からの着実な移住、封建領主や神殿騎士修道会、イスラム住民との平和的な関係、東洋風生活様式の漸進的な採用、キリスト教居留民の寛容な考え)。

・十字軍兵士、ユダヤ人を襲撃。ノルマン隊(ルーアン)。司祭フォルクマール麾下混成部隊(プラハ)。ライニンゲン伯エミーチョ(シュパイエル、ウォルムス、マインツ)。フランドル隊( ケルン)。
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中旬
・第1陣。フィリップ1世弟ヴェルマンドワ伯ユーグ。パリ出発→ローマ→バーリ・ドゥラッツォ経由 ギリシア道→12月コンスタンティノープル。

・第2陣。バス(下) ロレーヌ候ブイヨンのゴドフロワ(初代エルサレム王、1100年7月没)と弟ブローニュ伯ボードワン1世(エデッサ伯領建国、ゴドフロワ没後第2代エルサレム王)。フランス出発→ハンガリ経由→12月23日コンスタンティノープル。
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月末
・第3陣。ターラント候ボエモン(ボヘモンド、ロベール・ギスカール息子、アンティオキア公国建国)。ギリシア道→1097年4月10日コンスタンティノープル。
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9月
・教皇ウルバヌス2世、ボローニャ市民に「妻の同意なしに十字軍の誓いを立ててはいけない」と発言。シャルトルのイヴォーも同意見。

1200年9~10月の勅書。教皇インノケンティウス3世、妻の同意がなくても十字軍への参加が可能。1201年9月、同様教令を発布(教皇インノケンティウス3世は当時少数派)。
1271年トマス・アクイナス、妻が同意しない場合は十字軍に参加できない。
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中旬
・民衆十字軍のジェフリー率いるフランス人、トルコ人勢力の指導者クルジュ・アルスラン居城のニカエア近郊を荒らし回る。トルコ側も軍を繰り出し、ジェフリーは直ぐに後退。数日後、リナルド率いる歩兵3千・騎士200を含むドイツ・イタリア人6千がはニカエアを通り抜け、背後のクセリゴルドン城を占領。
26日トルコ軍がクセリゴルドンに到来、リナルド隊は迎撃するが破られ、生き残りは城へ退去。しかし、リナルド隊は乾きに苦しみ、包囲8日目(10月初)に降伏、一部は殺され、他の者は東方へ売り払われる。
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9月25日
・興福寺が焼失。
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10月
・第4陣。フランドル伯ロベール1世・ロベール2世父子、ノルマンディ候ロベール・クールドゥーズ(クルトゥーズ、ウィリアム征服王長男)、ブロワ伯エチエンヌ(エティエンヌ・ド・ブロワ、イングランド王スティーヴン父)。北フランス出発→イタリア・ギリシア経由→1097年5月14日コンスタンティノープル。
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10月20日
・地震あり。
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10月21日
・民衆十字軍、小アジアでトルコ(スルタン、クルジュ・アルスラン)の待ち伏せ攻撃により全滅。2~3千はビザンツ海軍に救出。皆殺し2万。ピエール・レルミット、生き残り帰国後リエージュ近郊修道院長に就任。
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10月21日
・民衆十字軍の崩壊。
リナルド隊の顛末を聞いた隠者ピエールは皇帝の助けを求めるべくコンスタンティノープルに戻る。ジェフリーは前進、ゴーティエはピエール帰還まで待機を主張し対立するが、大勢がジェフリーの意見に傾き、この日本隊はニカエアへ前進。トルコの指導者クルジュ・アルスランは兵1万5千をキボートゥス3マイルのドラコンと呼ばれる森の中を伏せる。
十字軍はドラコン近郊に宿営地を築き、非戦闘員・物資をここに残し、歩兵2万5千・騎士500で前進。ドラコンで待ち伏せのトルコ軍は両側の森から一斉射撃・突撃、十字軍を分断。ゴーティエとルノーは戦死。ジェフリーは残兵を糾合してキボートゥスへ退却。トルコ軍は十字軍宿営地で多くの人々や物資を捕獲。生残り3千の巡礼者はジェフリー指揮のもと、キボートゥス近郊の古い要塞跡に立て籠もり、追撃のトルコ軍の攻撃を退ける。
トルコ軍はこの要塞を包囲するが、ビザンツ艦隊が救援に到来し退却。ジェフリーと巡礼者達3千はビザンツ艦隊に救助され、コンスタンティノープルへ帰還。
民衆十字軍は崩壊、生残りは数日後コンスタンティノープル到着の正規十字軍に合流。
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10月30日
・前若狭守藤原行綱の申請により、東大寺に対し、若狭にある封戸50戸の色数の子細の言上を命じる弁官下文出る。12月16日、東大寺に若狭封戸50戸を前別当慶信の時の例により勘納させる。
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11月19日
・アルコラースの会戦。アラゴン・ナバーラ王ペドロ1世、サラゴーサ王ムスタイーン率いるウエスカへのサラゴーサ・レオンの援軍に勝利。 

21日、ウエスカ、アラゴン王ペドロ1世に降伏、開城(アラゴン軍のウエスカ包囲1094~1096)。
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11月24日
・辰刻、大地震。京都、近江、伊勢、駿河の諸国に被害。大殿関白以下、大内に参ず。
28日、両殿下に於いて諸卿を集め、改元の是非を問う会議。大極殿に被害。東大寺の鐘が落下。薬師寺回廊、河内小松寺毘沙門堂が倒壊。勢多橋が落下。東寺塔九輪が落下。駿河、伊勢阿刀津などで津波。小地震相次ぐ。

このころの宮殿は、寺院建築と同様に、礎石に重厚な柱を載せ、さらに重い瓦で屋根を葺く構造であったため、地震があれば建物全体が倒壊する危険性があった。
この時の大地震では、薬師寺の廻廓が倒壊し、法成寺や東大寺でも堂塔の一部が損壊している。
しかし、大極殿では、瓦が今にも落ちそうになっていたものの、柱が一、二寸ずれただけで大きな破壊はみられなかった。
それを見た者は大いに怪しんだというが、柔軟な構造が幸いしたらしく、宮殿建築は案外地震に対する対応力を備えていた(『中右記』永長元年12月24日条)
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12月
・第5陣。トゥールーズ伯レーモン(レイモン・ド・サン=ジル、トリポリ伯)。イタリアで教皇ウルバヌス2世特使ル・ピュイ修道院長アデマールと合流。ラングドック出発→イタリア経由→ギリシア道→1097年4月末コンスタンティノープル。
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12月7日
・地震あり。25、29日にも。
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12月15日
・朝廷、源義家に陸奥の未進の砂金を尋ね、督促。
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12月15日
・先月の大地震の祈祷を行う。東大寺の僧千人大極殿にて読経。仁王会を延暦寺で行い、大般若経、六観音法を行う。 
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12月17日
・「永長」に改元。
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12月23日
・十字軍第2陣(ロレーヌ公ゴドフロワ・ド・ブイヨン、弟ブローニュ伯ボードワン)、コンスタンティノープル到着。
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