2016年1月27日水曜日

木の実   (茨木のり子)

材木座海岸 2015-12-28
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木の実    茨木のり子


高い梢に
青い大きな果実が ひとつ
現地の若者は するする登り
手を伸ばそうとして転り落ちた
木の実と見えたのは
苔むした一個の髑髏である

ミンダナオ島
二十六年の歳月
ジャングルのちっぽけな木の枝は
戦死した日本兵のどくろを
はずみで ちょいと引掛けて
それが眼窩であったか 鼻孔であったかはしらず
若く逞しい一本の木に
ぐんぐん成長していったのだ

生前
この頭を
かけがえなく いとおしいものとして
掻抱いた女が きっと居たに違いない

小さな顳顬(こめかみ)のひよめきを
じっと視ていたのはどんな母
この髪に指からませて
やさしく引き寄せたのは どんな女(ひと)
もし それが わたしだったら……

絶句し そのまま一年の歳月は流れた
ふたたび草稿をとり出して
嵌めるべき終行 見出せず
さらに幾年かが 逝く

もし それが わたしだったら
に続く一行を 遂に立たせられないまま


        「本の手帖」1975年1月号
        ((第五)詩集『自分の感受性くらい』(1977年3月 花神社)所収)


 「四海波静」(「ユリイカ」1975年11月号)とほぼ同時期、詩人49歳の作品。

 「木の実」の締めくくりについて詩人はこう記している(「自作について」(『現代の詩人7/茨木のり子』中央公論社、1983)。

 「書きはじめて頓挫し、草稿はそのままにしておいた。時を置いてまた読み返し、三、四行書いて頓挫し、またそのままにしておくというくりかえし。
 戦後間もなくのことだったら、日本帝国主義を弾劾して事足れりだったかもしれない。しかし私の年齢は、と言うべきか、私の今まで感じ考えてきたことの総和は、と言うべきか、いずれにしてもありきたりの日帝批判に陥ることを許さなかった。
 激越な言葉を連ねれば連ねるほど浅薄になった。では、どう言えるだろうか? 思いは複雑に錯綜して、そして言葉は出てこなかった。
 詩を書くとき、すんなり出来あがることは珍しく、常に烈しい内部葛藤を伴うが、「木の実」の場合、それが一層熾烈だった。
 一年たっても二年たっても三年たっても一筋の詩を成すことができなかった」

 「生涯かかっても、私には最後の一行を置くことはできないかもしれない、たぶんそうなるだろう、それならば「遂に成らず」というままで投げ出すしかない。・・・
 言いつくせなかったせいだろうか、青い頭蓋骨は私の胸に棲みついてしまい、折にふれ、いまだに対話を挑んでくる存在と化した」

 戦死者がまとわりついてくる、そういう感じだったようだ。
 そして、「四海波静」に繋がってゆく。





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