2015年3月23日月曜日

野口冨士男『わが荷風』を読む(13) 「7 画にならぬ場所」 (その1) : 『ひかげの花』 : 「作品から風景を排除して人間だけをみつめようとした、そういう覚悟というか、作家的態度がこの作品からはうかがえる」

ヤマザクラ 2015-03-23 代官町通り
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7 画にならぬ場所

「花柳小説が『新橋夜話』から『おかめ笹』までエスカレートしたように、私娼ものも昭和六年十月の『つゆのあとさき』から三年弱の時をおいて、九年八月の『ひかげの花』へとエスカレートする。・・・」

「私娼ものの第一作である昭和二年七月の『かし間の女』の主人公=菊子は《目のばつちりした鼻筋の通った、身丈(せい)のすらりとした好い女》で、その美しさは《活動写真の女優》にたとえられている。また、『つゆのあとさき』の主人公=君江は、その内実が私娼でも、表面はいちおう銀座の大カフエーにつとめる女給という職業女性である。それに、年齢の点でも、菊子は当時としてあまり若いともいえぬ《二十七八》であるにもせよ二十代には相違ないし、君江に至っては《二十》なのに対して、読者は『ひかげの花』の冒頭で、いきなり次のような描写に接することになる。

《・・・まだ夜具の中で新聞を見てゐる男の方を見返ったのは年のころ三十も大分越したと見える女で・・・》

これが女主人公のお千代で、中村光夫も昭和九年九月の『文芸時評』で《谷崎氏は「つゆのあとさき」の著者を人形遣ひに擬してゐた。なるほど「つゆのあとさき」の人物には人形の美しきがある。しかし「ひかげの花」の人形には人間の汚ならしさしかないのである。》といっているように、なんとも醜悪無慙なえがき方がなされている。が、ここで私が醜悪無慙だというのは、お千代の容色をさしているわけではない。お千代とその連れ合いである中島重吉との組合わせによって、二人の存在がなんとも醜悪無慙なものにみえてくるのである。

《男は鏡に映る女の顔が化粧する手先の動くにつれて、忽ち別の人のやうに若くなるのを眺めてゐた。眼の縁の小皺と雀斑(そばかす)とが白粉で塗りつぶされ、血色のよくない唇が紅で色どられると、くゝり顎の円顔は、眼がばつちりしてゐるので、一層晴れやかに見えて来るばかりか、どうやら洋装をさせても似合ひさうなモダーンらしい顔立にも見られる。それに加へて肉付のしまつた小づくりの身体は背後から見ると、撫屑のしなやかに、胴がくびれてゐるだけ腰の下から立膝した腿のあたりの肉付が一層目に立って年増盛りの女の重くるしい誘惑を感じさせる。》

この描写は重吉がお千代を見る眼であって、商店の主人が商品を見る眼である。しかも、その商品は生きものである。・・・

《男はお千代が今年三十六になって猶此のやうな強い魅惑を持つてゐるのを確めると、まだこの先四五年稼いで行けない事はないと、何となく心丈夫な気もする。それと共に人間もかうまで卑劣になったらもうお仕舞ひだと、日頃は閑卻してゐる慙愧と絶望の念が動き初めるにつれて、自分は一体どうしてこゝまで堕落する事ができたものかと、我ながら不思議な心持にもなって来る。》

・・・『ひかげの花』の重富はヒモである。中村光夫は前掲とおなじ文章のなかでいっている。

《「腕くらペ」の昔から、永井氏はただ一人の女しか描かなかった。「腕くらべ」の駒代、「つゆのあとさき」の君江、「ひかげの花」のお千代と、時代と風俗の相違によって、多少の程度のちがひはあるにしても、いづれも善良で単純で、その上多少は慾張りで、しかも極端に反省を欠いて無自覚といふ点では一致してゐる。
その実生活ではあらゆる種類の女を知ってゐる氏が観念の内ではただ一人の女しか育てなかったことは極めて特徴的なことと、私には思はれる。》」

「ところで、荷風は『断腸亭日乗』昭和十一年一月三十日の条に、自身が深いかかわりをもった異性として、いちどは家妻にむかえたこともある内田ヤイをふくむ十六名の氏名を列記して、それぞれに註をくわえている。そして、そのうちの一人である黒沢きみに対しは《本名中山しん、市内諸処の待合に出入する私娼、昭和八年暮れより九年中毎月五十円にて三四回出会ひ居たり明治四十二年生砲兵工廠職工の女》と記している。明治四十二年生なら、昭和八年げんざい数え年で二十五歳である。荷風より三十歳年少であった。また、当時の貨幣価値をげんざいに換算してみせるほど至難なことはないが、ちょうどその年に社会人となった私のたしかな記憶によれば、昭和八年当時における専門学校出身者の初任給は四十円、いまよりはるかに稀少価値のあった学卒者の初任給が六十円であったから、荷風が月々黒沢きみに与えていた支給額の貨幣価値もおおよその見当がつくだろう。
『断腸亭日乗』によると、荷風が最初に彼女を《竈(ヘツつひ)河岸(=浜町堀の西岸にある入り堀)の叶家》という待合で見かけたのは昭和七年の十二月十八日で、はじめて黒沢きみの名があらわれるのは八年の正月十日である。そして、そこには、《久しく六郷辺を歩まざる故鳥森停車場に至り切符を購はむとする時、偶然黒沢きみといふ私娼に逢ふ。立談してわかる。》と記述されており、同月二十六日に関係をもったのち、四月二十五日には《夜芝浦に黒沢を訪ふ。》とあって、以後芝浦、蠣殻町などでなんどかなじみをかさねた末、六月六日の項には次のように記される。

《晩餐後黒沢きみの行衛をさぐる手がゝりを得んものと思ひて、兼て聞知りたる其親戚の家を浅草東三筋町にたづねしが遂に得ずして止む。おきみといふ女の性行経歴はこれを委しくさぐり出さば必小説の材料となすに足るべきものと思はれしが故なり。》

しかも、翌九年三月二十八日の条には〈晡下鍛治橋外岩井三郎事務所を訪ひ黒沢しん及其情夫の身元調査書類を受取り、》という記述までが見いだされることになる。彼女が『ひかげの花』のお千代のモデルとみられる(成瀬正勝説)ゆえんだが、一方にはこれを否定する説(宮城達郎説)もあって、私はどちらかといえば否定説の側に立つ。」

「・・・つまり私の黒沢きみモデル否定説は、『ひかげの花』のお千代に特定のモデルはないとする説である。」

「お千代と重吉が間借りしているのは《芝桜川町の裏通に面して、間口三間ほど明放ちにした硝子店》の二階だが、桜川町の正式町名は戦前から西久保桜川町で、虎ノ門から神谷町の方向に進んでいくと以前の西久保巴町電停 - げんざいの明舟町バス停があるあたりの左側のり一劃で、・・・」

「・・・風景は荷風文学の源泉であって、そのためには《無理な方法を取》っても作品の拠り所にしようと意図したほどであったのだし、西久保桜川町から程遠からぬ距離のところには愛宕山や芝公園もあるのだから、ほんのすこし位置をずらせば、町並はともかくとして、背景に地形の変化をもとめることもさまで困難ではなかったはずである。にもかかわらず、『ひかげの花』における荷風はあえてそれを放棄して、西久保桜川町をえらんだ。画にならぬような場所に、お千代と重吉とを住まわせた。・・・桜川町の選定は明らかにひとつの意図をもっておこなった結果と断ぜざるを得ない。"
"なぜなのだろうか。考えられる理由のひとつは、大正十四年の十一月ごろまで赤坂新町に私娼の野中直をかこっていた荷風は、その直後に大竹トミとねんごろになっているが、そのトミの両親が西久保桜川町の路次奥で素人下宿をしていて、そこにかよいつめた体験をもっていることである。・・・それをあえて放棄して西久保桜川町としたのは、お千代ばかりか、重吉もともにひかげの存在であればこそ、二人は目立たぬ場所に置かぬばならぬと考えたからであったろう。」

「硝子屋の二階の表座敷には《伊東さんといふカフエーの女給》を住まわせて、二人は物干場に摸した裏座敷に住んでいるとした設定も、そうした周到な配慮に相違ない。そして、画にならない土地をことさらえらんだのは、風景描写を捨ててかかっていることを意味している。それは、彼の作風ないし作品の成立条件からいえば百八十度の大転換なのだが、作品から風景を排除して人間だけをみつめようとした、そういう覚悟というか、作家的態度がこの作品からはうかがえるのである。」

「・・・重吉がお千代の商売仲間の玉子と二人で彼女らの商売の仲立ちをしている荒木のおばあさんなる老婆を市谷本村町へたずねていくところがあるが、この作品における風景処理のしかたは、『つゆのあとさき』にあらわれるおなじ本村町界隈の取り扱いかたと比較検討してみればいっそう明瞭になるだろう。『つゆのあとさき』ではこのあたりの風景をさして《私は東京中での最も美しい景色の中に数へてゐる。》とまで書いておきながら、『ひかげの花』では、おなじ濠端の風景が一顧だにされていない。お千代が銀座のカフエーに職をもとめて歩くくだりでも、店内の様子やそこでの女給たちの接客態度が詳述されているのに、市街としての銀座はまったく描写されていない。他作品とは、大変な変りようである。
それに反して、二人が借りている硝子屋の二階の貸間の内部をえがいた場面では、人間の食生活に密着した牛乳壜とか小鍋といったもの - 演劇や映画でいえば大道具よりも小道具がクローズ・アップされる。」

「世間をはばかる二人の存在を中心にすえて、一群の夜行性動物の生態をうつそうとしたこの作品では、風景より風俗のほうが重要であり、風俗を通じて彼等の生き方をえがくという作者の意図は、かくしてぴっちりとさだまっている。・・・」
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