2015年3月2日月曜日

インタビュー マニラ市街戦から70年 作家 F・ショニール・ホセ (『朝日新聞』2015-02-27) : 「日本人は不可解な存在だ。変化へ向けてムードが変わると、すべてを受け入れる。国民的雰囲気とでもいうか。しかも一夜にして変わることがある。常に理性に基づいて行動するわけではないことは41年の開戦で明らかだ。国粋主義的になれば危ない。第2次大戦の黒幕のような扇動者が出てきたら、簡単に説得されてしまうのではないか。平和を求める雰囲気が続くことを願う」


インタビュー マニラ市街戦から70年 作家 F・ショニール・ホセ
(『朝日新聞』2015-02-27)

自国傷つける歴史
若者に伝えぬ日本
国粋主義的危うさ

 70年前の2月、マニラでは首都奪還をめざす米軍と抵抗する日本軍による激しい戦闘があり、フィリピン人10万人が死んだとされる。90歳を迎えた国民的作家、F・ショニール・ホセさんは太平洋戦争を知る生き証人だ。戦中、日本を憎み、戦後、日本の作家らと交流を重ねた屈指の知日家に、日本との過去と現在、そして未来を聞いた。

 - 戦後70年、ホセさんが初めて来日してから60年になります。

「1955年に訪れた時、東京はまだ一部が廃虚で空き地もいっぱいあった。路面電車が走っていた。地下鉄も銀座線などわずかしかなかった。当時は1ドルが2ペソ(1ペソ=180円。今は1ペソ=2.7円)だったから随分と金持ちの気分だった」

 - 初来日の印象は。

「落ち着かず、不安だった」

 - なぜですか。

「私は戦争末期の45年1月、米軍の医療班の軍属となり、敗走する山下(奉文)将軍の隊列を追撃してルソン島を北上した。地元のゲリラに参加する手もあったが、米軍に加わったほうが日本に行くチャンスがあると考えた。日本に行って、一人でも多くの日本人を銃で殺したいと思っていた。当時、私の周囲の若者の多くはそんな考えだった」

 - だから落ち着かない気分だったのですね。なぜそこまで日本人を憎んだのですか。

「残虐だったから。いとこや友人の多くが戦争で死んだ。私も何度も日本兵に殴られた。理由? 理由なんてない。道を歩いていたら反対側にいる兵隊に『コラ』と呼びつけられてビンタだ。彼らが41年に来た当初はコメの配給もあり、さほどひどくはなかった。日本語クラスの教師は若い海軍の将校で、英語もうまく優秀な人だった。そのうち食糧にも困るようになり、略奪が始まった」

 - 戦後なぜ日本を訪れようと考えたのですか。

「最初は米国に行く途中に立ち寄り、1カ月滞在した。その前に日本を研究した。歴史に関する多くの翻訳を読んで、学ぶべきところが多いと気づいた。明治維新に興味を持った。農地改革にも関心があった」

 - それから毎年のように日本を訪問し、滞在されています。

「初回から多くの興味深い出会いがあった。通訳、作家、学生らと交流し、親しむようになった。京都の農家に泊まったこともあった」

「安全で快適、見るべきものがいくらでもあるしね。日本で書き上げた本もある。地下鉄で何度も忘れ物をしたが、いつも戻ってくる。倫理的な社会だと思う」

■          ■

 - 若い同胞に「明治維新に学べ」と操り返していますね。

「鎖国で孤立していた日本を、世界の強国に変化させた世紀の出来事だった。続く日露戦争は、封建制の下で何世紀も孤立していたアジアの国が近代化できることを示したという意味で、日本だけではなくアジアの勝利でもあった。戦時中の日本の残虐性ゆえに多くのフィリピン人は気づいていないが、第2次大戦も、献身的な国民のいる小国に何ができるか、私自身も含め多くの人々の目を覚ます効果はあった」

 - 日本人の良いところは。

「職人気質。日本に行く若い人には、民芸品の展示されている博物館を訪ねるべきだと勧めている。日本が発展した基礎が理解できる。民芸品の美、職人芸は欧米を超え、アジアの他国にない質の高さがある」

「それと職業倫理だ。人材をのぞけば資源に乏しい国が、ここまで豊かになるうえで倫理は大切だった。発展の基礎はいつも倫理や道徳だ」

 - 多くの日本の作家と交流を重ねています。印象に残るのは。

「大岡昇平は初対面でいきなり『私はフィリピン人を殺していません』って言うんだ。レイテ戦やミンドロ島での体験など、話は弾んだ。礼儀正しい人だった」

「アジアの作家の作品集を編む時に、三島由紀夫にも頼んだ。銀座の喫茶店で会うことにしたが、待たせたあげくに『協力できん』と言う。それならここに来ることはなかったと私は席を立った。だがしばらくしてマニラに『これを使え』と、すてきな短編を送ってくれた。最初から協力する気だったんだ」

「遠藤周作、堀田善衛、川端康成、平林たい子、サイデンステッカー。彼らといろいろ話し、学んだ
が、みんな亡くなってしまった」

■          ■

 - この2月はマニラ市街戦からちょうど70年です。当時の様子を。

「米軍と地方にいたが、マニラに戻ると、戦闘は終わっていた。市役所、教会、ホテル、すべてが焼け落ちて橋という橋は崩壊していた。死体がころがり、死臭が街を包んでいた。米軍の砲撃で死んだ人も多かったが、日本軍がとどまったからこれだけ多数の死者が出た」

 - 日本では知らない人が多い。

「教育のせいだ。若い世代に伝えることを避けている。日本人は歴史が好きだ。映画や書物でも歴史物を好む。でも自国のイメージを傷つけるものについては話が違う。その点では非常に国粋主義的だ」

「だから首相が靖国神社に参拝するのだろう。国民向けの行為だと理解する。中国への返答かもしれない。だが私には受け入れられない」

 - なぜですか。

「あの神社を訪れ、ミュージアム(遊就館)を見た時、怒りが収まらなかった。あなた方の名誉ある兵士は、我が国を蹂躙したのだ。私はフィリピン人として参拝を批判する」

 - フィリピンの人々は日本を赦したのでしょうか。いまや親日国家と言ってもいいと思います。

「フィリピン人は、過去にこだわって糾弾するようなことはあまりしない。生き残った元日本兵も随分減った。時間が多くの傷を癒やした」

 - アキノ政権は、日本との安保協力にも積極的です。

「膨張を続lする中国の存在がフィリピンを日米に向かわせている」
「中国は大きな存在になったが、都市部とそれ以外の格差、政府の腐敗など矛盾に満ちている。私たち夫婦は中国の食品は買わない」

 - あなた自身は日本をもう赦したのですか。

「いや赦したわけではない。私は忘れない。それでも過去が未来を見通す際の妨げになってはいけないと思う。過去の犠牲にこだわりすぎると、ものが見えなくなる」

■          ■

民主主義成熟した
雰囲気に流されず
平和求める理性を

 - 日本は経済的にはかつての勢いがなく、高齢化も進んでいます。

「東京のレストランに入ったら、すべての席がお年寄りばかりだった。人口動態上の問題につきあたっているのだと実感した」

 - 日本は復活しますか。

「90年代に日本が一番で米国はだめだと言われた時期があった。でも私は当時、米国には自己再生の力があると言った。だが日本にそれがあるかは疑わしい。直面する問題についての開かれた議論が少ない。メディアも支配層への批判をためらいがちだ。例えば移民問題。米国はは受け入れることで、新鮮なアイデアと発展につなげてきた。だが日本は受け入れない。島国なのだ。自分たちは独特だと思い込む自己陶酔がある」

 - 日本は見通しは暗いですね。

「いや日本は成熟した民主主義を持っている。日本は随分穏やかになった。成熟とは歴史の長さではない。司法や政治制度が機能し、官僚制度もしっかりしている。人々、特にお年寄りを大切にする仕組みもあるということだ。日本は英国のようになればいい。国際的な影響力は小さくなっても、ロールスロイスはしっかりブランドを保っている」

 - 日本人は雰囲気に流されやすいとエッセーで危惧されています。

「日本人は不可解な存在だ。変化へ向けてムードが変わると、すべてを受け入れる。国民的雰囲気とでもいうか。しかも一夜にして変わることがある。常に理性に基づいて行動するわけではないことは41年の開戦で明らかだ。国粋主義的になれば危ない。第2次大戦の黒幕のような扇動者が出てきたら、簡単に説得されてしまうのではないか。平和を求める雰囲気が続くことを願う」

取材を終えて
マニラ首都圏の高級モールで先日、旧日本兵に扮した男女からビラを渡され、どきっとした。70年前の市街戦を追悼するイベントだった。ぼかにも多くの行事が催された。

太平洋戦争中、フィリピンでは約52万の日本人が戦没した。一方フィリピン人は111万人が亡くなった。当時の国民の16人に1人。「人口に比してアジアで最も大なる惨禍を受けた国」(ロムロ元外相)だ。

戦後、日本の戦没者慰霊碑がフィリピンに多く建てられたが、遺族が高齢化し顧みられない碑も増えた。フィリピン人を悼む碑は多くない。

「アジアの病人」と揶揄された経済停滞から抜け出しつつあるフィリピンには、日本からの駐在員や英語留学する若者が増えている。「親日」を感じ、強調する人はいても、過去を振り返る機会は少ない。

卒寿にしてなお、定期の長文コラムを英字紙に書き続ける作家の多彩な言葉を聞きながら、日本の歴史にからむ近隣国の出来事を記憶にとどめ、伝えることの難しさを思った。

                                (機動特派員・柴田直治)

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