2015年3月10日火曜日

堀田善衛『ゴヤ』(61)「一七九二~九三年・悪夢」(1) : 「カディスで、彼はほとんど死にかけた。・・・そうして、決定的に、耳が聞えなくなった。」 「克つために、何をなすべきか。 それを描くこと以外に、画家には出来ることはない。」

北の丸公園 2015-03-05
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君も分ってくれるだろうが、僕はあまり満足していない
 「一七九〇年の年末に、彼は友人サバテールに次のように書き送っている。・・・

君がこれらの歌を聞いたらさぞ喜ぶことだろう。僕は実はまだ聞いていないし、多分今後も聞くことはないだろうと思う。というのは、こうした歌の聞ける場所へ僕はもう行かないからだ。近頃僕は、自分がある特定の思想を持ち、人間がそなえているある種の尊厳を守るべきだと信ずるようになったからだ。だから、君も分ってくれるだろうが、僕はあまり満足していない。

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ここに語られている「人間がそなえている・・・」云々は、むしろ宮廷画家が、と解した方がゴヤの身に添うことになりはしないか。そうしてこの手紙をひっくりかえしてみれば、そういう歌の聞けるところへ彼がいかに頻繁に通っていたかということになり、特定の思想と尊厳が枷になって、「僕はあまり満足していない」という、はなはだ正直なことになる。」

1792年秋、ゴヤはカディスに行く
 「一七九二年の秋、ゴヤは王の許可なしで、そそくさとアンダルシーアへ下って行く。・・・」

 「・・・ゴヤは、空はあくまで青く澄み、そうしていささか強すぎるアンダルシーアの陽光を浴びて港町のカディスヘ向っている。」

「この光の氾濫する港町は、かつては中南米貿易を独占し、バレンシア、パルセローナとともに地中海沿岸でもっとも栄えた町であった。従って外国人も多く、スペインが政治的動乱に巻き込まれたときには、多く革命的な役割を果した。その点で、中国革命史における広東の役割に似ていた。」

 「しかしゴヤはここにどういう用事があったか。・・・用事として考えられるものは二つあり、その一つは年来の友人であるセバスティアン・マルティネスの肖像を描くことである。
このマルティネス氏は、カディス財界の大立者であり、美術品の収集家でもあった。三〇〇枚以上の油絵と、数千枚の版画があり、当時としても著名なコレクションであった。なかに、ティツィアーノ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ベラスケス、ムリーリォなどがあり、版画のなかにはローマのビラネージの手になる、これも著名な監獄や精神病院、拷問などの景を刻んだものがあった。」

 「それからもう一つの用件は、当地のサンタ・クエーバ教会に後年描く三枚の半月形の宗教画のための、その壁面の実地検分であったと推定される・・・
ゴヤはマルティネスの肖像を描く。それは画家の視点を当時としてはひどく下方に置いた、新しい手法で描かれている。服装は当時フランスで流行していた縞入りのルダンゴート(モーニングコート凧のもの)を着て黄色いキュロットをはいている。一九世紀はもうすぐそこに来ているのである。まだ残っている一八世紀風のものは、フリルつきの胸飾りのついたブラウスと粉を振ったカツラ、それに金のバックルのついたキュロットくらいのものである。
・・・
この肖像画を完成して、あるいはサンタ・クエーバ教会の壁面に素描程度の下ごしらえをして、ゴヤはこの光の溢れている港町をあとにした。」

カディスで、彼はほとんど死にかけた
 「・・・帰途セピーリアに滞在し、友人の美術学者のセアン・ベルムーデス邸に厄介になっていたとき、最初の打撃がやって来た。
目まいをともなった、部分的な麻痺である。
ゴヤはベルムーデスにつき添われてカディスに引きかえした。
マルティネス邸に半年もいざるをえなかった、ほとんど廃人として。
ゴヤは死にかけている。」

 「カディスで、彼はほとんど死にかけた。マルティネスは恢復は不可能であろうと悲観をしていた。目まいがして階段の上り下りも出来なかった。
そうして、決定的に、耳が聞えなくなった。全聾である。
しかも猛烈な頭痛が襲って来て、脳内でさまざまな音がする。その頭脳内の音だけが聞えた。聞えた、ということばがもしこういう場合にも使用しうるものとすれば。」

 「脳の全的な麻痺だけは、不幸中の幸として、それは来ないでくれた。」

 「・・・病いがいささか引いて行ってからゴヤが描いた二枚の自画像は、なんとベートーヴェンにそっくりである。狂人のように眼ばかりをぎょろつかせて痩せさらばえている。」

 「一七九三年の一月に、アカデミイに対して二ヵ月の休暇を請願している。
・・・
一月五日、マルティネスは、彼自身もが友人であったサラゴーサのマルティン・サバテールにあててきわめて悲観的な病状を報告した。それに対して一九日付でサバテールが返事をよせている。
「愛するゴヤの身の上が気懸りでなりませんのです。病気の性質がもっとも恐ろしいものであるだけに、ゴヤの再起があやぶまれ、悲しさを蔽い切れません。貴方がゴヤを親切に扱って下さり、また御家族の方々がゴヤが必要としている援助と慰めを愛情をもって与えて下さっていることを、私は重々承知いたしております。
同時にサバテールは、バイユーに対しても手紙を出している。
「ゴヤの慎重さの欠如がこういう結果をもたらしたのです。けれども、それでも彼は彼の不運にふさわしい同情をもって見らるべきものと考えます」と。
梅毒説は、後世の症状診断と、親友のこの数行から敷衍されて行ったものである。」

 「高熱と頭痛、耳鳴り、暗黒の頭蓋のなかに響きわたる怪音、手はしびれ、目まいがする。それは火で灼かれるような経験であったであろう。
この業火のなかで灼き殺されたものは、彼の聴覚だけではなかった。バルザックの言う「よき時代」一八世紀の、バロックやロココなどの、一八世紀的迎合が灼き切られた。
もはや『日傘』や『葡萄摘み』や『目隠し遊び』などの雅宴は、二度と戻って来ないであろう。
一つの世紀が死ぬことは、時代全体にとって、フランス革命がそうであったように、また個人にとっても、やはり残酷な出来事であらなければならぬものであるらしい。・・・」

悪夢のような前途がこの国を待ち構えている
 「ゴヤが麻痺し、体力を消耗していることとまるでパラレルに、スペインの政治と社会までが同じような舞台を設置してくれるのである。ゴヤが聴力を失い、耳鳴りに苦しみはじめると同時に、スペインもがフロリダプランカ伯爵と異端審問所の努力で、情報ツンボとなり、ピレネー山脈の向うから轟いてくる革命の怪音がスペインの頭蓋のなかに響きわたる。悪夢のような前途がこの国を待ち構えている。・・・」

 「この白と青との饗宴のような町にあって、ゴヤは地獄の苦しみにさいなまれている。いっときは死を思い、死んだ方がましだと思ったこともあったであろう。
眼は、眼球震顫があるとはいうものの、とにかく見える……。しかし麻痺した腕はどうなるか。絵筆をとるどころか、手紙も書けない。
耳は全聾である。爾後、一切の物音とは沈黙の壁によって遮断されてしまう。」

それを描くこと以外に、画家には出来ることはない
 「王は、果していつまでこの全聾の画家を画家として遇してくれるであろうか。
しかし、生の方向において頑張らなければならぬ。」

 「・・・投げても投げても尽きることのないごろた石を放り投げて、ほんの少しの土にほんの少しの麦をつくって、かつがつに生きているアラゴンの貧乏百姓の、あの勁(つよ)い魂を思い出さなければならぬ。」

「克つために、何をなすべきか。
それを描くこと以外に、画家には出来ることはない。」
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