カワヅザクラ 2015-02-27 北の丸公園
*承徳3/康和元年(1099)
この年
・藤原清衛、本拠を安倍氏の旧跡衣川に近い平泉に移す。
「清衡、継父武貞卒去の後、奥六郡を伝領し、去る康保年中、江刺郡豊田舘を岩井郡平泉に移し宿館となし」(「吾妻鏡」)。
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・ボードワン1世(ゴドフロワ弟、ブローニュ伯、エルサレム王在位1100~1118)、十字軍から離れ領土漁りをしてエデッサ伯領(1099~1146)創設。
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・ロードス島のヴェネツィア艦隊(200隻、「十字軍艦隊」)、エーゲ海のピサ艦隊を撃滅。
勝利後、ヤッファ(現在のテル・アビブ)へ出航し、ヤッファ攻撃に参加、更に、ハイファ攻撃にも参加。戦線参加の代償として、「全パレスティナでのヴェネツィア商業の完全な自由」獲得。先発のライバル、ジェノヴァ・ピサと並ぶ。
ヴェネツィア艦隊はロードス島で、ピサ艦隊の出撃を待機、ピサ艦隊がエーゲ海に集結との情報をうけエーゲ海へ出撃。
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・アキテーヌ公ギョーム10世、誕生(ギョーム・ド・ポワティエ、1099~1137、ギョーム9世長男、アリエノール 。父)
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・ジェノヴァ、コンスル制成立。
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・モデナ大聖堂建設開始(建設期間1099~1184)。
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・暗殺教団(シーア派、イスマーイール派の分派)、シリアに地歩を築く。
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1月3日
・仁和寺宮覚行、初めて法親王となる。
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1月3日
・越前守藤原家保、勧賞により正五位下に叙任。
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1月6日
・ハインリヒ5世(18)、アーヘンで共同国王に即位(位1106~1125)。
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1月13日
・第1回十字軍、アンティオキア出発。
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1月24日
・京畿の大地震(康和地震 南海地震)。
興福寺西金堂・塔が破損。大門と回廊が倒壊。摂津天王寺回廊倒壊。土佐田千余町が海没。木曽川下流鹿取・野代が空変海塵と化す。数十年後陸地となる。
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2月
・この月、因幡守として任国に赴任した、関白藤原師通の家司平時範の日記『時範記』に見る受領の任国への旅。
時範は、前年の承徳2(1098)年7月7日、因幡守に任命される。
受領は、任命されると、赴任にあたって天皇に対して「罷申(まかりもうし)」という挨拶の儀を行う。
さらに摂関・大臣・公卿に寵申をする。餞別として馬を与えられることが多い。こうした挨拶まわりをすませて、吉日をえらんで任国へ下向。
2月8日、堀河天皇・中宮篤子内親王・関白藤原師通へ「罷申の儀」で赴任の挨拶。
2月9日、出発に際し、「出門の儀」を行う。山城介宅で、陰陽師が「反閇の儀」を行い道中の安全を祈り、その後出門している(実資の養子資頼の場合と同じ)。
道中の行列は、神宝(じんぽう)-主だった従者-お供の人々-時範-武士、という順に続き、七条大路で衣冠から旅装束の布衣に着替える「進発の儀」を行う。この日は山崎で宿泊、石清水八幡宮別当のもてなしをうける。
2月10日に摂津国武庫郡の河面御牧(かわものみまき)、2月11日に播磨国の明石駅家(あかしのうまや)、2月12日に播磨国の高草駅家、2月13日に播磨国の佐余(さよ、佐用)を経て、2月14日に美作国の境根の仮屋に到着。翌日の入用に向けて、因幡国の在庁官人たちに使者を派遣する。
2月15日朝6時に国境の鹿跡御坂(ししどのみさか、志戸坂峠)において、「境迎(さかむかえ)の儀」で、因幡国の在庁官人たちと初対面の儀式を行う。この儀式は、時範が峰の頂上に立ち、因幡国側にいる在庁官人たちが一人ずつ名乗りをあげるというもの。10時に智頭郡の駅家に着き、日没頃、因幡国惣社西にある仮屋に到着。
夜8時、惣社の西舎殿において、国守の赴任を伝える。
早朝、束帯、帯剣にて鹿跡御坂に向かい、峠の手前で下馬し、歩いて峠の頂上に立ち西面(さいめん)する。反対側の峠の下には在庁官人が南面して列立している。用意してきた神宝がまず因幡国に入り、ついで時範が国に入り、官人がひとりひとり自己紹介をして、時範もおじきをする。この境迎は国により違いがあるようで「士風」(国ごとの習慣)に従うとされている。
再び馬にのり、智頭(ちず)郡衙をへて夕暮れ時に同幡国庁(岩美郡国府町)そばの惣社の西の仮屋に着く。
ついで政始(まつごとはじめ)の儀が始まる。束帯に服をあらためて惣社西舎につき、まず自身の任符(にんぷ、国守の赴任を伝える太政官符)を税所に給い、つぎに初の文書発給の請印を行ない、つぎに正倉(しようそう)の鑰(かぎ)が時範の前に置かれる。印と鑰は、文書発給と正倉管理の権限であり、奈良時代以来国司の権限の象徴であった。『朝野群載』「国務条々の事」にも、「印鑰(いんやく)を受領する事」という項目をたて、前司が次官以下目(さかん)以上一両人を差し遣(つかわ)して印鑰を渡すとしている。
この日の夜から国府で宴会となる。新任国司をもてなす儀礼であり、「三日厨(みつかくりや)」といわれ、3晩続くのが仰例だが、時範はあらかじめ命じて、2日目、3日日はやめさせた。
26日には神拝(しんぱい)の儀を行なう。遠くの神社には幣帛(へいはく)・神宝(じんぽう)を発遣し、惣社と宇倍宮(因幡国一宮)にはみずから参拝し、幣帛と神宝(京からもってきた)を奉り、ほかの神社にも参拝する。
3月2日、初めて国務を行なう。
まず三献(さんこん)の儀のあと、諸郡の神社の修理を命ずる国符、池や溝の修理を命ずる国符を作り、国印をおす。また調所(ずしよ)・出納(しゆつのう)所が済物解文(さいもつげぶみ、税物納入状況の報告)を申上し、それを読んで返抄(領収証)を発行し、案主(あんじゆ)所と税所から上(たてまつ)られた吉書(きつしよ)にも捺印する。
この頃(院政期)には、既に支配の実権は在庁官人にうつり、受領の時範は3月27日には国府を発ち帰京の途につく。任国滞在は僅か1月余。
この頃の国務はほぼ儀礼的なものであるが、摂関期にはもっと実質的なものであったと推測される。
受領は数10人の子弟郎等を率いて任国に下向し、印鑰を前司から受領して支配権をひきつぎ、郎等を各「所」目代に任じて、所からの文書を処理して所を掌握するのが政始の儀の意味であった。
この時、重要なのは諸社神拝である。国司神拝は、国司が京から神宝を用意しておき、諸社を巡拝して奉献する。時範のように初任時に一括して形式的に神拝するのは、のちの姿と思われるが、国司神拝は、受領の任国支配の正当性を示す儀礼である。
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2月14日
・フランク軍、トリポリ公国第2の都市アルカを包囲。攻略できず5月13日に撤兵。
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3月22日
・地震あり。(後二条師通記)
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3月26日
・権大納言藤原家忠の子元服。若狭守藤原敦兼参加。
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4月30日
・ローマ公会議。教皇、高位聖職叙任を受けた俗人を破門。
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5月12日
・康和の荘園整理令。荘園新設を禁止。
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6月7日
・第1回十字軍、エルサレム目前に到着。エジプト・ファティマ朝総督イフティカール守備。十字軍総勢:歩兵1万2千、騎士1200。
北側ヘロデ門(ノルマンディ候ロベール)。ダマスクス門(フランドル伯ロベール)。西側ヤッファ門(ロレーヌ候ゴドフロワ、南イタリア・タンクレード)。南側シオン門(トゥールーズ候レーモン)。
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中旬
・ジェノヴァの船、到着。攻城機作成資材・技術者、到着。移動櫓3基製作。
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6月28日
・関白内大臣藤原師通(38)、没。
8月28日権大納言左大将藤原忠実(22)、内覧宣下。
10月8日氏長者となる。翌年7月17日右大臣。
師通は直前まで日記『後二条師通記』を記して政務に精励していたから、文字通りの急死であった。朝廷は、延暦寺・日吉神社による呪詛の恐怖に震撼した。
また、このことが、延暦寺・興福寺による強訴が激発してゆく契機となった。
師通の後継者忠実はまだ22歳の若年で、大臣にも至っていなかったため、摂関家の勢力は失墜する。師通の死去が、白河院政確立への大きな一歩となった。
師通の死と義家・義綱の立場
師通の急死は、事件の発端を作った義綱を窮地に追い込んだ。
この年、義綱は美濃守の任期を満了したが、再び受領に就くことはなかった。彼を政治的に保護してきた摂関家が弱体化したことも、義綱の不遇の要因といえる。かつて義網は在位中の白河に近侍したし、娘を白河の皇女郁芳門院に女房として送り込んだこともあった。しかし郁芳門院はすでになく、白河と鋭く対立した師通の側近として活躍しただけに、師通が死去したからといって、白河に接近するのは困難であった。しかも、その白河には義綱と対立する義家が近侍していた。
この前年正月、義家はようやく陸奥守在任中の官物を完済、4月には正四位下に叙され、義綱を引き離し、父の位階に並んだ。10月には白河院から院御所における昇殿を許された。
義家は再度河内源氏の嫡男の座を奪い返した。
それは、師通の死去によって摂関政治が潰えて、院政が確正していったことと軌を一にする出来事であった。
しかし、白河院に接近した義家も、再度受領に任ぜられることはなく、前陸奥守のまま生涯を終える。その一因は、河内源氏のあとを託すべく嫡男と頼んだ義親の濫行にあった。義親をめぐる諸問題は、貴族たちの河内源氏に対する信掛を喪失させただけでなく、義家の後継者をめぐる凄惨な抗争を惹起し、河内源氏を無残な没落に追い込むことになる。
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7月10日
・エル・シド・カンペアドル(1043?~1099、56)、バレンシアで没。
11世紀にムラービト朝を野戦で破った唯一のキリスト教徒指導者。戦略家、戦術家。バレンシアを占有、ムラービト朝の東部海岸北上・バルセローナやその先まの進出を防ぐ。
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7月15日
・第1回十字軍、エルサレムを占領、イスラム教徒・ユダヤ教徒7万を殺戮。エルサレム王国(1099~1187)。国王ロレーヌ候ゴドフロア。
十字軍の包囲・攻撃直前、ファーティマ朝エルサレム守備隊は市内の全キリスト教徒を城壁外に追放するが、聖ヨハネ病院関係者には残留を命じる。病院管理者・修道士ジェラール。表向きはイスラム教徒側に協力する一方、裏側では十字軍側に協力。エルサレムがキリスト教徒の手に渡ると、ゴドフロワ・ド・ブイヨンやエルサレム大司教から特権を与えられ、ジェラールは巡礼のルート上に病院を建設、その献身的な活動が評価され有名になる。後の聖ヨハネ騎士団。
フランク軍のサンジルは、エルサレム守備のファーティマ朝エジプト部隊に取引を提案。夜、約束どおりエジプト駐留軍はアスカロンの港へ出港。虐殺はそれから1週間にわたり続く。但し、エジプト軍が終結したアスカロンへもフランクの攻撃。エジプト軍は潰走。
フランクは東方教会派(ギリシャ、グルジア、アルメニア、コプト、シリアの各教会派)司教を追放。
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7月22日
・エルサレムの守護としてゴドフロア・ドゥ・ブイヨンが推される。事実上のエルサレム王国が成立。
第1回十字軍は聖地に至るまでに小アジア・シリアでエデッサ・アンティオキア・トリポリを占領、十字軍参加諸侯によって統治される。
このため諸侯は、エルサレム解放の熱意を失うが、ローマ教皇の命令で仕方なく聖地に向かう。従って、エルサレム略奪・虐殺が終わると、諸侯は、小アジア・シリアの自己の領地が気になり、エルサレムを下ローレーヌ公(ブラバン公)ゴドフロア=ドゥ=ブイヨンに托することに決め早ばやと引き上げる。
「聖墓の代理人」と名乗るゴドフロアの手許には、騎士数百人・兵数千人が残るのみ。海岸沿いに連なる諸都市を常に不安な状態に置くことになる。
また、十字軍が激しい虐殺を行ったため、エルサレム住民を逃亡させ、王国を常に人口不足の状態に置く。
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7月29日
・教皇ウルバヌス2世(57)、没(1042?~1099、位1088~1099、フランス出身)。世俗権との和解・妥協を拒否。
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8月12日
・第1回十字軍、エルサレム陥落後、アスカロン高地に到着したエジプト軍に勝利、帰国の途へ。
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8月13日
・教皇パスカリス2世(49)、即位(1050?~1118、位1099~1118、ラヴェンナ出身)。教皇ウルバヌス2世を踏襲。
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8月27日
・地震あり。河内小松寺の講堂倒壊。
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8月28日
・「康和」に改元。 地震により改元。
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9月21日
・地震あり。
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閏9月12日
・地震。18日にも。
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10月
・スルタン、アル・ハラウィ弟ムハンマド、バグダードを奪う。
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10月26日
・地震あり。
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11月21日
・ボーヴェー司教アンソー、没。聖職者は放蕩で身を持ち崩したガルランドのエティエンヌを後任に任命、フランス王フィリップ1世が支持。教皇が反対、ガロンを支持。フィリップ1世、これを拒否、フランスで叙任権闘争開始
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12月16日
・地震あり。19日にも。
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