日経BP 小田嶋隆のア・ピース・オブ・警句
知性と教養は経済を回す
小田嶋 隆 2015年3月6日(金)
(略)
ということは、書籍1冊ごとの「ありがたみ」は、縮小傾向に沿って推移してきたわけだ。
われら出版関係者は、このことを直視せねばならない。
つまり、書籍は重視されず、著者は尊敬されなくなっており、読書家もまたその地位を低下させつつあるのだ。
これは、書籍が代表していた「知識」なり「教養」という価値が、以前に比べて重要な指標ではなくなってきているということでもある。
(略)
大げさに言えばだが、この対談の中で、このお二人のビジネスマンは
「有効な知性と無効な知性の区別について」
お話をしている。そういう意味では、「新知性主義」と呼ぶことも可能だ。
三木谷さん並びに夏野さんが、この対談の中で展開している内容は、半年ほど前に当欄で紹介した、経営コンサルタントの方の考え方と、様々な点で、とてもよく響き合っている。そっくりだと申し上げても良い。
彼らの言わんとするところを要約すれば、これまでの大学教育やブッキッシュな教養体系の中で「教養」「知性」とされてきた、「日本史」や「シェークスピア」や「憲法」のようなアカデミックな「知識」よりも、たとえば「プログラミング」や、「観光英語」や「簿記」や「工作機械の操作法」といったアクチュアルで、現実的で、実用的で、実践的で、実学に近い「情報」の教育により高いプライオリティを置くべきだということだ。
(略)
個人のアタマの中に蓄積された伝統的な教養が、死ぬまで有効だった時代は、既に過ぎ去っている。
情報は刻々と更新されている。それに合わせて、知識はどんどん陳腐化し、教養もまた加速度的に無効化しつつある。そんなふうにあらゆるものがスクロールしている世界の中で暮らしている以上、紙に印刷した知識を積み上げることは、そもそも、ナンセンスなのかもしれない。
別の考え方もある。
情報の陳腐化が急速であるからこそ、学校教育では、知識や情報それ自体ではなく、学問(ないしは体系化された情報)への取り組み方を教えるべきだという立場だ。
この立場からすると、「教養」とは、知識そのものではなくて、「知識との付き合い方」、「知識の扱い方」、あるいは、「自分がどの程度の知識を持っていてどんな知識を欠いているのかを正確に知る能力」を示唆する言葉ということになる。
で、そうした「教養」を養うためには、実は伝統的な学問へのアプローチの仕方を学ぶことがいまのところ最も洗練された訓練法なのだというお話になる。
(後略)
日本の反知性主義 (犀の教室)
反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体 (新潮選書)
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