2015年3月4日水曜日

昭和18年(1943)8月19日~26日 日タイ条約調印 「・・・これはタイ国参戦および友情というものを買いとるための代償である。・・・」(清沢『暗黒日記』) 絶対国防圏設定(ソロモン・東部ニューギニアの戦線は時間稼ぎの捨石と位置付けられる) 「ポチポチ戦争責任を、銃後の生産不足に帰するような論調を出してきている」(『暗黒日記』)  

カワヅザクラ 2015-03-04 江戸城(皇居)東御苑
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昭和18年(1943)
8月19日
・「昨日、平川唯一君、子供の純雄君をつれて来たる。例によって庭の仕事等を、すっかりやってくれる。
米国で教育をうけた連中が、真面目で誠実であるのは、著しい特色である。恩を感ずるもの、この人々の如きはあらず。僕の知っている者の内、最も真面目なグループだ。彼らは必ず成功するだろう。米国教育の中に、そうした誠実を救うる空気があるのだろ。
宮城農学校における講演会で蒋介石を殺すものはないか、かれこそ怪(け)しからん男だ。挺身隊みたいなものが出るべきだといった。なるほど、その通りだ。右翼連中は、日本人を殺すよりも、敵を殺すべきだ。しかし蒋介石が支那人大衆を代表している事実を、彼らは知らぬ。彼らの考えは自前的で歴史的でない。
新聞は生産増強以外のことは、何も書いてない。瞭(あきら)〔長男、一九八一年死去〕が青木花見(あおけみ)〔南安曇郡穂高町の清沢家所在地〕から帰っての話しに、仏様の金物まで全部出した上に、屋根も出せというそうで、セメント瓦発見次第出すのだそうだ。」(清沢『暗黒日記』)
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8月20日
・マライ・シャン地方に於けるタイ領土に関する日タイ条約調印
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8月20日
・閣議、科学研究の緊急整備方策要綱を決定
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8月20日
・「管理事業の社長を「応徴士」ということになった。応徴士服務規定によれば、
「事業主たる応徴士は生産遂行の全責任を負荷させられたるものなるの自覚に徹し・・・戦力増強の責を果すべし」とある。
政治もここまで行けば滑稽を通り越して子供の玩具である。彼らは社長を役人化して、宣誓させればそれで能率があがると思っているのである。資本以外はことごとく国家化し、マルクス主義的公式と役人イデオロギーをつき交ぜたものができあがったのである。役人がかつて真の責任を感じたことがあるのか。新聞ではその会社を報ずるのに、○○会社長と伏字にしている。防諜のためであろう。その宣誓なるものは左の如し。

宣 誓
本日以後われら一同は応徴士たる身分を以て軍需生産事業の経営に従事するの命を受けたり。
およそ生産能率の挙がると挙がらざるとは、一に工場経営者の認識と気魄と努力とに基づく、全従業者の士気如何に存するを以て、大東亜戦争開始以来われらは全力を傾けて生産増強に努めつつありしが、最近日を逐(お)うて戦局苛烈を加え、戦産一如の体制確立益々緊切なるに及び、ここにわれら一同徴用せらる。
すなわちわれら一同は、国家のわれらに対する期待の重大なるに鑑み、強烈なる着任感の下、各自の工場内に従業する多数の応徴士を率い、真に総員一体の団結を固うし、相倶(とも)に粉骨砕身以て生産の飛躍的増強に挺身邁往(まいおう)せんことを誓う 右宣誓す。
昭和十八年八月十九日
                               管理工場事業主代表
                               ○○株式会社取締役会長 大河内正敏

管理工場事業主徴用令書令達式は、十九日午前十一時半首相官邸において行われた。
応徴社長〇〇〇名(病気のため約十名欠席)は、これよりさき午前十一時集合、東条首相、小泉〔親彦〕厚相はじめ内閣より星野〔直樹〕書記官長、森山〔鋭一〕法制局長官、天羽情報局総裁、陸軍側よりは富永次官、吉積整備局長、海軍側より嶋田〔繁太郎〕海相、保科兵備局長、商工省より岸商相、椎名次官、企画院より鈴木総裁、安倍次長、地方長官代表として薄田警視総監、厚生省よりは武井次官、中村勤労局長、宮崎動員課長出席
宮崎動員課長開式を宣すれば、一同厳粛裡に宮城奉拝、国歌斉唱、祈念の国民儀礼を執行。ついで小泉厚相より徴用令書の交付を行い、○○株式会社会長大河内正敏子が一同を代表してこれを受領し、ここに正式に徴用せられた社長は一斉に応徴士徽章を装着し、その身分を明示するとともに応徴士たるの覚悟を新たにした。ここにおいて・・・〔『読売報知』八月二十日夕刊〕

H.G.Wells の ""The Shape of Things to Come"" を軽井沢の古本屋より買って来た。その中に日本のことが番いてあるが「日本の当局者の頭脳はインサニチーに近いもの」といった意味のことあり。いかにも鋭くうがっている如く感ぜざるを得ない、社長徴用令やラジオの演説を聞いては。平川君帰京す。」(清沢『暗黒日記』)
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8月20日
・デンマークで対独レジスタンス激化。
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8月21日
・「二十日、日泰(タイ)間に領土編入条約調印された。日本は日本占領下にある北部マライにおけるベルリス、ケダー、ケランタン、トレンガヌ四州およびシヤン聯藩中ケントン、モンパン二州を泰国領土に編入することを承認したのである。
これについて三つのシグニフィカンスがある。第一は、これらの領土は日本の占領下にあるが、なお最終的に決定をみないものである。(米英は何と批評するだろう)(泥棒の下分というか)第二は、東条首相という陸軍軍人 - 譲歩と妥協は如何なる場合にも罪悪なりと感ずる人によって、この種の「軟弱外交」が行われたことである。東条声明は最初、泰国の独立尊重はいったが、領土的譲歩をいったことはなかった。東条は軍人で知らなかったので、自身でやって見ると、国際関係はそう簡単にいかないことが明らかになるはずだ。 - 知識というものが、まず最初である。第三に、これはタイ国参戦および友情というものを買いとるための代償である。(条約文には譲渡といわないで「承認」といっている。)」(清沢『暗黒日記』)
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8月21日
・ソ連政府・党中央委員会、解放諸地区の緊急経済復興措置を決定。
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8月21日
・初めてV1号の写真がデンマークより英に届けられる
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8月22日
・近衛・宇垣会談。
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8月22日
・島崎藤村(71)、没。
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8月22日
・「午前に鮎沢厳君〔世界経済調査会常務理事〕一家が来らる。
僕はいった。
何とか米国に大打撃を与えたい。ニューヨーク辺でもめちゃくちゃにしたい。米国をして戦争の惨劇なることを知らせることは将来、世界のためである。ただ問題は、その事は可能かどうかだ。
日本兵、とうとうキスカから撤収した旨をラジオが報ず。そしてその撤収が一兵を損わず、米国が馬鹿を見たように放送した。
島崎藤村氏死去の旨のラジオ放送あり。予はこの人には、種々世話になり、また書いた物ももらっている。あの白皙(はくせき)の下向きに、すみ切った眼を光らせている様を思い出す。最後の招待会には、行くことができなかった。愕然として驚くとはこの事。かれは最後まで書き通して頭は確(しつ)かりしていた。歴史的人物である。」(清沢『暗黒日記』)
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8月23日
・南東支隊(佐々木登少将)・八連特(大田實少将)、ニュージョージア島ムンダよりコロンバンガラ島へ撤退。
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8月23日
・ソ連軍、ハリコフ奪回。
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8月24日
・ニューギニア、第51師団長中野中将、玉砕決意のサラモア確保の訓示。
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8月24日
・大本営、絶対国防圏を、千島・小笠原・マリアナ・トラック・西部ニューギニア・豪北ティモールを連ねる線に設定。
圏外のラバウルを司令部・兵站基地とするソロモン・東部ニューギニアの戦線は時間稼ぎの捨石と位置付けられる。
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8月24日
・独、ヒトラー、警察・親衛隊を掌握しているヒムラーを内相任命
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8月24日
・独、ベルリン南部大空襲、ランクヴィッツは壊滅的打撃
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8月24日
・思想家シモーヌ・ベイユ、拒食により没。
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8月25日
・第2回大東亜文学者大会。東京、大東亜文学者決戦会議。
28日、小林秀雄(41)、第2回大東亜文学者決戦大会で講演「文学者の提携について」。
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8月25日
・東南アジア・コマンド(東南アジア連合軍)、イギリスのマウントバッテン卿(大将)の指導のもとセイロンのペラデニアで創設。
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8月25日
・レバノン総選挙、国民ブロックが勝利
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8月25日
・アメリカ第12空軍、枢軸側重要基地フォッジャの空襲成功、大打撃を与える
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8月26日
・全国移動映写連盟結成
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8月26日
・「ケベック会談が終了した。ローズヴェルトとチャーチルと八月十一日から開会、二十四日に終ったのだ。その会談は
一、軍事上の統一に関する打合せ
二、会談の主題は対日作戦にあった事
というにあり、ソ連を招請しなかったのは問題が重(おも)に対日作戦であったからという意味を声明で述べている。
これによって米英の反攻作戦が熾烈になってくることが明瞭だ。大本営発表にも、ニュージョージア島およびベララベラ島の「敵反攻の勢は侮り難きものあり」と認めている。
ポチポチ戦争責任を、銃後の生産不足に帰するような論調を出してきている。
米英が休戦条件として「戦争責任者を引渡せ」と対イ条件と同じことをいってきたとしたら、東条首相その他はどうするか?
午后旧軽井沢に行き、二十五円でゴーエンの The Outline History of Japan を買った。読んで見ると通俗的なもので、書斎に大したものを加えない。それにしても近頃の書籍はなかなか高価だ。
今日、島崎藤村氏の葬儀だが、僕はとうとう行かなかった。非常に盛んなようだ。そんなに盛んならば僕一人行かなくてもといった気分も動く。」(清沢『暗黒日記』)
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8月26日
・イギリス・アメリカ・ソ連3大国、フランス「国民解放委員会」承認。
委員会ではジローが解任され、ド・ゴール1人による指導体制・対外的地位が確立、大戦前の議員経験者・国内レジスタンス代表者が委員会入り。
1944年6月3日、「共和国臨時政府」(ド・ゴール首班)樹立。
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8月26日
・ソ連4個正面軍ウクライナで攻勢
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