2015年3月8日日曜日

橋下徹・大阪市長をかつての盟友・石原慎太郎が「ポピュリスト」「狡猾」と批判! (田部祥太 LITERA)

LITERA
橋下徹・大阪市長をかつての盟友・石原慎太郎が「ポピュリスト」「狡猾」と批判!
田部祥太 2015.03.06

 今回の藤井聡京大大学院教授とのバトルを見てもわかるように、橋下徹・大阪市長はとにかく、自分を批判する者に対しては、その何倍も口汚い悪罵を投げつけ、あらゆる手段を使って徹底的につぶしにかかる。そうすることで、他の政敵やメディアも同時に脅し、批判を封じ込める。それが、この男の手口なのだ。

 ところが、そんな橋下市長がどんなに批判をされても、絶対に言い返さない人物がいる。ともに日本維新の会の共同代表をつとめながら、途中で袂を分かった石原慎太郎だ。

 実際、石原は維新の会を離れて以降、ことあるごとに橋下と維新の会をチクチクと批判していたが、橋下は一切反論しなかった。

 しかし、石原のほうはまだ言い足りなかったらしい。政界引退をしておとなしくなるかと思いきや、最近、「WiLL」(ワック)3月号に発表した「立国は公にあらず、私なり」という政界引退手記で、またぞろ橋下批判を展開しているのだ。

 といっても、今回のような橋下のメディアへの圧力を諌めているわけではもちろんない。石原は手記の中で、維新の会時代の恨み節を延々と書き連ねているのだ。

 石原は「私の計らいで」太陽の党と合流した日本維新の会には大きな亀裂があり、その原因は「大阪」にあったと決めつける。

「残念なことに、大阪にいる幹部たちは大阪という限られた井戸のなかに身を置いて外側の大海を見ることがなかなかできずにおり、一方、国会でのイニシアチブを握る東京側のメンバーとの間にさまざまな摩擦が介在し続けていました」

 そのうえで、矛先を共同代表だった橋下市長に向けるのだ。

「一番の問題は、橋下氏が周囲の仲間に提唱してきた『政治家はふわっとした民意に敏感に反応しなければならない』という、下手をすればポピュリズムに繋がりかねない心構えで、これが大きな政治案件に関しても、私から見れば非常に歪んだ狡猾にしか見えぬ事態を党内に生じせしめたものでした」

「ふわっとした民意に敏感に反応」「ポピュリズム」「非常に歪んだ狡猾」──。まさに橋下にぴったりの表現だが、しかし、考えてみれば、石原もまた、そのふわっとした民意に敏感に反応することで、権力を維持してきたのではなかったのか。

 大衆の劣情を煽るような差別発言を連発し、新宿歌舞伎町の浄化作戦や、青少年保護育成条例、新銀行東京や東京オリンピック誘致、東京マラソンと、目立つパフォーマンスばかりを繰り返したその姿はまさにポピュリズム政治家の典型だろう。いったいどの口で、といいたくなるが、読み進めていくと、石原の橋下に対する怒りの原因は、実はポピュリズムの部分ではなかったことがわかってくる。

 たとえば、日本維新の会が掲げた“脱原発”政策についての対立。石原はこの手記で「問題の多い日本の原発を十年後にはフェードアウトするというものでした。これは私から見れば非常に危険な党是でしかありませんでした」と言っているが、ゴリゴリの原発推進派で、核保有さえ主張する石原がこうした主張をすること自体は別段、不思議ではない。

 問題はその後だ。石原の矛先は脱原発政策の是非からその決め方に向かう。

「原発に対する根本的な認識が私から見れば欠落したまま、安倍政権が決めたUAEやトルコに対する、世界でも最も進んだ日本製原発の輸出規定に反対することになりました。しかも、その賛否を多数決で決めたのです」

「こうした国家の名誉にかかわる根本的な問題、つまり原子力そのものに対する否定に繋がりかねない国際協定への賛否は、当然、一種の文明論として討議、討論されるべきだと私は主張しましたが、『こうした問題を多数決で決めるのが維新の会の文化だ』と言って、結局、両院議員の多数決に付され、政府方針に反対することが決定されました」

 政党の意思決定としては、意見が対立したら最後は多数決で決めるのは、普通のことで、むしろ「文明論として討議すべき」というのが意味不明だが、とにかく、石原はこの“多数決”は我慢ならないらしい。

 実は、維新の会と分かれて結成した新党・次世代の党をめぐっても、石原は多数決にいちゃもんをつけている。実は、石原はこのとき、「新党大和」という党名を考えて推していたのだが、やはり多数決で「次世代の党」になってしまったらしいのだ。

「物書きの私としては、自分の書いた小説にいかなる題名をつけるかに腐心している経験からしても、新しい党の命名を多数決で決めることには大きな疑義がありました(略)いかにも素直に理解しにくい、事の説明を要する党名は結局、選挙によっても大きなマイナスになった気がしてなりません」

 文明論や文学を持ち出しているが、結局は俺に決めさせろ、というファシスト丸出しの理屈でしかないのだが、たしかに、石原は多数決にもっともなじまない政治家だった。都知事選のような直接選挙ではポピュリズム的手法によって大量の得票を集めることができるが、政党や政治家の集団を束ねたり、議会で多数派工作をすることはむしろ苦手だった。

 都知事以前の国会議員時代は自民党の弱小派閥・中川派に属し、総裁選に立候補してもたいして票の集まらない泡沫候補でしかなかった。1983年にはその中川派を引き継いでいるが、勢力を大きくするどころか、求心力を失い、派閥を消滅させてしまっている。結局、唯我独尊で根回しなど大嫌いな性格は、大衆には受けてもプロの政治家には受けないのである。

 そして、維新の会でも、次世代の党でも、看板としてかつぎあげられながら、真の意味でイニシャティブをとることはできなかった。結局、唯我独尊で根回しなんて大嫌いな石原は大衆の人気を獲得できても、プロの政治家達を取り込むことができない、政治集団を組織化する能力がないのだ。

 しかし、橋下はちがう。まがりなりにも大阪維新の会、維新の党を組織化し、常にイニシャティブを握ってきた。石原と同様のポピュリストの顔をもち、表では直情的な行動をとっているため、それだけの人間のように思えるが、実際はかなり狡猾な戦略家であり、権力者にこびへつらい取り入ることや、各政党や議員への根回し、多数派工作も平気でやってのける。
 
 たとえば、先の衆院選でも、一旦は公明党と全面対決の姿勢を示しながら、結局は裏で手を結んで、対立候補をたてるのをやめてしまった。

 そして、こういう狡猾なやり方で多数派を握った橋下が必ず口にするのが「多数決で決めたんだから従え」という理屈だ。
 
 おそらく、石原はポピュリストの部分でなく、この狡猾な戦略家の部分に我慢ならなかったのではないか。あるいは、自分にないものをもっていることに嫉妬したのかもしれない。しかも、当初はおだてられて共同代表になったものの、気がついたら、橋下の戦略で外堀を全部埋められていた。そして出てきたのが「多数決で決めた事だから」という一番大嫌いな台詞だったというわけだ。

 そういう意味では、同じタカ派、ポピュリスト政治家ではあっても、政治手腕は石原より橋下の方が一枚も二枚も上手といっていいだろう。それは同時に、石原より橋下の方がずっと危険だという意味でもある。石原は単純なファシストだから議会制民主主義下では道化にすぎなかったが、橋下は議会制民主主義を利用しながらほんとうにファシスト政治を実現する可能性がある。

 ちなみに、この石原の橋下批判が掲載された「WiLL」が発売されてから、一ヶ月が経過するが、今のところ、橋下が反論した気配はない。恫喝すれば黙らせられるような相手にしか喧嘩を売らない。これもまた、橋下の狡猾なところである。

(田部祥太)



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