2015年10月1日木曜日

元亀3年(1572)11月~12月 北近江で信長軍と退治する朝倉義景、越前に帰る。 武田勝頼、遠江二俣城陥落 三方が原の戦い(武田軍、徳川軍に勝利)  [信長39歳]

萩 2015-09-28 鎌倉
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元亀3年(1572)11月
・三好三人衆に味方していた淡路の安宅信康、足利義昭に降り、信長からも許される。
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・フランス、~ 1573年6月(8ヶ月間)、王弟アンジュー公アンリ、ラ・ロシェル(新教徒の拠点)を攻囲、攻略失敗。
カルヴァン派、聖バルテルミーの虐殺後、急激に蘇る(王権に真っ先に挑戦したのがラ・ロシェル)。
南フランス諸都市(モントーバン、ニーム、オーブナス、サンセール)もシャルル9世の権力に対して硬化。
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・メヘレン、ズトフェン、ナールデンの虐殺。
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11月3日
・浅井七郎を先鋒とする浅井・朝倉勢、小谷城より出撃。秀吉の守る虎御前山・宮部砦を攻撃するが、反撃にあい退却。
木下藤吉郎善戦。勘当中の信長近習滝川彦右衛門・虎御前山城に居残り戦功を挙げる。
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11月5日
・朝倉義景、美濃安養寺へ、武田信玄の遠江国出馬と遠江・三河の状況を山崎吉家に注進した内容を披露(「安養寺文書」)。
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11月9日
・武田信玄、木曾の山村良利・良候に美濃の中津川周辺に夫々300貫文づつ宛行う。
12日、美濃の遠藤加賀守勝胤へ、遠江国過半の平定と明春の岐阜攻略予定を通知。
 「当方へ荷担の由、祝着に候、当国過半存分に任せ候、岩村へ人数移し候条、春に至っては濃州へ出馬せしむべく候」(「鷲見栄造氏所蔵文書」)。
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11月14日
・美濃東部侵入の秋山信友率いる武田別働隊、岩村城(恵那郡岩村町)陥落。遠山景任夫人との再婚を条件に城を奪取。
12月、明智城遠山景行、苗木城遠山勘太郎、撃破。
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11月18日
・地震あり。
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11月19日
・武田信玄、越前朝倉義景に9ヶ条の条目を送り、遠江出陣の近況と今後の作戦計画を報じる。  二俣城陥落は近い、美濃岩村城は陥落、本願寺より朝倉氏に出陣要請があった、信長の謀略に対処するため相互に誓紙を交換したい、郡上八幡の遠藤氏に岐阜に対する砦を築かせた、来年5月に改めて出馬を依頼。

二俣城包囲の山県昌景も三河作手城主奥平定能に書状。二俣城の水の手を壊したので城兵は天竜川の水を汲み始めたがつるべ縄を切った、別動隊として海賊衆が田原(田原市)に放火した、岩村城の秋山虎繁と談合して出陣すべき、近江日野の蒲生賢秀が朝倉氏に同心した、など伝える。

信玄は、遠江の奥山・天野・松井宇治らに知行宛行状を与え、美濃の遠藤・藤瀬・三村氏に支持を与える。
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11月19日
・松永久秀、大和片岡近辺へ出撃、放火。翌日、大和片岡近辺を放火。
22日、大和国多聞山城より出撃、今市を放火。筒井順慶軍が撃退、少々の損害。  
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11月20日
・信長と上杉謙信が同盟(日付は11月7日とも)。信長、武田信玄との敵対を上杉謙信に告げ、参戦呼びかけ。
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11月23日
・将軍義昭、日蓮宗の不受不施の制法を承認。
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下旬
・信長、遠州表より武田信玄の遠州二俣城包囲の報を受け、家老衆佐久間信盛・平手汎秀・水野信元らを大将とする援軍を遠州へ進発させる。
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12月1日
・毛利輝元、年寄衆・奉行衆に対し11ヶ条の掟を制定。
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12月2日
・信長、尾張の伊藤惣十郎を尾張・美濃両国の「唐人方」(輸入)・国産呉服方の商人司とし、たとえ売子でも信長収取分に対して「夷子講」の裁許をさせ、他国商人も尾張・美濃国両国で商売する場合は届け出ることとする旨を通達(「寛延旧家集」)。
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12月3日
・朝倉義景、兵を北近江から退き、越前に帰る。
信玄は義景帰陣を知り、激しくこれを非難。
 「御手の衆、過半帰国の由、驚き入り候。おのおの兵を労(いたわ)ることは勿論に候。しかりといヘども、此節、信長滅亡の時刻到来候のところ、ただ今寛宥(かんゆう)の御備、労して功無く候歟。御分別過ぐべからず候。」(「伊能文書」)。
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12月3日
・岩村城主遠山景任(36)、歿。上村合戦で受けた槍傷が原因といわれる。
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12月6日
・細川藤孝(幽斎)、三条西実枝に誓書を提出して古今伝授を受ける。
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12月10日
・~1573年7月12日(7ヶ月の籠城戦)、アルバ公のスペイン軍(アルバ公子ドン・フェデリコ)、反乱側中心のラント州に進攻、ハーレム市包囲。アルバ公のスペイン軍3万。ハレム側男子3千・婦人部隊300・工兵隊1千。
オラニエ公ウィレム1世、援軍2千を出して牽制するが野戦で殲滅される
(サン・バルテミーの虐殺によりユグノー勢力失脚、フランスの援助を受けられなくなり、オラニエ公は軍隊を解散、ホラントに逃れ海乞食に合流。カルヴァン派に改宗し、ここから反乱を指揮。)
1573年7月、反乱側降伏。
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中旬
・織田援軍3~4千(平手汎秀、佐久間信盛、水野信元)、浜松城着。総勢1万1~2千。
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12月19日
・武田勝頼、遠江二俣城を水の手を断ち、落とす。 二俣城中根正照、降伏。
21日、武田信玄、諸軍に出陣支度命ず。この日、美濃郡上一円の豪族遠藤加賀守、信玄方につく。
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12月19日
・顕如、浅井長故に武田信玄の出陣を報じ、黄金20両を贈る。
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12月21日
・家康、信玄西進の報を聞き、浜松城で信長援軍の平手汎秀らと軍議。
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12月22日
・武田信玄2万5千、合代島集結、進発。天竜川渡る。
浜松城の前を通りすごし、東三河に進出する作戦(信玄は家康を浜松城から誘き出す作戦)。
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12月22日
・三方が原の戦い。武田軍が徳川軍に勝利。
家康、自軍全軍と信長援軍率い浜松城出て、三方ヶ原台地南端小豆餅付近で待機。
後、全軍浜松に引かせ城を背に迎撃態勢。
後、西に向かう信玄軍追尾。
武田勢、攻撃仕掛け、家康浜松城退却。織田方援将平手汎秀、戦死。徳川勢中根正照・本多忠真(忠勝叔父)討死。
徳川勢;中央石川数正隊、左翼家康旗本・織田援軍、右翼酒井忠次隊。
武田勢;魚燐の陣形、一段:中央小山田信茂、右翼山県昌景、左翼馬場信春、二段:勝頼、内藤昌豊、三段:信玄旗本、後備え穴山信君。
勘当中で徳川家康庇護下にあった信長小姓衆(長谷川橋介・佐藤藤八・山口飛騨・加藤弥三郎)、討死(「信長公記」5)。
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12月23日
・武田信玄、浜松城攻撃せず、三方ヶ原台地北西刑部に宿陣。遠江刑部で越年(1月23日迄)。
24日、武田信玄、遠江三方ヶ原での戦勝を越前の朝倉義景に報じる。
28日、朝倉義景の北近江撤兵を非難。 この日、秋山信友、美濃上村で織田軍を破る。
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12月29日
・北條氏政、下野多功原で佐竹・宇都宮両氏に敗れる
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