2015年2月4日水曜日

堀田善衛『ゴヤ』(58)「宮廷画家・ゴヤ」(5) : 「歴史は、ゴヤの深いところでの判断力にのりうつるようにして宿り、そこからの光源を彼の仕事に与えてくれるであろう」

江戸城(皇居)梅林坂 2015-02-03
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スペインの異端審問所は宗教戦争を防止するメリットはあった
 「しかし考えてみれば、スペインの異端審問所は、宗教戦争を防止するメリットはあったのである。中世からの頻々たる宗教戦争、特にプロテスタントが出て来てからの戦争の犠牲者を勘定に入れると、死者は三〇万どころか、厖大な数にのぼる。そうして英国(トマス・モーアが殺された)、イタリア(ジョルダーノ・ブルーノが殺された)、フランス、ドイツ、スイス、ポルトガル、スカンジナビア、ロシアなどでも、盛大に人々は焚殺された。特に英国では一五五三年から一六〇三年までの、わずかに五〇年のあいだに、五万七〇〇〇の人を燃やしたり首を斬ったりしている。スペインのそれは三二七年間である。そうして近世近代の扉をひらいたフランス革命は、もっと多くの人間を殺すであろうし、近代、現代のヒトラーは、スターリンは、そうして原爆は・・・。
それは人間の歴史なのだ。」

 「・・・要するにスペインの異端審問所のみが悪名高いのは、それが長く続きすぎたこと、近世の入口までも続いたことにあるであろう。とりわけてスペインのそれのみが不法、不当、残虐であったわけではないのである。」

カルロス4世治下では誰も死刑には処せられなかった
 「カルロス三世治下では、一八人が焼き殺され、四八人が人形焼き刑(本人は無期刑)に処せられた。そうしてカルロス四世治下では誰も死刑には処せられなかった。もっとも、ミゲール・ソラーノという司祭が、地獄は人間の想像の所産である、ミサをあげてやるために金をとるのは罪悪だ、と述べて焚殺刑を宣せられたが、大審問官が干渉をして処刑はされなかった。審問の途中で、「神学論議に教会の利害がからむことが一切の歪曲のもとである」と堂々と主張をしている。この司祭はフランスへ亡命し、その後に舞い戻って自首し、サラゴーサで獄死している。」

大知識人、財政家、パプロ・ホセ・デ・オラビーデの場合
 「しかし死刑はなかったものの、審問の件数はかなりのものにのぼっていた。・・・高位高官といえども大審問官は容赦しなかった。
ゴヤがフロリダプランカ伯爵の肖像を描いていたまさにその時に、伯爵は異端審問所の内偵をうけていたのである。・・・平民出身のこの能吏をめぐって、家柄の貴族たちの政治的思惑がからんでいることも間違いはない。彼の場合は、どうやらウヤムヤになりはしたものの、鉄槌は彼の友人で、ホベリァーノス同様に大知識人であると同時に財政家でもあったパプロ・ホセ・デ・オラビーデに対して振りおろされた。この人は、セピーリァ近辺のシエラ・モレナ山脈中に政府出資の模範農場をつくって、スイスとドイツから農民を呼び、それによってスペイン農業の向上に貢献しようとした人であった。・・・
このオラビーデが断罪されたときの罪状は、
「ミサをないがしろにし、証人の前で、地球はまわっている、と確言した。」
というものである。
・・・
マドリードの最高異端審問所へ出頭を命じられてセピーリァを発ったときに、「たとえ無罪が立証されても一生汚名をさせられて暮さねばならぬことが心配だ」と語っているが、種々審問の末の判決は怖ろしいものであった。
この判決に際して、約七〇人の貴顕紳士が呼び集められた。そうしてこのうち六〇人が審問所の内偵をうけていた。そのなかに言うまでもなくフロリダプランカ伯爵もが含まれ、メキシコ戦争の英雄リカルドス将軍、カスティーリァ評議会議長のカンポマネス伯爵、大知識人ホベリァーノスなどの姿もあった。要するにこの呼集は警告であった。・・・"
"「判決朗読がおわると、被告はその判決文に署名をさせられ、ここで緑色のローソクに火をつけられ、このローソク火の明りで牢獄の階段を下って行く。
オラビーデ氏はマドリードからバレンシア付近の田舎の牢獄に移送され、そこから脱獄をしてフランスに逃げ、バリで平穏に生きていたものであった。彼はフランス派として、啓蒙派としてパリの革命的知識人とまじわり、幸福であった。自由、平等、博愛・・・。」

『裏切られた哲学』
「しかしその幸福は長くつづかない。・・・フランス革命・・・。・・・やがて革命そのものが血のなかに溺れて行ってしまう・・・。
・・・マラーであり、ロベスピエールであり、ダントン・・・。ギヨチンであり、恐怖時代である。嫌疑は彼自身に及び、逮捕されてギヨチンの間近まで連れて行かれたが、タリエンという男に救われた。・・・
革命は人を罰するについて異端審問所よりも一層残酷で乱暴であった。衣服や乗り物の配慮など一切してくれるものではなかった。」

 「オラビーデ氏はギヨチンのすぐそばまで連れて行かれ、スイスに逃れて『裏切られた哲学』という小冊子を書いた。この”哲学”ということばを、革命と言い直したとしても同じことである。・・・」

 「”スペイン特産、オリーヴと亡命者”という言い方がフランスにあったものであるが、なかには亡命先のパリで死に、モリエールとラ・フォンテーヌの墓のあいだに埋められた人までがあった。」

歴史は、ゴヤの深いところでの判断力にのりうつるようにして宿り、そこからの光源を彼の仕事に与えてくれるであろう
 「・・・大知識人兼法曹家兼政治家兼財政家兼外交官たちは、ほとんど例外なくゴヤのアトリエを訪れている。たとえ画料はそう高くなくても、ゴヤもまた喜んでそういう人々を迎えていたと思われる。
モデルとして静座、あるいは静止をしているあいだに、彼らがどういう会話をしたか。仕事が終って、他の著名な知識人をもまじえての議論は、どういう主題のものであったか。当面の政治情勢の分析にも、多くの時間がさかれたものであったろう。
ゴヤが多くのことを学んだことだけはたしかである。彼は四〇代に入ってはじめて知的社会層とでも言うべき人々のなかに受けいれられたのである。それまでは絵描きグループのあいだでの足のひっぱり合いだけである。そうして彼が、胆に銘じて、おそらくは無意識裡に学んだものは、政治的危機に際しての、それを語ってくれた友人たちよりももっと深いところでの、判断力であったであろうと思われる。やむにやまれぬ時を除いて、何をしてよく、何をしてはいけないか。彼は政治家ではない。
政治家たちは、政治家であるが故に、政治的危機に際して判断を誤らねばならぬ。それが政治家の行動というものであり、宿命である。
歴史は、ゴヤの深いところでの判断力にのりうつるようにして宿り、そこからの光源を彼の仕事に与えてくれるであろう。」

 「ゴヤが、あの光りまばゆいばかりに明るく幸福な、宮廷用タピスリーのカルトンを描いていたときの、その同じ社会の影の部分では、何がどうなって行くのか大部分の人々にとって判断のつかない政治危機が進行していたのである。」
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